「ハ行音の問題」について
(1999.05.27 更新)
このページからは、「ハ行転呼音の問題」を考えます。
問題2
8.中世の音図でなぜヲとオの位置が逆になっていたのか
9.ハ行転呼音になぜ喉頭化母音はあらわれたのか
10.古代日本語のどんなところに喉頭化母音がみられたか
11.ワ行音のヲはなぜ高いアクセントをもっていたのか
12.再びハ行転呼音の変化について
通説:FV→wV→V(ただし、「ハ」はFa→waに変化し、その後変化せず)
*F:両唇摩擦音、w:半母音、V:母音
8.中世の音図でなぜヲとオの位置が逆になっていたのか(問題2)
さて、先きに紹介したように通説によれば語頭以外のハ行音はFV→wV→Vのように変化したと考えられています。(但し、ハはワに変化し、その後変化せず)しかしハ行転呼を起こした中世にはワ(wa)・ヰ(wi)・ヱ(we)・ヲ(wo)の表記が使われていたのですから、通説のようにハを除くハ行転呼音がFV→wV→Vに変化したのであれば、それらの途中の変化音であるwi・we・woの音を表記するヰ・ヱ・ヲの文字が色々な文献に書き残されていて当然と思われます。もちろんたしかに文献にはヰ・ヱ・ヲの表記はみられますが、それはハ行転呼を起こしたものではなく、単なるwV→Vの変化を起こしたところのワ行音のヰ・ヱ・ヲの表記です。
ここで通説のハ行転呼とワ行音の変化を、次にあげてみます。
ハ行転呼音の変化 ワ行音の変化
a:「沢」 :saFa----→sawa
i :「貝」 :kaFi----→(kawi)----→kai wiru-→iru(「居る」)
u:「今日」:keFu-----------------→keu→keo→kjo:
e:「苗」 :naFe---→(nawe)----→nae wemu→emu(「笑む」)
o:「塩」 :iFo----→(iwo)----→io woka-→oka(「岡」)
*Fは両唇摩擦音([])。は硬口蓋歯茎摩擦音([])
*( )内のローマ字は通説による変化音。
上のハ行転呼音とワ行音の変化から、ハ行転呼音のハがFa→wa、またワ行音のヰ・ヱ・ヲがそれぞれwi→i、we→e、wo→oと変化しているのがわかります。そしてこの二つの変化を考慮すると、通説であるFV→wV→V(Vは母音i、e、o)の変化をみちびくことができます。しかしいま上でみたようにハ行転呼の途中の変化音であるヰ・ヱ・ヲの表記が文献に書き残されていない事実から、ハを除くハ行転呼音はFV→wV→Vと変化したのではなく、FVから直接Vに変化したと考えざるを得ません。つまりハ行転呼がFV→wV→Vのように変化したという通説はまちがっていることになります。
ここでワ行音の変化をみてみます。(小松 昭和56:p291)
「…平安時代中期においては、
い[i] ゐ[wi] え[je] ゑ[we] お[o] を[wo]
という発音であったと推定されている。しかし、間もなく「お」は「を」に合流してともに[wo]となり、さらに鎌倉時代に入ると、「ゐ」は「い」に、「ゑ」は「え」に合流して、それぞれ、[i],[je]にまとまった。…江戸時代になってから、wo>o,je>eという変化が起こって発音が変わったが、いヽろヽはヽによって確定された四十七種類の状態は今日まで歴史的仮名遣いとしてそのままに存続している。」
上の引用から、ア行音のオは鎌倉時代以前にo>woの変化を起こしていて、その後江戸時代になってから再びwo>oの変化を起こし、現在のオになったことになります。つまり上の通説によれば、ア行音のオはo>wo>oのように変化したと考えられます。ところで上のwo>oの変化は唇の結び方がゆるむ唇音退化の現象として納得することがたやすく、またいまでも歴史的仮名遣いとしてヲの表記が残っていることから確かなことと考えられます。しかしそれにひきかえo>woの変化は唇の結び方をきつくしなければその変化は生じないため、その変化に何か特別の理由を考えねばならず、o>woの変化は少しありそうもないと考えられます。
ではo>woの変化はどのような事実にもとずいて考えだされたのでしょうか。その理由を知るために、中世の音図でア行音やワ行音がどのように示されていたのかみてみることにします。(小松 昭和56:53)
「…ただし、中世の音図では「アイウエヲヽ」「ワヰウヱヲ」、または「アイウエヲヽ」「ワヰウヱオヽ」となっており、本居宣長によって正しく復原されるまで、そういう形で行われていた。…(以下省略)」
上の引用からわかるように、中世の音図ではア行音の「オ」を「ヲ」で、ワ行音の「ヲ」を「オ」であらわしていて、「ヲ」と「オ」の位置がまちがっていました。このまちがいはア行音の「オ」が「ヲ」に合流したため[wo]の発音であることを、またワ行音の「ヲ」が「オ」に合流したため、[o]の発音であることを表わしていると考えることができます。つまりア行音にヲの文字が、ワ行音にオの文字がおかれていることから、ワ行音に由来するとされる現在のオの発音の変化をo>wo>oのように変化したと考えたのです。これがさきほどのワ行音のオの変化に対する通説が考えだされた理由でしょう。
ところで本居宣長は現在の五十音図にみられるように、ア行音を「アイウエオ」、ワ行音を「ワヰウヱヲ」のようにオとヲの位置を正しく復原しました。そしてこのことは現在の私達の話す「オ」の発音から考えてまちがいない事実です。しかしオとヲの位置を正しく復原したのであれば、ワ行音のヲははじめからヲであったことになり、ヲはwo>oの変化だけをしたことになり、ア行音のオがo>wo>oのように変化したとする通説はまちがっていると考えざるを得ません。
ここで問題です。オがo>wo>oのように変化しなかったとすれば、オはどのような変化をしたのでしょうか。この問題をこれから考えることにします。
中世の音図でア行音が「アイウエヲ」、ワ行音が「ワヰウヱオ」であることから、オがo>wo>oのように変化したとする通説が考えだされたのですが、この変化はもう一つの通説であるハ行転呼のFV→wV→Vの変化とよく似ています。そこで上の問題の解答をハ行転呼のFV→wV→Vの変化の中にさがすため、ここで再びハ行転呼の変化に戻ることにします。
さてハ行転呼の変化がFV→wV→Vとは考えられないので、その代わりとしてハを除くハ行転呼音の変化の途中にハ行転呼を起こした母音Vと異なるある種の母音vを考えることにします。そしてその母音vの発音は母音Vの発音とよく似ていたため、表記の上では母音vと母音Vとは区別がつかなかったと考えれば、ハ以外のハ行転呼音の変化(FV→V)をうまく説明できるように思われます。そこでこの想定をもとにハ以外のハ行転呼音の変化を考えると、次のようになります。
fV→v→V
*Vは母音i、u、e、o。vはそれぞれの母音Vと異なるある種の母音。(上代特殊仮名遣いの甲・乙類についてはいまは考えないことにします)
*ハ行頭子音のフ([])の変化にあらわれる両唇摩擦音F([])と区別して、ここからハ行転呼音の変化のためにfを用います。fについては次回考察します。
上の変化式が良く理解できるように、ここで「塩」の例をあげておきます。
表記:シホ---シオ1-→シオ2
発音:ifo1---io2--→io1
*o1は母音オ1、o2はある種の母音オ2。は硬口蓋歯茎摩擦音([])。
*o1・o2の甲・乙類についてはいまは考えません。
ここである種の母音vを本土方言の中にさがすと、東京方言の語頭の母音にそれをみることができます。たとえば朝([asa])と発音するときの[a]がその母音で、「」は声門閉鎖音([])と呼ばれていて、「ゴホンと咳をするときの、最初の、のどがしまるような感じがする」(柴田 1978:716)音です。同じ「朝」と発音しても、東京方言と京都方言には次のような違いがみられます。(柴田 1978:716-7)
「…東京方言の「朝」と京都方言の「朝」とを比べると、アクセントのちがい以外に、この音があるかないかのちがいがある。
東京 [asa]
京都 [asa]
この性質は東京語だけでない。岩手県の宮古市方言などは、東京語と比べものにならないほど、はっきりした、強い声門閉鎖音が聞かれる。東京語では、この音の聞こえないこともあるが、宮古市方言では必ず聞こえる。…(以下省略)」
上のような声門閉鎖音([])を伴う喉頭化母音([v])は沖縄の首里方言や奄美の名瀬方言にもみられます。たとえば首里方言のア行の語頭に、次のような声門閉鎖音の有る無しの対立があることはよく知られています。(徳川 平成2:250)
「18
奥 uuku 19 桶 'uuki」
*他の方言、アクセント表記は省略。
このように喉頭化母音vはいろんな方言にみられます。そこでハ行転呼音の変化の途中に考えたある種の母音vをこの喉頭化母音vと考えると、ハ以外のハ行転呼音の変化は次のようになります。
fV→v→V
*Vは[i]、[u]、[e]、[o]。 vはそれぞれVの喉頭化母音[i]、[u]、[e]、[o]。(甲・乙類についてはいまは考えません)
*fについては次回考察します。
上の考えにもとずいて、ここでハ行転呼音のハ・ホとワ行音のヲの変化を比べてみると、次のようになりす。
A.ハ行転呼音の変化
〈発音〉:safa---→sawa---→sawa
〈表記〉:サハ-------------→サワ(「沢」)
〈発音〉:ifo----------------------→io---→io
〈表記〉:シホ----------------------→シオ2---→シオ1(「塩」)
B.ワ行音の変化
〈発音〉: sawo------------→sao
〈表記〉: サヲ------------→サオ1(「竿」)
*safa→sawa→sawaの変化については、次回考察します。
上の変化式はホ(fo)がハ行転呼を起こし母音オ2(o)になり、その母音オ2(o)がワ行音に由来する現在の母音オ1(o)に変化したことをあらわしています。つまりワ行音に由来するとされる現在のオ(o)は喉頭化母音オ2(o)からの変化です。中世の音図にみられるア行の「ヲ」、ワ行の「オ」はそれぞれo(オ2)、o(オ1)であり、ヲとオの位置まちがいの謎はハ行転呼の変化(fV→v→V)にあったと考えられます。
ここでまでの考察によって得られた、ハ行転呼音の変化をまとめておきます。
4.fa→wa (ハの変化)
5.fV→v→V (ヒ、フ、ヘ、ホの変化)
*Vは[i]、[u]、[e]、[o]。 vはそれぞれ母音Vの喉頭化母音[i]、[u]、[e]、[o]。(甲・乙類についてはいまは考えません)
*fについては、次回の更新で考えます。
上の変化を一般式として、とりあえず次のようにあらわすことにします。
fV→wa/v→wa/V
*V、 vは上に同じ。ハ、ヒ・フ・ヘ・ホの変化はそれぞれ前の4、5のように読みかえること。