「サ行子音の問題を考える」
(2012.4.17 更新)
1.「雀」の鳴き声をたどるとこのページは「「須須」と鳴いた雀はいま」をのせています。
現在の雀の鳴き声はチュンチュンです。しかし雀の鳴き声の変遷を丹念にたどった、山口氏の「お口をそろえてちいぱっぱースズメ」(山口仲美 1989:110-133)にはシウシウやジジといった珍しい鳴き声がみられます。そしてその小考を読めば、雀の鳴き声が「「シウシウ(シューシュー)」から「チューチュー」へ、そして「チュンチュン」へと」(1)変わってきたことがよくわかります。このように雀の鳴き声の表記が江戸時代に入り、シウシウからチウチウへと変わることは亀井氏が「すずめしうしう」の論考(亀井 昭和59:447-464)で明らかにされたところです。ところで「雀」の語は鳴き声の「須」の反復(連濁)にメが接尾(2)されてできたと考えられます。そこで雀の鳴き声は上代で「須須」、室町時代末期ころまでシウシウ、その後チウチウを経て、現在のチュンチュンへとかわったと考えることができます。また『日本語小文典』(上)(1620年)にはシとチがそれぞれXi(=i)とChi(=ti)で表記(3)されているので、その当時のシ音とチ音はiとtiと考えられます。そこで雀の鳴き声の表記がそれぞれsusu、iuiu、tiutiu、tuNtuNの音を表わしていると考えると、s→→tのような変化を考えなければなりません。しかしt→の変化は摩擦音化と呼ばれる世界中の言語によくみられる変化ですが、s→→tのような変化はとても考えることはできません。
我々の耳が上代人の耳と違っていたとか、雀の鳴き声が現代と上代で違っていたとか、そういうことはとても考えられません。そこで「須須」からシウシウへ、シウシウからチウチウへの変化は鳴き声の変化ではなく、表記の変化であったと考えるのが理に叶っているでしょう。しかし上に紹介した山口氏や亀井氏の文章からは雀の鳴き声の表記の変化のありようはよくわかるのですが、「なぜこのように表記がかわったのか?」という疑問にはほとんど答えがなく、心は満たされません。
そこでこれから雀の鳴き声の表記の変化の謎を解いていきたいと思います。
2.サ行音はどのように変化したのか
上代のサ行頭子音については、有坂氏は「本郷佐字音と本郷沙字音とは別音であり、本郷佐字音は現代の/s/の上代音で[ts]、沙字音は現代の//の上代音で[]の音」(4)であろうと考えられました。しかし平安時代初期のサ行頭子音はであるという馬淵氏の反論(馬淵 昭和46 :67-9)もあり、上代のサ行頭子音がtsであったか、であったか、いまだに決着がついていません。
そこでまず森氏の中国音韻論に基づいた考察結果をみてみることにします。森氏は上代サ行のス・ソ甲、シ・セとサ・ソ乙(甲・乙は上代特殊仮名遣い)をそれぞれ「@[su]・[so] A[ti]・[te] B[ts]・[ts]」(5)と推定されています。そこで現在のカ行の語頭子音が有気音のkh(6)であることから、サ行の前身であるタ行の語頭子音も有気音thであったと考えてみます。そうするとそのthが破擦音のtsへ、その後tsは前舌母音i・eの影響で口蓋化を起こしtに、その後摩擦音のに変化したと考えることができます。
そこで現在までのサ行各音の変化は、次のように考えることができるでしょう。
ス・ソ甲(後舌的):thu/tho→tsu/tso→su/so
シ・セ(前舌的):thi/the→tsi/tse→ti/te(→i/e→i/se)
サ・ソ乙(中舌的):th/th→ts/ts(→s/so)
*森氏のtsとtの表記はそれぞれtsとtに変えました。
*( )内は森氏の推定音以後の変化。
*ts:無声歯茎破擦音。t:無声硬口蓋歯茎破擦音。s:無声歯茎摩擦音。:無声硬口蓋歯茎摩擦音。は現代音のア。また(オ乙)は現代音のオに変化したと考えます。
*1600年頃の都のシ(i)は前舌母音iの影響が強く、現在もiにとどまり、セ(e)はその後seに変化したのに対して、九州方言などでシェ(e)として残存していると考えられています(外山 昭和47:188-9)。
このようにサ行音はタ行有気音の破擦音への変化(thV→tsV。V:母音)、その後の摩擦音への変化(tsV→sV)としてうまく説明できるので、サ行頭子音は上代のtsにさかのぼると考えることができそうです。しかしサ行頭子音は本当に上代のtsにさかのぼるのでしょうか。
そこでこの考えの正しさを検証するために、現在から上代へとサ行音をさかのぼってみてみることにします。
3.サ行音をさかのぼる
はじめに現在のサ行音を考えます。現在のサ行音はサ[s]・[i]・[su]・[se]・[so]ですが、「現代でも、西関東〜中部地方等、〔語頭破擦音/語中・語尾摩擦音〕という様な対立を示す方言が、しばしば認められ」(奥村 昭和47:124)ます。またザ行頭子音は一部の方言でsの有声音である摩擦音zではなく、tsの有声音である破擦音dzがあらわれます。そこで現在の方言にみえるザ行頭子音dzが一昔前のザ行頭子音の残存と考えると、一昔前、つまり江戸時代のサ行頭子音はtsであったと考えることができます。
そこで江戸時代のサ行音を見てみます。江戸後期の言葉を写したとみられる洒落本・滑稽本・人情本などに、「おとつさ〇ん、小せ〇へ(浮世風呂) (改行) お吉さ〇ん(浮世床)」(7)など、tsaやtseの音を表記した「さ〇」や「せ〇」がみられます。そこで少なくとも江戸時代後期の江戸ではサ行頭子音の一部がtsであったと考えることができるでしょう。
それではさらに遡って、室町時代末期のサ行音の状態をみてみることにします。当時のサ行音については、キリシタン宣教師であったロドリゲスの『日本語小文典』(上)(1620年)の記述(池上 1993:57,70)が参考になります。
「Ca(さ)またはsa(さ)、Co(そ)またはso(そ)、Cu(す)またはsu(す*) (改行) 〔の〕音はそれぞれ、(改行) Za(ざ)、Zo(ぞ)、Zu(ず) (改行) に変わり、Za,Zo,Zu と表記する。」
「(前略) 軟らかいSa,So,Su〔のS〕がなく、(中略) Ca,Co,Cu〔のC〕だけであって、(中略) しかし、あまり意識的に発音し、そのため度がすぎて逆にCの音*になってもならない。いずれにしても、われわれもCa,Co,CuのかわりにSa,So,Suを用いることにするが、発音するときはここに述べたことに留意されたい。」
*軟らかいS音:ラテン語やポルトガル語のs(池上 1993:70)。C:ts(同書:270の訳注)、例:Canzan(散々)、Camazama(様々)(同書:70)。
上の記述から1600年頃の都のサ行頭子音(8)はsではなく、tsに近い音であったと考えられるでしょう。
さらに時代を遡り、平安時代のサ行音を見てみることにします。平安時代初期のサ音については、『在唐記』(慈覚大師円仁858年)の記述(馬淵 昭和46:67)が参考になります。表にまとめると、次のようになります。
梵音 |
注音 |
a(ta) |
本郷佐字音勢呼レ之。 |
a(a) |
以二本郷沙字音一呼レ之。(以下、略)。 |
a(a) |
以二大唐沙字音一勢呼レ之。(以下、略)。 |
sa(sa) |
以二大唐娑字音一勢呼レ之。(以下、略)。 |
*梵音の( )内は推定音。
*佐字:歯頭音精母箇韻(ts)。沙字:歯上音生母麻韻(a)。娑字:歯頭音心母歌韻(s)。
上表の注記にみえる「勢」を音が近いと解釈すれば、梵音のaは本郷佐字音に近く、aは本郷沙字音と同じで、aとsaはそれぞれ大唐沙字音aと大唐娑字音sに近いことがわかります。また梵語の字母順と五十音図の字母順の比較から梵音のaはサ音に該当する(9)と考えられます。そして梵音aの注音が「本郷佐字音勢」であることを考えると、当時の本郷佐字音(サ)にはta よりもtsa が、本郷沙字音(シヤ)にはaが推定できるでしょう。また「上代に於けるサの萬葉假名としては、佐は最も普通に用ゐられる字體であるが、沙の用例は比較的少い」(有坂 昭和32:150)ことから、当時のサはaよりはtsaであったと考えることができるでしょう。
ところでもし平安時代初期のサ音がtsaであったとすれば、ここまでの考察からサ行頭子音は平安時代から江戸時代後期まで連綿とtsだったと考えることが可能でしょう。しかしそう考えると、現在なぜツァ行音(ts)で始まる言葉があまりにも少ないのでしょうか。たしかにツァは一部でtsa→sa、また一部の方言でtsa→dzaの変化をしたと考えると、関東地方などに「オトッツァン」などの言葉がわずかしか残っていないこともそう不思議なことではないと思われます。しかしそのように考えてみても、江戸後期にみられたツァ音は九州地方などのシェ音の多さと比べると、あまりにも少ないのが事実です。ではなぜツァ行音の言葉はあまりにも少ないのでしょうか。なぜツァ音は新しく感じられるのでしょうか。ささいな疑問ですが、大事にするべきでしょう。
そこで上代のサ行音はどのような音であったのか、この難しい問題を解く鍵となる雀の鳴き声について、次に考えることにします。
4.なぜ雀の鳴き声はシウシウからチウチウへと変化したのか
よく知られているように上代語の「父」は「知知」、東国方言では「志志」(10)と表記されています。そこで「知」と「志」の表記の比較から上代のチがti、シがtiである(11)と考えることができます。また中世のチ・シは朝鮮板『伊路波』(1492年)ではti・si(=i)(12)、『日葡辞書』(1603年)ではchi(=ti)・xi(=i)と表記(13)されています。そこでチは上代から『伊路波』が刊行された1500年頃まではti、その後『日葡辞書』が刊行された1600年頃にはtiであったと考えることができます。またシは『伊路波』が刊行された1500年頃にはtiから変化したiであったと考えることができるでしょう。
そこでチ・シの表記と発音の関係をわかりやすくまとめると、次のようになります。
上代 |
『伊路波』 |
『日葡辞書』 |
現在 |
||
チ |
表記 |
知 |
ti |
chi |
チ |
発音 |
ti----→ |
ti-----→ |
ti-----→ |
ti |
|
シ |
表記 |
志 |
si |
xi |
シ |
発音 |
ti---→ |
i@---→ |
i------→ |
i |
*@:中期朝鮮語では「シの場合は、特に[]を表わすべき諺文が存在しないために」(濱田 昭和45:83)iと推定。
さてチ・シの表記と発音の関係がわかったので、雀の鳴き声の表記の変化を考えてみます。雀の鳴き声をtiutiuとすると、その鳴き声の表記は第1節でみたように上代では「須須」、平安時代以降シウシウ、その後江戸時代に入ってチウチウになっています。またシ音は『伊路波』時代までにはtiからiへ変化していたと考えられるので、平安時代の雀の鳴き声tiutiuを表記していたシウシウは『伊路波』時代頃にはiuiuをあらわすようになったと考えることができるしょう。またチ音は『日葡辞書』時代までにtiからtiに変化していたので、雀の鳴き声tiutiuは江戸時代に入るとシウシウではなく、チウチウの表記が選ばれたと考えることができるでしょう。
そこでこの考えをまとめると、次のようになります。
上代 |
平安時代--室町時代 |
江戸時代以後 |
現在 |
|
表記 |
須須@--→ |
-----→シウシウ----→ |
チウチウ--→ |
チュンチュン |
発音 |
susuA |
tiutiu |
tiutiu |
tuNtuNB |
*@:「「庭須す受ず米め」(記雄略)」ではなく、連濁のない「「雀 須々米」(和名抄)」(ともに上代語辞典 1967:389)で考えます。
*A:森氏の推定音(森 1991:125)。
*B:雀の鳴き声はtiuNtiuN(シウシウ→チウチウ)→tuNtuN(チュンチュン)の変化を想定しています。ただし、今回はtiutiuで考察。N:語末鼻音。N:撥音。
このように雀の鳴き声シウシウがチウチウにかわった謎は江戸時代までのシ音とチ音の変化にあると考えることができます。しかしまだ謎は残ります。なぜなら上代のス音を森氏の推定のようにsuと考えると、上代の雀の鳴き声はsusuと考えられます。そうすると雀の鳴き声は古今東西かわりがないと考えられるにもかかわらず、その鳴き声はsusuからtiutiuへと変化したことになります。それにt→は世界中の言語によくみられる摩擦音化と考えることができますが、(s→)→tのような変化はとても考えられません。
そこで雀の鳴き声の表記が「須須」からシウシウへ変わった謎を解くために、5世紀の稲荷山鉄剣銘にみえるサ音を見てみることにします。
5.稲荷山鉄剣銘のサ音を考える
471年と推定される稲荷山鉄剣銘と日本書紀におけるそれぞれのサの表記は次のようになっています(14)。
表記 |
韻目 |
中古推定音 |
|
稲荷山鉄剣銘(471年) |
差/沙 |
歯上音初母麻韻/歯上音生母麻韻 |
ha/a |
日本書紀α/β群(720年) |
佐/沙 |
歯頭音精母箇韻/歯上音生母麻韻 |
ts/a |
*佐字は日本書紀歌謡α・β群ともに使用が最も多い。α群ではほかに左字(精母ts)、作字(精母tsk)、娑字(心母s)があり、β群には沙字・差字や瑳字(清母tsh)など(森 1991:190-1)が、『古事記』(712年)には佐字・左字・沙字などが使用されています(上代語辞典 1967:894)。
*:奥舌母音(歌韻(平声)、秤C(上声)、箇韻(去声))。k:鐸韻。以下、歌韻を代表字とする。a:前舌的ア(麻韻)。:そり舌閉鎖音。:そり舌摩擦音。ts:歯茎破擦音。
上表からわかるように5世紀のサ音に破擦音のhaと摩擦音のaが、8世紀初めのサ音に破擦音のtsと摩擦音のaがみられます。ところで日本書紀では「「ヤ」と「ワ」とを除いた他の「ア列」の音節をみると、奥舌母音[]が圧倒的に多用されて」(森 1991:23)いるので、8世紀初めのサの母音は麻韻aではなく、奥舌母音であったと考えることができるでしょう。また中古音では「<端>系・<知>系・<精>系・<荘>系・<来>母では、〔歌〕韻と〔麻〕韻のうちどちらか一方としか結合しない」(15)という声母と韻母の結合制約があります。そこで5世紀と8世紀初めのサ音が同じと考えると、声母と韻母の結合制約から5世紀のサ音は麻韻aではなく、歌韻(代表字)の佐字(ts)や娑字(s)で表記されることが期待されます。しかし稲荷山鉄剣銘の表記は麻韻aの差字(ha)と沙字(a)となっているので、5世紀のサ音はtsやsではなく、haやaに近く聞きなされた音であったと考えることができるでしょう。そこで疑問がでてきます。稲荷山鉄剣銘のサ音の表記には佐字や娑字が期待されるのに、ソリ舌音で母音の合わない差字や沙字がみられるのはなぜでしょうか。また差字と沙字の音の差が大きすぎるのはなぜでしょうか。そこで次にこの問題を考えることにします。
上の疑問を解くために、古事記や日本書紀にみえる本郷佐字音と本郷沙字音との関係を考えてみます。有坂氏は本郷佐字音と本郷沙字音との関係について、「萬葉假名としての用法から言へば、佐と沙とは古事記以來全く同價値の文字であり、兩者が相異なる音を表してゐたといふ形跡は少しも存在しない。併しながら、佛典を讀むに用ゐる呉音では、古來佐はサ、沙はシヤであって、即ち兩者の間には直拗の區別がある」(16)といわれました。また馬淵氏は「サの音は一種で、その音価は、[t][ts][]のどれかとする。しかし、当時の万葉がなの用法で、サの音に二種あった(ちょうどコに二種あったように)というあとを示すような使い分けを発見することは困難なようである」(17)とみられていました。そこで5世紀と8世紀のサ音が同じであると考えると、上の両氏の言葉から5世紀の稲荷山鉄剣銘にみられる差字と沙字のあいだには音の差がない、つまり差字音と沙字音は同じ音であったと考えることができるでしょう。しかし中古音の推定によれば、差字音と沙字音は明らかに違う音です。そこでこの矛盾を解決するために、『在唐記』(858年)の梵音aとaに対する注音をみてみます。するとそれぞれの注音は本郷沙字音と大唐沙字音勢となっていて、沙字音には大唐音と本郷音の二つがみられます。そこで佐字音にも本郷音と大唐音の二つを考え、大唐佐字音をts、本郷佐字音をTsiと考えてみます。そうするとiの影響によってTsiの響きがha(大唐差字音)やa(大唐沙字音)に近く聞こえます。つまり5世紀の稲荷山鉄剣銘ではTsi(本郷佐字音)の母音との違いよりは声母(子音)の響きを重視して、ソリ舌音の差字と沙字が選ばれたと考えることができるでしょう。また差字と沙字の2表記がみられるのは本郷佐字音Tsiがha(大唐差字音)とa(大唐沙字音)のあいだにあるような音であったためと考えることができるでしょう。そして日本書紀の場合は大唐佐字(ts)と同じ母音 をもつ本郷佐字(18)の表記が選ばれ、また稲荷山鉄剣銘と同じ理由から大唐沙字(a)の表記が選ばれたと考えることができるでしょう。このように考えると、5世紀の稲荷山鉄剣銘では差字と沙字で、8世紀の日本書紀では本郷佐字や大唐沙字で、ただ一音のTsi(19)を表わそうとしたと考えることができるでしょう。
ここまでの考えは、次のようにまとめることができます。
時代 |
大唐音 |
本郷音(佐/沙) |
大唐音 |
参考[大唐音] |
||
5世紀 |
差(ha) |
サ/シヤ (Tsi) |
沙(a) |
麻韻 |
ソリ舌系 |
詐字(a) |
口蓋音系 |
者(tia)・車(thia)・ |
|||||
8世紀はじめ |
佐(ts) |
破擦音tsa系 |
借字(tsia)・且字(tshia)・ |
|||
歌韻 |
破擦音ts系 |
嗟(tsh)・娑(s) |
*大唐音の( )内は中古推定音。通説ではシヤはa。
*本郷音Tsiに近い大唐音を参考にあげておきます。
*稲荷山鉄剣銘の場合、麻韻字のなかでは差字音や沙字音の響きが、本郷音Tsiの響きにより一層近かったためと考えられます。
6.雀の鳴き声はsusuだったのか
ここまでの考察で上代のサ音はTsiと考えることができたので、上代の雀の鳴き声の表記「須須」について考えることにします。上代の「宿禰」の表記を見てみると、稲荷山鉄剣銘では「足尼」(足字の中古音:精母燭韻tsiok)、古事記では「須久泥」(須字:心母虞韻siu)、日本書紀では「須区禰」・「宿禰」(20)の表記がみられます。そこでこれらの表記の変化から村山氏は「5世紀のスクネの表記足尼tsiukneが8世紀にsukuneへと変ったことからts>sの変化が5世紀から8世紀(及びその後)にかけて進行していた」(村山 1988:18-9)と考えられました。しかし前節の考察から8世紀はじめのサ音はTsiであることがわかったので、5世紀から8世紀にかけてサ行頭子音が破擦音tsから摩擦音sへ変化したと考えると矛盾(21)が生じます。そこでこのような矛盾を回避するために、前節で大唐佐字音をts、本郷佐字音をTsiと考えたように、8世紀はじめの大唐須字音をsiu、本郷須字音をTsiu(22)と考えてみます。
ところで上古の韻母iukはioukから、中古のiokへ変化(23)したと考えられています。そうすると5世紀の「足尼」の足字(上古音tsiuk)は8世紀以前に中古音のtsiokに変化したと考えられます。そこで5世紀と8世紀のス音は同じ音であると考えてみます。すると中古の足字音(tsiok)は8世紀はじめのTsiuとは母音の響きが違い、足字ではTsiuを表わせなくなったと考えられます。そこで日本書紀α群ではTsiuの韻母が同じである虞韻の須字(siu)や屋韻の宿字(siuk)が用いられるようになったと考えることができるでしょう。つまり稲荷山鉄剣銘の「足尼」の表記が「須区禰」や「宿禰」へと変わったのは、ス音が5世紀から8世紀にかけてtsiuからsuに変化したためではなく、足字の上古音(tsiuk)から中古音(tsiok)への変化に原因があったためであると考えることができるでしょう。
そこでこの考えをまとめてみると、次のようになります。
大唐音 |
本郷音(須) |
参考[大唐音] |
||||
稲荷山鉄剣銘 |
足(tsiuk) |
ス |
陰声韻尾 |
破擦音ts |
虞 韻 |
取(tshiu) |
古事記 |
須(siu) |
ソリ舌音 |
芻(hiu)・數(iu) |
|||
口蓋音t |
主(tiu)・輸(iu) |
|||||
入声韻尾 |
破擦音ts |
燭 韻 |
足(tsiok)・促(tshiok) |
|||
日本書紀 |
口蓋音t |
燭(tiok)・觸(thiok)・ |
||||
宿(siuk) |
屋 |
祝(tiuk)・叔(iuk)・ |
*大唐音の( )内のローマ字は中古推定音。通説ではス音はsu。
*本郷音Tsiuに近い大唐音を参考にあげておきます。
*参考音のなかでは須字音(虞韻iu)や宿字音(屋韻iuk)の響きが本郷音Tsiuの響きにより一層近かったためと考えられます。
*「日本語の「ウ列」母音にはこの両韻(筆者注:虞韻iuと尤韻iu)の聴覚印象が近かったものと推測される。」(森 1991:37)。屋韻はiuk(同書:292)でなく、iukとしました。
ここまでの考察から上代の雀の鳴き声はTsiuTsiuと考えることができるでしょう。そしてTsiuのiの影響でtiuに変化したと考えると、上代の雀の鳴き声の表記が「須須」(TsiuTsiu)からシウシウ(tiutiu)へ、その後チウチウ(tiutiu)から現在のチュンチュンへと変わった(24)ことをうまく説明できます。
7.平安時代以後、室町時代までのサ音はどんな音だったのか
ここまでの考察によって上代のサはTsi、スはTsiuと考えることができました。そこで平安時代以後、室町時代終り頃までのサ音をみていくことにします。
各種梵音に対する注音(有坂 昭和30:471-7)をまとめてみると、次のようになります。
発音 |
在唐記@ |
悉曇字記A |
悉曇三蜜鈔B |
参考[大唐音] |
|
a/ha |
渣(a)/差(ha) |
||||
a(a) |
大唐沙字音勢 |
沙(a) |
|||
ts/ |
作可反(ts)/ |
左(ts)/ |
佐(ts)/ |
||
s(sa) |
大唐娑字音勢 |
娑(s) |
|||
ta/ |
止下反(ta)/ |
||||
ti(a)/ |
本郷佐字音勢/- |
||||
tsia/tshia |
借・嗟(tsia)/且(tshia) |
||||
sia |
寫(sia) |
||||
tia/ |
者(tia)/ |
者・遮(tia)/ |
|||
ia |
捨(ia) |
||||
Tsi |
|
本郷佐字音(サ) |
|||
(a) |
本郷沙字音(シヤ) |
*( )内は中古推定音。最左項の発音の( )内は梵音転写ローマ字。
*@:慈覚大師円仁の注音より(『在唐記』858年)。
*A:唐僧智廣の注音より。
「ca 者字(止下反音近作可反) (改行) cha 車字(昌下反音近倉可反云々)」(有坂 昭和30:475)。
止下反の反切は「三等専属の切字(筆者注:t)を二等専属の韻字(筆者注:麻韻a)と結合した無理な反切」(同書同頁)。
*B:諸家の注音より(『悉曇三密鈔』:浄厳1682年)。
「ca 者・遮・左○ (改行) cha 車・磋○・瑳○・奢+多・手偏に車)(有坂 昭和30:476)。
*:(奥舌的ア)。a:麻韻(前舌的ア)。tia(推定音はiaとも)の有気音(hia)をthiaと表記。
ここでも平安時代初期のサ音(本郷佐字音)を上代と同じTsiと考えます。平安時代初期の『在唐記』に梵音aが借字(tsia)などの麻韻aではなく、歌韻(代表字)である本郷佐字音勢で表記されていることから、梵音の母音a(→注9)は麻韻aよりも本郷佐字音の母音に近かったと考えることができるでしょう。また『悉曇字記』に「ca 者字(止下反音近作可反)」とあります。そこで梵音aはtia(者字)ではあるが、その母音はいま考えたようにta(止下反)の母音aよりはts(作可反)の母音により近かった(25)と考えることができるでしょう。つまり梵音a はtiaではなく、tiにより近かったと考えられます。そこで『在唐記』の「本郷佐字音勢」の注音は梵音aが本郷佐字音とはなおいくらか声母の響き(子音)に違いがある(26)ことを表わそうとしていたと考えることができるでしょう。また梵音a をtiに近い音だったと考えると、『悉曇三蜜鈔』の諸家の注音に、者字・遮字(ともにtia)や左字(ts)がみられることも同じように説明できるでしょう。そして寶月三藏の「ca 左上/突舌(筆者注:上/突舌は割注) cha 車上/絶音(筆者注:上/絶音は割注。以下、略)」(有坂 昭和30:477)の「舌を突く」の注記は、梵音ca(aに同じ)の発音は大唐左字音(ts)を発音する場合とくらべて、舌をより口蓋に近づけて発音することを示唆していると考えることができるでしょう。さらに平安時代末期の『悉曇口伝』(東禅院心蓮1181年入寂)に、「サノ穴事 (改行) 以二舌左右ノ端一付二上?一開レ中呼レa而終開レ之則成二サ音一」(馬淵 昭和46:69)とあります。そこで馬淵氏が「舌の左右の端を上?に付けて、中を呼気を通せば[]の音をなす」(馬淵 昭和46:馬淵氏の訳)と解釈されたのですが、その解釈は間違いといえるでしょう。なぜなら本郷佐字音を通説のtsではなく、Tsiであったと考えれば、「舌の左右の端を上?に付けて、中を開き(空隙に)ア音を発すれば、「則成二サ音一」の字義通りにサの発音Tsiになるからです。このようにサ音をTsiと考えることによって、平安時代初期の『在唐記』から末期の『悉曇口伝』までの梵音に対する記述を無理なく解釈できるでしょう。
次は鎌倉・室町時代のサ行音です。この時代については『鶴林玉露』(1251年)や『書史会要』(1376年)などの唐音対訳資料からチ・ツ音の変遷を考えることができます(27)。亀井氏は「唐音では舌上音(知・徹・澄の諸母)の文字がサ行でうけいれられているが、サ行音を破擦音であるとみるかぎり、それにふしぎはなにもない」(亀井 昭和59:463)と考えられました。また第4節では雀の鳴き声シウシウからチウチウへの変化を解くために朝鮮板『伊路波』(1492年)(→注12)を利用しました。このように唐音資料や朝鮮語資料を用いれば鎌倉・室町時代のサ行音についてもっと詳しく考察できますが、次の江戸時代の考察で代用することにして、今回は省略します。
8.江戸時代以後のサ行音をたどってみると
次に室町時代末期(江戸時代極初期)のサ音をやはりTsiと考えてみます。『日本大文典』(ロドリゲス著 1608年刊)に、都の「○Xe(シェ)の音節はささやくやうにSe(セ)、又はce(セ)に発音される。例へば、Xecai(世界)の代りにCecai(せかい)といひ、Saxeraruru(さしぇられる)の代りにSaseraruru(させらるる)といふ。この発音をするので、「関東」(Quanto)のものは甚だ有名である」(馬淵 昭和46:133)という記述がみられます。また第3節で紹介した『日本語小文典』(上)(1620年刊)には「軟らかいSaがなく、--(中略)--そのため度がすぎて逆にCの音*(筆者注:子音ts)になってもならない」という記述がみられます。そこで上の両文典の記述からTsie はCeとSeのあいだにある音で、Ceはtseに近いTsie、Se はseに近いTsieであると考えることができるでしょう。そして都のセはTsieから変化したSieで、iの影響によってその響きがe(通説)のように聞きなされたと考えることができます。このように考えると、関東のCecaiはTsieki、SaseraruruはTsiTsierruru、都のXecaiはSieki、SaxeraruruはTsiSierruruであったと考えることができるでしょう。つまり都のeが現在のseに変化したとする通説は間違いで、都では関東より早く、上代のTsieがSieにかわり、その後Seに変化したと考えることができます。
ここまでの考えをわかりやすいように、新説と通説のセ音を比べてみると、次のようになります。
通説 |
新説 |
通説 |
|||
世界 |
させらるる |
||||
都 |
表記 |
Xecai |
Saxeraruru |
||
発音 |
ekai |
Sieki |
TsiSierruru |
saeraruru |
|
関東 |
表記 |
Cecai |
Saseraruru |
||
発音 |
sekai |
Tsieki |
TsiTsierruru |
saseraruru |
*C:『日本語小文典』では。
*都のセ(Xe)は(Tsie→)Sie。関東のセはTsie。但し、『日本語小文典』(上)のCeはtseに、Seはseに近いTsie。
このように室町時代末期の都のセ音はSie、関東のセ音はTsieと考えられるので、次に江戸時代以後のセ音を見てみることにします。
まず切支丹文献よりも少しのちの『仮名文字使蜆縮凉鼓集』(鴨東?父著1695年)に「「田舎人」のあいだに「瀬といふべきをちゑ」とする発音がある」(28)という記述がみえます。第4節でみたように切支丹文献のチはti、シはiであった(通説)と考えられているので、江戸初期の都のサ音をTsi、セ音をSie、チ音をTsii、シ音をSii、エ音をie(次項、『謳曲英華抄』)、そして関東のセをTsieと考えてみます。そうすると田舎人の「瀬セ」(Tsie)に対する表記はシヱ(Siie)よりはチヱ(Tsiie)のほうがより適当であると考えられるでしょう。 また古い発音を伝えている『謳曲英華抄』(二松軒述1771年)には「◯江ハいより生す、江といふ時舌に触て最初に微隠なるいの音そひてい江といはる」(外山 昭和47:239)とあります。そこでこの記述から当時のエ音は謡に伝承された隠微なイ音が添えられたイエ音ではなく、より単純なエ音に変化していたと考えることができます。そこでその伝承音のイエ音をieと考えると、1700年頃には都のSie(セ)はSieに変化していたと考えることができるでしょう。そしてこのSieの隠微なイ音がその後消失して、s-e(次項、『音韻断』の考察)に変化したと考えることができます。またiの消失(無声化)が起きなかった九州方言では(Sie→)eに変化したと考えることができるでしょう。また亀井氏が「“江戸なまり“として知られる「おとっつあん」のツァ(あるいは、「まっつぐ」のツ)のたぐいが、はたして後世くずれた“なまり“にすぎないかどうか」(亀井 昭和59:462)とされた疑問もTsiのiの消失(無声化)を考えると、Tsi→Ts→tsのような変化を考えることができます。このような変化を考えると、ツァ音が新しく感じられること、「おとっつあん」「ちっつぇ」などの言葉が現在も非常に少ないという事実もうまく説明がつくでしょう。
さらに『音韻断』(京都人の泰山蔚1799年)には「スはシと性格が異なるが、他のサ・セ・ソとは同質のものである。サ・セ・ソは、スア・スエ・スオと発音するのである」(三木・福永 昭和41:138)という記述がみえます。この記述はセ音がSie→Sie→seのように変化したのに対して、シ音(Sii)のみが口蓋化を起こして(Sii→)iに変化して、サ・ス・セ・ソとシの響きに違いがあったことを表わしていると考えることができるでしょう。そしてセを「スエ」と発音するという奇妙な記述も、「spa」(温泉)を「スパ」と書くように、Tsie→Sie→Sie→s-e→seと変化する途中の子音sと母音eの結合したs-eを「スエ」と表記したものと考えることができるでしょう。このように都のセ音は上代ではTsie、その後室町時代終り頃までにはSieに変わっていて、江戸中期頃にはSieからs-eに、その後江戸末期頃より現在のseに変わったと考えることができるでしょう。
ここまでの考察によって上代のサ・スはそれぞれTsi・Tsiu、また室町時代終り頃の都のセはSie(関東はTsie)と考えることができました。
そこでサ行の統一性を考えて(29)、サ行はツァ行(tsV。V:母音)ではなく、ツィァ行(tsiV)であると考えることができます。
9.まとめと問題点
ここまでの考察をまとめると、上代から現在までのサ行音は次のように変化したと考えることができます。
TsiV→SiV→SiV→s-V→sV(V:母音)。
サ:Tsi→Si→Si→s-→s。
ツァ(関東方言):Tsi→Ts→Ts。
シ:Tsii→Sii→i。
ス:Tsiu→Siu→Siu→s-u→su。
セ:Tsie→Sie(1600年頃の都のセ)→Sie→s-e→se。
シェ(九州方言など):Tsie→Sie→e。
ソ:Tsio(ソ甲)/Tsi(ソ乙)/→Sio→Sio→s-o→so。
*i→o(オ甲)。(オ乙)。上代特殊仮名遣いについての謎解きは後々の更新(早くても2013年秋頃)になります。
ここまでの考察によって上代のサ行音はツィァ行(tsiV)であり、本郷佐字音(サ)と本郷沙字音(シヤ)は同音のTsiであることがわかりました。しかし上代の本郷佐字音と本郷沙字音が同音であると考えると、「兩者の間には直拗の區別がある」(有坂 昭和32:153)のはなぜか、つまり「直拗とは何か」という問題がでてきます。また上代語には「母音が二つ連続することを徹底して避ける」(大野 1978:198)原則があり、もしサ行音をTsiVと考えれば、この原則に違反することになります。しかしこの原則に逆らってでも上代のサ行音がTsiVであると考えるためには、この原則違反をどのように解消すればいいのでしょうか。また江戸後期の『音韻断』に見られる「スエ」の記述をs-e、そしてSie→s-e→seのような変化を考えました。しかしs-e→seのような変化を考えるならs-e音とはどんな音なのでしょうか。現在のse(セ音)とはどのような違いがあるのでしょうか。そもそも上代のTsiV(V:母音)とはどんな音だったのでしょうか。サ行音をTsiVと考えるにはなお多くの問題が残されています。
そこで次回の更新(「サ行音の直拗を考える」:2012.8.1予定)で、これらの疑問にすべて答えることにします。また秋の更新(2012.11.1予定)では「サ行イ音便の謎を解く」を考えています。どちらも難問です。にわか勉強のため今回同様遅れるかもしれませんが、楽しみにお待ちください。
【注】
*「平安時代から室町時代まで、スズメの声は、サ行音の「シウシウ」でうつされるのが、ふつうであった。」(山口 1989:112)。亀井 昭和59:457。
*「スズメの声も、江戸時代になると、ネズミと同じく「チウチウ」とうつされる」(山口 1989:121)。亀井 昭和59:456。
*「啾々 シウシウ/雀声(筆者注:割注) (下巻)」(平安末期の『色葉字類抄』(山口 1989:112)。
*「「―秋収め冬蔵む―」を「秋収冬蔵」と音読」(平安末期成立の『世俗諺文』「文屋の辺りの雀」の文意。同書:115)。
*「生まれながら 忠をつくすや 雀の子」(江戸初期刊行の『俳諧三部抄』。同書:121)。
*「今、チュチュと云ふを、古シュシュとききたるなり(鈴木朖『雅語音声考』)」(同書:124)。
*引用文の下線は右縦線。
2.「「庭須受米」(記雄略)---「雀 須々米」(和名抄)」[考]---「鳥名にはツバメ・カマメ等語尾にメを持つものが多い」(上代語辞典 1967:389)。「Suzume」(『日葡辞書』:土井ほか 1980:593) 。
3.池上 1993:50,265-6。「xi(シ)・chi(チ)」(「仮名・ローマ字綴り対照表」:土井ほか 1980:864)。
4.馬淵 昭和46:67。引用文は右論文(有坂 昭和32:145-159、有坂 昭和30:464-492)の馬淵氏による要約。
5.森 1991:125。ほぼ同様の見解は馬淵氏にもみられます(馬淵 昭和46:35)。
*推定中古音は主に森(1991)にしたがったが、以下の著作も参照した。
A.『中古字音索音手冊』(日本大学中国文学研究室
研究叢書シリーズNo.1 庄司孝彦編 昭和37 学術出版教育図書)
B.『中国音韵学研究』(瑞典・高本漢(カールグレン)著 趙元任・羅常培・李方桂合譯 1995.3(北京1次) 商務印書館)。
7. 外山 昭和47:243。「[gottso:](御馳走)」(平山 昭和58:78-9,82。群馬・埼玉方言)。「[cittsabak](破る)」(同書:79。群馬方言)。下線(原文は上につく横線)はアクセント。
8.1600年頃の都のサ行はsa/xi/su/xe/so、ザ行はza・ji・zu・je・zo(通説:外山 昭和47:188)。s(=/s/:無声歯茎摩擦音)。z(=/z/:有声歯茎摩擦音)。x(=//:無声硬口蓋歯茎摩擦音)。j(=//:有声硬口蓋歯茎摩擦音)。
9.梵語の字母順と五十音図の字母順を比較をすると、次のようになります。
梵語 |
母音 |
ka |
a |
ta |
na |
pa |
ma |
ya |
ra/la |
va |
a/a/sa/ha/・・・ |
五十音図 |
ア |
カ |
サ |
タ |
ナ |
ハ |
マ |
ヤ |
ラ |
ワ |
*梵語の字母順は母音(a,,以下略)、その後母音aを伴う子音群(上表のようにka類,a類,a類,ta類、以下略)。梵音a/に対応する現代ヒンディー語音は/。
*「少なくとも、サ行を、s音相当の位置すなわち、ワ行の直後においている音図は、全く認められない。」(奥村 昭和47:119)。有坂 昭和30:469-470。
10.「しし(名) 父の東国語形。「----母志志----」(万四三七六・四三七八)」(下野の防人歌:上代語辞典 1967:352)。
11.「知」(舌上音知母支韻ie)と「志」(正歯音章母志韻ti)の比較、そしてtiに対しては舌頭音tを用いることができないため、舌上音が用いられたと考えると、「チ」はti、「シ」はtiと推定されます。
*「東國方言の一部では、既に奈良朝時代からチの頭音にアフリカータを持っていたらしい」(有坂 昭和30:517)。ここではtsiではなく、tiを想定した。有坂 昭和32 :161-183。
12.濱田 昭和45:83。
*「タ行子音はすべて諺文tで統一されて居り、従ってチ、ツもti,tuと書かれている。」(濱田 昭和45:83)います。
*「『伊呂波』の時代にあっては、まだtiとci(筆者注:それぞれtiとti)とは、はっきりと書き分けられ、音韻上も区別を有していたと考えられる。」(同書:84)。
13.「Chi. チ (血) 血液」(土井ほか 1980:118)。「Xi, suru. シ,スル(為,する) する」(同書:758)。
14.村山
1988:18(稲荷山鉄剣銘)。
*「稲荷山古墳鉄剣銘」の写真版は「日本語史資料」(沖森 1989:165)にあり。
15.麻韻aは舌上音の知母()組や歯上音の荘母・初母・生母(それぞれ・h・)などが、また歌韻(代表字)は舌頭音の端母(t)組や歯頭音の精母・清母・心母(それぞれts・tsh・s)などが結合(森 1991:58-59の表2)。
16.有坂 昭和32:153。
*「沙は沙彌・沙門・恒沙の如く佛語ではシヤと讀まれるのを常とし、字書類には皆呉音シヤと記している。」(有坂 昭和30:479)。
17.馬淵昭和46 :68。サをtsa、シヤをaと考えて、出口のない迷路に陥っている記述は有坂氏の考察(有坂 昭和30:464-490)にも見られます。
18.「梵音の説明には出來得る限り本ク音を用ゐ、どうしても止むを得ない場合に限って唐音を借り來るという方針であること明らかである。」(有坂 昭和30:474)。
19.「兩者は假名としては古事記以来常に相通用するものである。」(有坂 昭和30:479)。
20.「須久泥」(記允恭)、「須区禰」(神功紀元年)、「足尼ヲ為二宿禰一」(続紀宝亀四年)、「宿禰」(崇神紀七年、天武紀一三年)(すべて上代語辞典 1967:385)。スの表記は日本書紀α群では須字のみ(森 1991:218-9,261,270)。
21.「平安時代初期の頃サの頭音は〔t〕或は〔ts〕のようなアフリカータであった。(以下、途中省略) 寧ろ〔ts〕の方の可能性が多からう。」(有坂 昭和32:151)。
22.「そもそも「ウ列」音節には、両群(筆者注:日本書紀α・β群)とも〔虞〕韻(-Yu,-yu)字の用例が最も多く、〔尤〕韻(-u,-iu)字がこれについでいる。」(森 1991:37)。
23.上古侯部・東部の入類ukは中古燭韻(入声)okに変化(uk→uok→ok)(牛島ほか 昭和42:80)。
*「介音は、-u-類の音の有無によって「合口」と「開口」とに二分され、-i-類(口蓋性が強い)または--類(口蓋性が弱い)の有無によって「拗音」と「直音」とに分けられ」(森 1991:285)、その組み合わせは次(同書:286)のようになります。
*今回は引用を除き、i/の別はあらわさず、ともにiで転写した。
合口 |
開口 |
||
u |
直音 |
||
y |
i |
強 |
拗音 |
Y |
弱 |
24.「須々米」」「須受米」)は本草和名に「雀 卵須々美」、妙敏達記14年の別訓にスズミ(ともに上代語辞典 1967:389)とあり、「鈴」は記允恭に「子須受」(同書:387)、「鼠」は歌経標式に「禰須美」(同書:559)、「千鳥」は神代紀下に「浜つ智耐理よ」、記景行に「知登理」(ともに同書:455)とあり、これらは鳴き声Tsiu(上代の「須」)と同じ言葉(同源語)と考えられます。中古音の支・脂・之韻の<精>系(ts)・<章>系(t)の韻母は-i、支・脂・之韻の<荘>系()・<知>系()の韻母は-ii(森 1991:76)と配分されます。そこで「千鳥」のチが「智」(知母ゥ韻ie:支韻去声)や「知」(知母支韻ie)で表記されているので、聞きなされた鳴き声はtsiやtiでなく、荘母()・知母()に近いTsii(第6節参照)であったと推測することができます。また聞きなされた鳴き声がTsiuであれば大唐須字音(siu)と同じ母音を持つ本郷須字音で表記されたと考えることができるでしょう。そうするとTsiiのように聞きなされた音は「智」「知」(「千鳥」のチ)で、Tsiuのように聞きなされた音は「須」(「雀」「鼠」「鈴」)で表記されたと考えることができるでしょう。そして鳴き声Tsiu(またその重複TsiuTsiu)は平安時代以後「シウシウ」や「ジジめくすずめ」・「ネズミもジジめく」(ともlに山口 1989:116,118)ような表記にかわったと考えることができるでしょう。
25.「梵音のcaが支那音のt'a(筆者注:ta)(止下反)よりは幾分ts(筆者注:ts)(作可反)に近かった」(有坂 昭和30:476)。
26.本郷佐字音(Tsi)とtiの違いについては次回の更新(2012.8.1予定)で考えます。
27. 「唐音に反映したチ・ツの音價」(有坂 昭和32: 563-570)。チがシで表記されていることからチが閉鎖音のtiで、シがまだ破擦音のTiiであったことがわかる例を、左の論文からいくつか挙げておきます。
*「「行者」の宋音をアンシヤ」(『悉曇要訣』(明覚1101年以降)。有坂 昭和32:564)。
*「「知〇客」(シカ)」(臨済曹洞宗系の唐音。同書同頁)。
*「「畜生」の宋音をシクサン」(『塵袋』(黒川春村作か。1264-88頃)。同書同頁)。
*「クチ(口)を「窟底」(『鶴林玉露』(「人集巻四」)(1251年)。南宋の羅大經(江西省廬陵の人)が日本僧備中の安覺とみられる発音を音訳したもの。同書32:567)。
*「「ち」を「啼又近低」と註し、「つ」を「土平聲又近屠」と註してゐる。」(『書史会要』(巻八)(1376年)。元末明初の陶宗儀(浙江省黄巖の人)が日本僧克全大用から教わった「いろは」の読み方を音訳。同書:567,571)
*16世紀頃から閉鎖音のtiが破擦音ti(通説)にかわることの簡単な記述(外山 昭和47:192-3)。
28.亀井 昭和59:462。「ちゑ」の「ち」は右縦線、「ゑ」は左縦線。エ音(ie)については2013.2(予定)の更新で考察します。
29.活用「為(す)」に見られるように、「佐斯須勢曾五類は語法上互に關係を有してゐる。」(有坂 昭和30:464)。
【引用・参考文献】
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土井ほか(1980) 『邦訳 日葡辞書』 土井忠生・森田武・長南実編訳 岩波書店
外山映次(昭和47) 「第三章 近代の音韻」『講座国語史 第2巻 音韻史・文字史』 中田祝夫編 大修館書店
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三木幸信・福永静哉(昭和41) 『国語学史』 風間書房
村山七郎(1988) 『日本語の起源と語源』 三一書房
森博達(1991) 『古代の音韻と日本書紀の成立』 大修館書店
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