「ハ行音の問題」について
(1999.07.16 更新)
このページは「ハ行転呼音の問題」のつづきです。
問題2
8.中世の音図でなぜヲとオの位置が逆になっていたのか
9.ハ行転呼音になぜ喉頭化母音はあらわれたのか
10.古代日本語のどんなところに喉頭化母音がみられたか
11.ワ行音のヲはなぜ高いアクセントをもっていたのか
12.再びハ行転呼音の変化について
通説:FV→wV→V(ただし、「ハ」はFa→waに変化し、その後変化せず)
*F:両唇摩擦音、w:半母音、V:母音
9.ハ行転呼音になぜ喉頭化母音はあらわれたのか(問題2)
前回の更新でワ行音の変化をfV→wa/V→wa/Vであると考えましたが、ではなぜワ行音に喉頭化母音があらわれたのでしょうか。また古代日本語のどんなところに喉頭化母音がみられたのでしょうか。この問題を考えることにします。
現在の日本語では、喉頭化母音は[asa](東京方言:「朝」)や[uuku](沖縄の首里方言:「奥」)のように語頭の母音にみられます。しかしこのような喉頭化音は語頭の母音にだけみられるのではなく、沖縄県八重山諸島の与那国島方言や鹿児島県奄美大島の名瀬方言にもみられます。そして上の問題を解く鍵がこの与那国島方言の喉頭化音にあるので、それをみてみることにします。(橋本萬太郎 1981:346)
[t‘a] (田)――無声有気音
[da] (家)――有声音
[ta] (舌)――無声無気音
上の例でわかるように、与那国島方言では語頭に無声有気音、有声音、無声無気音と三種類の音の区別があります。しかし共通語や多くの方言では清音タ(語頭で無声有気音)と濁音ダ(有声音)の二つの音の区別しかなく、与那国島方言の上の三種の違いは非常に珍しい現象といえます。たしかに上のような珍しい三種の音の違いをみせられると、「地理的に、大陸のなかでもそこにしか存在しないところの、子音間に無声有気―有声―無声無気という3項対立のある方言のはなされている江南地方(と、そこから、断続的に西南方にのびた地帯」(橋本萬太郎 1981:346)の言葉との関連性を考えたくなります。しかし前に「再びハ行頭子音の変化について」で考察した中で、「高い」「硬い」の言葉に有気音と無気音の違いをみたように語頭という制限をつけなければ、現在の共通語にも語彙の識別には役立ってはいませんが、語頭で無声有気音(清音)と有声音(濁音)、また語頭以外で無声無気音(清音)の三種類の音の違いがあるのです。そしてそういう目で与那国島方言の三項対立をみると、共通語にも与那国島方言と同じタイプの三項対立があり、与那国島方言だけを特殊な珍しい方言であるということはできなくなります。そこで故橋本氏が提起された地域特徴(三項対立の特殊性)は棚に上げて、先に進むことにします。(与那国島方言と中国の江南地方の言葉の関連性はこちらへ)
故橋本氏は上の与那国島方言の[ta](舌)への変化を、近隣で話される方言の例をあげ、次のように説明されています。(橋本萬太郎 1981:356-7)
「…与那国のふくまれる八重山諸島の方言を、東北から西南の方向にみていくとしよう。この地方の方言は、東京方言のように、イやウのような高母音が無声子音にはさまれると、無声化され、たとえば、「した(舌)」のような単語を例にとると、
石垣島 [sta:]
波照間島 [sta:]
小浜島 [sta]
新城島 [sta]
西表島 [sta]
のようになり、やがて与那国島の[ta]にいたる。…(以下省略)」
*引用の地名、島名の読みは省略。
このような島々の発音から、与那国島の[ta]への変化はsta→sta→ta(母音aの長短についてはここでは考えません)であると考えることができ、その原因は「舌」の第一音節sの消失を想定することができます。そこでこの考えは、とりあえず次のようにあらわすことができます。
sta--→|ta
*は第一音節の消失をあらわす。
*沖縄の久高島ではッチャー([ta:])(中本 1990:187)
ところで上の変化式には問題が二つあります。そのひとつはstaにみられる喉頭化音()発生の理由、二つ目はsta→taの変化はなぜ起こったのかということです。この問題を考えます。
上の喉頭化音(=声門閉鎖音//)は、与那国島方言([ta])だけにみられるものではなく、「九州南部では,狭母音が語末にくると,[nas](茄子),[kut](靴)のように母音が脱落し,さらに[ku](靴)(釘)のように促音化した」(亀井孝他 1997:280)ときにもみられます。このように共通語のkutsu(「靴」)が九州南部の方言でkuのように喉頭音化していることから、西表島方言のstaにみられるsへの変化を、次のように想定することができます。
sCV→sC(→sC)→s
つまりsのあとに何らかの一音節CV(Cは子音、Vは母音)を考え、その母音Vの無声化、そしてその無声化母音が消失することによって喉頭化音が発生したと考えるのです。そう考えると第一の疑問は解けます。また二つ目のsta→taへの変化は次のように想定します。
sta--→ta
つまりstaにある喉頭化音の影響で、閉鎖音tが喉頭化音tに変化し、その後第一音節のsの母音が無声化しているために、第一音節のsが消失したと考えるのです。
このように考えた上の二つの変化をつなぎあわせると、次のようになります。
sCVta→sCta(→sCta)→sta→sta→ta
このように「舌」のsiとtaの間に一音節のCV(係助詞ゾと同源)を想定すると、与那国島方言のtaへの変化を含めて八重山諸島の方言形をうまく説明することができます。そこでこの考えをもとに八重山諸島の方言形への変化をみておくと、次のようになります。
小浜島・新城島方言:sCVta(→sCta)→sta→sta
西表島方言 :sCVta(→sCta)→sta
与那国島方言 :sCVta(→sCta)→sta→sta→ta
*( )の変化についてはこちらへ
*上のCVは奈良時代にみられた係助詞ゾ(副助詞シ)と同源です。後の更新(係り結びの項)でこの問題をとりあげます。
ところで上の変化から閉鎖音tと喉頭化音tとの関係がみえてきます。その変化は次のように考えることができます。
sCVta--→|ta
*は第一音節sと第二音節CVの消失をあらわす。(CVは係助詞ゾ(副助詞シ)と同源)
さて準備も整ったので、ハ行転呼音に喉頭化母音があらわれた理由をこれから考えることにします。まず無声無気音が声門閉鎖音に変化している例を、次に引用します。(橋本萬太郎 1981:352-3)
「…中国語の無声無気音からして、音声学的には、顕著な声門化の観察される音声である。その地域的変異体をみても、広東省の四邑方言のように、いわゆる「中国語」の/t/に対応する音節頭子音のうしなわれた方言では、声門閉鎖音だけがのこるし、(「店」ペキン[tien]ー四邑[ien])、その南へいけば、つよい前声門化の入破音が対応する(海南[iam])。」
上の引用と先ほど考えた喉頭化音への変化をつなぎあわせると、歯茎閉鎖音tの変化を次のように想定できます。
tV→tV→V
*tは歯茎閉鎖音、Vは母音。
ここで前に考えたハ行転呼音の変化をもう一度みてみます。
fV→wa/v→wa/V
Vは母音(i・u・e・o)、vは喉頭化母音、waは半母音ワ、fはこれから考えます。
上の二つの変化式を比較すると、(ハを除く)ハ行転呼音の変化を次のように想定することができます。
pV→pV→v→V
*pは両唇閉鎖音、Vは母音(i・u・e・o)。vはVに対応する喉頭化母音(i・u・e・o)
*ただし母音Vについては、上代特殊仮名遣い(母音の甲・乙類)の問題は考えず、とりあえずi・u・e・oとしてあります。たとえば「恋」(コヒ→コイ。ヒは乙類)の変化はkop→ko→ko。
*ハ(→ワ)の変化はのちほど考えます(2004.09.01の更新を見てください。)。