「連濁はいつ起こるのか?」


2001.02.03 更新)

 このページは連濁にたいする通説の紹介とそこにみられる問題点を簡単に述べています。

 01.はじめに
 02.連濁とは何か

   目次(「連濁はいつ起こるのか?」)へ  


1.はじめに

 日本語には連濁という世界の言語にはみられない非常に珍しい言語事象があります。日本語を母語とする我々にとってはこの連濁現象は空気のような存在で、ことさら意識の上にのぼることはありません。しかし「連濁がいつ、なぜ、どのようにして起こるのか」という問題は大変むづかしく、そのためこの問題を日本の言語学者・国語学者・日本語起源論者が今まで避けてきたのは明らかです。しかし連濁の問題がどんなに難問であるとしても、このまま永遠に解けない難問として放置しておいていいものではありません。なぜなら日本語起源論を解くためには連濁や動詞活用などの未解決の問題を避けて通るわけにはいかないからです。連濁や動詞活用といった世界の言語にはみられない日本語だけに存在すると考えられている、めずらしい言語事象を解いてこそ他の諸言語との比較がはじまるはずだからです。つまり連濁や動詞活用といった難問題をまず解決したのち、日本列島の回りに存在するそれらの諸言語と比較するという手順をふみ、日本語起源論に迫っていくことが「比較言語学」とよばれる学問の教える手順でもあるはずです。ところが巷には連濁の問題ひとつ解かずに日本語起源論を解いたという考察があふれています。このような片手落ちは(比較)言語学者が声を大にして警鐘をならすべきと思われます。しかしその当の比較言語学者は音韻対応の法則を使ってインド・ヨーロッパ語族の証明がいかになされてきたかということを述べるばかりで、まともに日本語起源論を考えようとしないのはどうしたことでしょうか。西洋の学問をありがたがり、その受け売りの学問ばかり紹介していては日本語起源論が解けるわけがありません。つまりこのように考えてくれば、連濁の問題がいかに難しいとしても日本語起源論を解くためには連濁の問題を解かねばならないということです。
 私はこれから古来からの難問である連濁現象を解いていきたいと思います。そしてその考察の中で、連濁の問題がいかに日本語起源論と深くつながっているかを、つまり日本語がオーストロネシア語族と(単一純血)同系であるかを皆さんに示していきたいと思います。

2.連濁とは何か

 連濁は「二つの語が結合して一語を作るとき、あとの語の語頭の清音が濁音に変わること。・・・(以下省略)」(日本大辞典刊行会編 20巻 昭和51:p513)で、日本語を母語とする私たちにとってはいまさら説明する必要もないといっていいでしょう。たとえば「山」と「川」の複合語を考えると次のような二つの複合語が存在します。(例はどちらも日本大辞典刊行会編 19巻 昭和51 p549

「山川(やまかわ):山と川。山や川。
 山川(やまがわ):山の中の川。山中を流れる川。山から流れ落ちる川。」 

 いま上にあげた例でわかるように、「山と川」を意味する複合語の場合は「やまかわ」と発音して決して濁ることはありません。それに対して「山の中の川」を意味する複合語の場合は「やまがわ」と発音してかならず濁ります。このように複合語の後項である「川」が前者は清んで発音され、後者は濁って発音されます。つまり連濁とはただたんに複合語の後項が濁ることではなくて、清むときとは違った意味になることです。つまり語が後続されるとき、それによってできた複合語の発音と意味が清むときとはちがった関係になることです。ところで私たちははじめて耳にするような複合語であっても、ほとんどの場合苦もなく清むか濁るかを瞬時にあやまりなく発音することができます。本当に不思議なことですが、私たちはどうしてこのような器用な芸当ができるのでしょうか。いったい「やまかわ」が清み、「やまがわ」が濁るという違いは何に由来しているのでしょうか。
 それではこれから誰にも納得できるように、一段一段階段を踏みはずさないように「連濁の問題」を解いていこうと思います。