「連濁はいつ起こるのか?」
(2003.12.01 更新)
このページでは促音便について考えることにします。
01.はじめに
02.連濁とは何か
03.清濁と連濁の関係
04.清む(清音)と濁る(濁音)
05.ガ行鼻濁音
06.サ行の直音化について
07.タ行の破擦化について
08.ツァ行音について
09.四ツ仮名について
10.すずめはスズと鳴いたか?
11.ラ行音について
12.日本語にはなぜ行音(V-)がないのか
13.『どれが梅(むめ)やら梅(うめ)ぢややら』
14.「母」は「ハワ」から「ハハ」に先祖がえりをしたのか?
15.「ハワ」から「ハハ」への変化を仮定する
16.みたびハ行転呼音の変化を考える
17.促音便ってなに?
目次(「連濁はいつ起こるのか?」)へ
17.促音便ってなに?
まず前ページのおわりに出しておいた疑問は、次のものです。
「ウ(イ)音便は促音便・撥音便と交替するときがある。なぜこのような交替があるのか?」
さてこれから上の問題を考えていくのですが、そのために我々がよく知っている促音便について、まず見てみることにします。(山口・秋本 平成13:404)
「促音便は、チ・リ・シ・ヒの音節が、テ・タに接する際に母音を脱落させ、-tt- -rt- -st- -ft-の連続する子音が逆行同化を起こして-tt-となる現象である。具体的にはtorite(取りて)→torte→totte、kafite(買ひて)→kawite→kawte→katteの過程を経る。後者のハ行四段動詞の連用形は、第三段階で一方ではkawte→kaute→kte→ko:teとなりウ音便形をとる。現在でも「買って」「言って」「逢って」と促音形をとる東日本方言に対して、西日本方言で「買こうて」「言いうて」「逢おうて」とウ音便形であり、両音便の対立は歴史的には平安時代末期にまでさかのぼることができる。・・・(以下省略)。」
このような促音(「っ」)といわれる音は十二世紀初頭ごろに編纂された『類聚名義抄』の和訓につけられた声点しょうてんからその時代に存在していた入声音の末裔と想像することができます。そこで促音便との関係がわかるといわれる声点について知るために小松氏の文章を少し長くなりますが、次に引用することにします。(小松 昭和56:197-9)
「入声につしょうは、平声(低平調)のあとに-p,-t,-kの続いた音節であり、徳声は入声軽かるとも呼ばれ、上声(高平調)のあとに-p,-t,-kの続いた音節であって、いずれもCVCの形をとるものである。これらの音節末子音は、いずれも完全な破裂をおこさない内破音(-p,-t,-k)であるために、音節全体の印象が、ぐっとつまった感じになるのが特徴である。入声・徳声は漢字音に普通であるが、本来の日本語は、開音節、すなわち、母音で終る音節から成っているためにそれらに該当するものがなく、事実上、これら二種の声点は、いずれも漢字音の声調表示だけに用いられている。和訓の仮名に加えられたものとしては、これまでに知られているすべての文献資料を通じて、ここに見える左(筆者注:下)の四例が指摘できるにすぎない。
訴 ウタフ(入上平) 〔七五5〕
訟 ウタフルコト(入平平上平) 〔九二4〕
愬 ウタフ(入上平) 〔二七五6〕
経 ノトル(徳上平) 〔二八七6〕
・・・・(一部省略。以下の「ウタフ」と「ノトル」の二例は図(同書:198より引用)を参照ください)・・・・したがって、「ウ(入)タ(上)フ(平)」は、全体として[ut>-<ta-u(u)]という語形が[○●○]《低高低》というアクセントで発音されることを示している。「ノトル」の方は「ノ」に徳声点が付されているので高い調子になるところが違っているが、これもまたタ行音の前であることに注目したい。すなわち、「ノ(徳)ト(上)ル(平)」とは[not>-<to-ru]が[●●○]《高高低》というアクセントを持っているという意味なのである。これらの入声点や徳声点は、内破音の>tだけに当たるものではなく、同時に「ウ」や「ノ」の仮名の高低をも示していることを忘れてはならない。[ut>],[not>]はそれぞれ一つの音節として把握されているのである。
右(筆者注:上)に述べたとおり、古代中国語では、入声音に-p,-t,-k,の三種があったが、-pと,-kとは寄生母音を付して-p(>-pu)>-u;-k>-ku,-kiとなった、仮名では、「フ」「ク」「キ」と表わされる。しかし、tだけは、寄生母音を付さずにそのままの形で定着した。十六世紀末から十七世紀初頭にかけての切支丹資料でも、
xinjit(真実) hitj(必定) chinbut(珍物)
bibut(美物) botdeqi(没溺) metzai(滅罪)
などのようにはだかのtである。おそらく内破音のままであろう。これらが現在のような形になったのは江戸時代以降のことであって、鹿児島方言などには今でもそのおもかげをとどめている。・・・・(以下省略)」
いま上で「今でもそのおもかげをとどめている」とされた鹿児島方言など、入声音をもつ九州地方の各方言音のイ段(と「ル」)の例を抜き出しまとめると、次のようになります。(中本 1976:154-9)
長崎方言 山下方言 黒瀬方言 青方方言 福江方言 鹿児島方言 古仁屋方言
ki:[tsuki](月) [tsuk](月) [tsuT](月) [tsuT](月) [tsuT](月) [tsuT](月) [tuk](時)
gi:[kugi](釘) [mu](麦) [komu](小麦)[mi](右) [mi](右) [miT](右) [mik](右)
ti:[mati](町) [kut](口) [kuT](口) [kuT](口) [kuT](口) [kuT](口) [kut](口)
si:[ii](石) [u](牛) [uF](牛) [okai](お菓子) [ui](牛) [ui](牛) [u](牛)
bi:[kubi](首) [ku:](首) [kuT](首) [gakuT](首) [akuT](欠伸) [kuT](首) [kup](首)
mi:[nami](波) [nam](波) [na](波) [na](波) [na](波) [u](海) -
ri:[tori](鳥) [tor](鳥) [to:](鳥) [toi](鳥) [toT](鳥) [toi](鳥) [tur](鳥)
ru:[noru](乗る) [aT](有る) [or](居る) [ai](有る) [aT](有る) [aT](有る) [ir](昼)
*山下・黒瀬方言は五島列島富江町。青方アオカタ方言は上五島。福江方言は五島。古仁屋方言は奄美大島瀬戸内町。
*上のTが入声音です。
このように南に下るほど狭母音i・uが落ちていき、語末が子音か、または入声音(T)になっているのがわかります。これらの変化は、次のように分類することもできます。(上村孝二 昭和50:343-4)
「つまる音
共通語の促音と異なる条件で起きる主なものは、次の三つである。
(1) 語末の狭母音の脱落によって生じる促音(音声学的には入破音[t]、または声門破裂音[])。薩隅本土と五島列島の両方言の特徴。鹿児島では、キ・ク・ギ・グ・チ・ツ・ヂ・ヅ・ビ・ブ・ル・シは促音化する。それで「茎・靴・口・釘・首・櫛・来る」はみなクッとなる。五島の福江市では、キ・ク・チ・ツ・リ・ルなど無声子音の方だけつまる。動詞のル語尾を促音化する例は、西部方言(筑後・佐賀県東部・豊前の一部・熊本県)に多い。
(2) 語中の促音[]で、鼻音・母音・半母音の前でつまる場合。鹿児島と五島福江両方言に共通する例、マッノッ<松の木>、ヤッモン<焼きもの=瀬戸物>、キッネ<狐>、スッナ<為るな>、ユッアメ<雪雨=みぞれ>、ナッヤンダ<泣きやんだ>。
(3) 有声子音の前の狭母音が無声化することによって起きるいわゆる濁音の促音。-gg-、-dd-の例、アッガ<秋が>、イッギレ<息ぎれ>、コッゴ<国語>、テッドー<鉄道>、マッダサン<松田さん>、イッマッデン<いつまででも>。最初の二例(キの母音脱落による)は分布に濃淡あるようだが、まず九州的だと言えよう。ただし大分県南部から宮崎県北部にかけては、これらの濁音の促音を清音の促音に発音する。アッカ<秋が>、イッキレ、コッコ、テットーのように。その他、バ行音・ザ行音の促音も薩隅では盛んである。イッバン<一番>、マッバラ<松原>、クッズミ<靴墨>。
以上三種の薩隅式促音は島原半島でも実例を見出す。」
またこの語末の促音は江戸末期頃発生したようで、そのことにふれた文章を次に引用してみます。(上村孝二 昭和50:337)
「・・・・ところで語末のイ列・ウ列の母音の無声化現象は、現代九州方言の大きい特徴の一つだが、それに起因する南部・西部の語末の促音(入声音ニツシヨーオン・入破音)は、江戸末期頃発生したようである。今から約二四〇年前の権左ゴンザの薩摩語資料(村山七郎『漂流民の言語』参照)では、まだ母音の弱まりだけで入声化するまでに至っていない。なお、九州西部の処々及び南部の離島に著しい二音節以上の語に現われる長音(カーキ=柿)も入声の発生と時期を同じくしていると考えられる。」
*筆者注:上記『漂流民の言語』「(2)ゴンザの言語」の項(村山 昭和40:34)に次の記述があります。
「(6) 語末音節の母音は弱まっているが、いわゆる「促音化」は見られない。
首 kub´(クビ),蛇
feb´(フェビ),指 ib´(イビ),靴 kuc(クツ),取る
tor(トル)。」
*筆者注:「ビ」などにみえる下線は原文では下点の丸(。)です。
ここまで和訓にみられるわずか四例の入声音(内破音の>t)の存在や薩隅方言の語末の入声音[T]、また現代音の「取って」に見られる促音(小字の「っ」)の存在からこの語末t音の変化は「月」を例にとれば、次のように考えることができると思われます。
tsuki---→tsuk----→tsuk----→tsu(---→tsu)
*:無声化母音イ。k:語末子音(軟口蓋閉鎖音)。:喉頭化音。:喉頭化音の消失を表わす。
*ただし、ここでは語末音の変化を問題にしていて、現存する「月」の語の変化(母音の変化など)を上に述べているわけではありません。
上の変化式を一般の二音節語に適用すると、その語末は、次のように変化すると考えることができます。
母音の無声化 無声化母音の消失(語末子音化) 喉頭音化(語末子音の消失) 喉頭化音の消失
C1V1C2V2-------→C1V1C22--------→C1V1C-----------→C1V1-----→C1V1 *C1・C2:子音。V1・V2:母音。
:無声化母音。C:語末子音(C2もしくはその変化形:閉鎖音・摩擦音・鼻音など)。:喉頭化音。:喉頭化音の消失をあらわす。
さて上の二音節語の変化式を適用すると、先の「訴」(ウタフ)や「経」(ノトル)は、それぞれ次のように変化したと考えることができるでしょう。
utVtapu----→uttapu----→uttapu(ウ入タ上フ平)---→utaeru(1)・・・→ウッタエル(「訴える」)
notVtoru---→nottoru---→nottoru(ノ徳ト上ル平)---→notoru(1)・・・→ノットル(「則とる」)
*ここでは「フ」はpuで考えておきます。
*tV(V:母音)は語中の或る一音節語。その一音節語は「語間にある一音節の接辞」と考えるべきことはのちの更新(「係り結びとは何か」)で考察したいと思いますが、とりあえずはこちら。またその変化はこちら。喉頭化母音については「ハ行転呼音になぜ喉頭化母音はあらわれたのか」をみてください。
このように現在の促音は古代に存在した語中にある、或る一音節語の母音が無声化消失することによって語末子音(p・t・kなど:ただし、中世ではtのみ残存))になり、入声音(のち喉頭化音)が生まれたことによるものです。さて促音の生まれてきた様子はこれで少しはわかったのですが、ではなぜこの入声音のtのみ、このように残ったのでしょうか。なぜ他の入声音(p・k)は早く消失してしまったのでしょうか。この疑問は難しそうに見えるのですが、次のような文章からその疑問は氷解するので、その文章を、次に引用します。(M.シュービゲル 1982:76)
「・・・・また鼻音の後の語末では[d]は[b]や[g]よりも変化に対する抵抗力が強い。
ド.Land [lant] エ.land
[lnd] <土地>
lang [la] Long [lo] <長い>
Lamm [lam](中高ド.lamb) Lamb [lm] <子羊>」
*筆者注:「ド」はドイツ語。「エ」は英語。英語の「land」に見られるように鼻音(n)のあとのdは今も発音されます。
上の引用からすぐわかるように、入声音tが他の入声音(p・k)よりも遅くまで残存するのはその入声音の前に鼻音があるときで、またこの残存傾向は日本語だけでなく上のように他の言語でも見られるところから、(音声学的な解明については、私には今はわかりませんが)人間の言語音発声にかかわる普遍的な言語変化であるといえるでしょう。
さて促音の変化の様子やその原因の一端がわかったので、これから本題である「ウ(イ)音便は促音便・撥音便と交替するときがある」という問題を考えていくことにします。まず促音便の表記の変遷を、次に見てみます。(山口・秋本 平成13:404-5)
「一一世紀初期頃までは無表記を原則とする。(・・・・以下、例などは省略)
ム表記も無表記と同様『日本霊異記』の「徴(破多牟天)(ハタリテ→ハタッテ→ハタムテ)」のように、平安時代初期から散見できるが、多くは一一世紀以降に見られる。先掲の「忍坂オムサカ」以外にも『倭名類聚抄』の「刈田(加無多)(カリタ→カッタ→カムタ)」、『成唯識論』(寛仁4)の「渉ワタムて(ワタリテ→ワタッテ→ワタムテ)」などあるが、訓点資料では次第に次掲のン(∨)表記・ツ表記に取って代わられる。ン表記も、一一世紀中頃から撥音と共通の仮名(記号)として出現する。『金剛頂瑜伽経』(康平6)の「昇ノホンテ(ノホリテ→ノホッテ→ノホンテ)」、『史記孝文紀』(延久5)の「欲ホンス(ホリス→ホッス→ホンス)」などである。平安時代末期頃に撥音が音韻として、確立するまでは、促音と撥音を共通の仮名で表記することが多いが、室町時代の、『東寺百百合文書』の「さきたんて(先立て)」、『北野目代日記』の「おんかけ(負掛)」など、識字中・下層の手になる文献にはこの種の表記が遅くまで残存する。
現在の標準的表記法であるツ表記は、『大慈恩寺三蔵法師伝』(康和元)の「規ノツトリ」、『九条本文選』(康和元)の「欲ホツス」など平安時代にはまれであり、広く動詞の活用語尾にツ表記が用いられるようになるのは鎌倉時代も中期以降のことである。右に記したように促音表記法や撥音表記法が平安時代末期に突然多様化したのは、当時盛んになった韻学の発達によるものだろう。・・・(以下省略)。」
また促音便と撥音便との関係や表記については、次のような記述があります。(それぞれ奥村 1977:232,小松 昭和56:199)
「なお、「ホロヒ>(喪)・サカ>(壮)」(竜光院本法華経、一〇五八年頃)のごとき撥音表記(筆者注:左の両語のあとの「>」印)は、促音や長音のそれよりやや早くから認められそうであるが、しかし、一般の趨勢が「ン・ん」の表記に落ちつくのはやはり、おおむね院政期頃からと言えよう。そう言えば、字音の三内鼻音-m・-n・-の区別も、院政期頃以降はおおむね行われなくなるが、これもいちおう、日本的撥音の成立ということに関係しそうである。三内鼻音の区別はもっと早い時期に消滅したとする立場もあるが、この場合、『悉曇要訣』(一一〇一年〜)の記述「如二日本東人一、オムを習ひてオンといひ」云々からすれば、十二世紀初頭頃においても、「東人」以外は-m・-nの区別がある程度可能だったことになる。」
「促音便形における促音部分の無表記は、すでに平安時代初期の訓点資料から見えているが、それが文字化されるのは十一世紀に入ってからのようであって、はじめは「渉ワタムテ(て)」(←ワタリテ)、「昇ノホンテ」(←ノボリテ)などのように表わされている。」
ところで三内鼻音のうち唇内鼻音(m)は、次のように日本漢字音におけるマ行連声現象に反映されています。(奥村 昭和47b:75:なお日本語におけるマ・ナ行連声現象についてはこちら)
「・・・・もっとも、ある時期の日本漢字音においては、実際に、唇内鼻韻尾mの発音される場合もあったらしい。たとえば、つぎの如きマ行の連声現象なども、その事を物語っているはずなのである。
和名抄「浸淫瘡心美佐宇」、反音作法嘉保本(一〇九五年)「任意シムミ―イ・任運ニムム―ウン」
またもう一つの喉内鼻音(-)については、次のような考えがだされています。(奥村 1977:233)
「なお喉内鼻音-の場合は、古くから「通ツウ(tuu)・命メイ(mei)」のごとく発音されていたとする立場もありそうだが、しかし、ここではいちおう、喉内韻尾が鼻音的に発音されていた時代を想定したい。例えば「生シヤウズル・通ツウズル・映エイズル・命メイズル」/号ゴウスル・有イウスル・制セイスル」等々、-韻尾出自の字音は-u音出自のものと違って、後続音に対する連濁傾向が著しいのである(12)。「雙サく」(法華義疏)のごとき喉内鼻音の撥音的表示を、すべて人工的知識的表記と断ずるのは妥当でなかろう。」
上の連濁(喉内鼻音-出自の字音)と非連濁(語尾u音出自の字音)の違いは、次のように考えることができるでしょう。
A.CV+スル→CV+スル→CVu+スル→CVuズル(連濁する。例:「生シヤウズル」→「ショウズル」)
B.Cu+スル→Cuスル(連濁せず。例:「号ゴウスル」)
つまり上の連濁・非連濁の違いから喉内鼻音-は「号ゴウスル」などの母音的韻尾とは異なり、鼻母音的な「ウ」に変化していたと考えることができるでしょう。これらの三内鼻音の変化はまとめると、m(→n)とnは撥音として定着し、はウに変化したということができるでしょう。
さて上の促音便・撥音便とイ(ウ)音便の表記の変遷をまとめると、次のようになります。(各音便の例はこちら)
794〜 1180〜 1603〜
平安時代 鎌倉時代 江戸時代
1a.イ音便 :「イ」A 「イ」B 「イ」C 「イ」D1b.ウ音便 :「ウ」E 「ウ」F・H 「ウ」G
2.撥音便 :
ム音便(m):「」----------→「」I→「ム」L---------→「ン」に合流
ン音便(n):「」J(みなし連声)------------→「ム」J------→「ン」K----→「ン」主流に
ウ() :----------------------------------→「ウ」に合流
3.促音便 :「」N・O→「ム」P------------→「ム」M→「ン」Q→「ツ」R---→「ツ」が一般化
*m:唇内(ム)撥音便。n:舌内(ン)撥音便。(ng):喉内撥音便(のちウに変化)
*下記例は(山口・秋本 平成13:当該項)より引用。
1a.イ音便
A:「キ→イ」の例:「ツイテ」(「次」:弘仁元年(=810年)
B:「シ→イ」の例:「オコイツ」(「起」:天歴4年(=950年))
C:サ行イ音便「シ→イ」の例:「ハナイタ」(「話」:慶長8年(=1603年))
D:「リ→イ」の例:「よろしうございます」(『浮世風呂』:江戸時代後期から見られる)
1b.ウ音便
E:「ク→ウ」の例:「カウハシ」(「馥」:弘仁元年(=810年))
F:特殊ウ音便「ヒ→ウ」の例:「伊毛宇止」(「妹」:『倭名類聚抄』(930年代))
G:「ミ→ウ」の例:「ヤウテ」(「病」:『石山寺本大般涅槃経』万寿元年(=1024年))
H:特別変化「ガ→ウ」の例:「加宇布利」(「冠」:『倭名類聚抄』(930年代))
2.撥音便
I:ム音便の例:「伊奈美」(「印南」:『万葉集』(930年代)。10世紀末頃まで無表記が見られる)
J:ン音便の例:「加尼波多」(「綺」:『華厳音私記』(奈良時代末:上代語辞典編修委員会編 1985:205)。「加牟波太」(「綺」:『倭名類聚抄』(930年代):ム表記あらわれる)
K:ン音便の例:「イカン」(「何如」:康和元年(=1099年):ン表記あらわれる)
L:「ヒ→ム」の例:「詠むだる」(『土佐日記』(935年:ム表記)
M:「ヒ→ム」の例:「シタカムテ」(「従」:天喜2年(=1054年):ウ音便の例。共通語は促音便)
3.促音便
N:無表記「リ」の例:「支天」(「伐」:『日本霊異記』(823年))
O:無表記「チ」の例:「アヤマテ」(「謬」:嘉祥3年(=850年))
P:ム表記「リ」の例:「破多牟天」(「徴」:『日本霊異記』(823年))
Q:ン表記「リ」の例:「ノホンテ」(「昇」:康平6年(=1063年))
R:ツ表記「リ」の例:「ノツトリ」(「規」:康和元年(=1099年))
注1:これらの例は筆者が任意に選んだため、各音便の最古例とは限っていません。
注2:特殊ウ音便・特別変化についてはこちら
先の記述や上の変化から特殊ウ音便・撥音便・促音便の表記の変遷を対照させ、模式図としてあらわせば、次のようになるでしょう。
古代以前 平安時代 鎌倉時代
1.特殊ウ音便 :音便化せず-→「ウ」
2.撥音便(鼻音m):無表記----→「ム」-----------→「ン」
(鼻音n):無表記--------→「ム」-------→「ン」
(鼻音):無表記---------------------→「ウ」
3.促音便 :無表記-----------→「ム」-→「ン」-→「ツ」
このような各音便の表記の変化から、音便の発生の遅速を考えると、次のようになるでしょう。
イ(ウ)音便-→撥音便-→促音便
また「ウ(イ)音便は促音便・撥音便と交替する」という言葉があるように、各音便は次のように各々交替することがあります。
1.促音便とウ音便(例:「買ひて」→かって(東日本方言)/こうて(西日本方言))
2.撥音便とウ音便(例:「病みて」→やんで/やうで)
3.撥音便と促音便(例:「手伝ひ」→てつだい/てったい(滋賀方言などで「手伝い」)
*撥音便「てつだい」の注はこちら。
ところでこのような音便の交替の原因が起こるのはどんな理由によるのでしょうか。1の交替には特殊な原因Xを、2の交替にも特殊な原因Yを、また3の交替にも特殊な原因Zを考えるのがよいのでしょうか。たしかに1・2・3の交替にそれぞれ特殊な原因X・Y・Zを考えるのもよいのですが、次のような助数詞の発音の違いはそれではどのように考えるべきでしょうか。ここで助数詞の発音を、次に見ておきます。
A.促音形(-C2C2-) B.基本形(-C2-) C.撥音形(-NC2(’)-)
p:いっぽん(一本) にほん(二本) さんぼん(三本)
t:いったい(一体) にたい(二体) さんたい(三体)
k:いっかい(一階) にかい(二階) さんがい(三階)
*C1:前の子音。C2:うしろの子音。N:撥音(連濁になるときも)。':連濁をあらわす。
*たとえば助数詞「〜本」で考えると、Aは-pp-で半濁音形、Bは-h-で清音形、Cは-b-で濁音形(連濁)となっています。
このような助数詞の発音の違いは「びっちゅう」(備中)・「びぜん」(備前)・「びんご」(備後)というような言葉にもみられますが、なぜこのように同じ助数詞が違って発音されるのでしょうか。そこでその理由を知るために中国中古音と漢数字が日本に渡来した当時の発音(呉音・漢音)を、次に比べることにします。(それぞれカールグレン 1995:705,p556,p588)
中古音 呉音 漢音
一:t ii itsu
二:i ni i
三:sm son san
*引用書では(中国)中古音は「古音」と表記されています。
上の比較から促音形・基本形・撥音形の違いは前の語である一・二・三の数字の語末の違い(それぞれ語末子音t//m)に原因があることがわかります。そうするとこのように助数詞の読みが交替している原因は語末の母音・子音の違いにあるのですから、助数詞の促音形・基本形・撥音形の違いの原因を別々に考えるというのもおかしいのではないでしょうか。このように考えてくると、これらの各音便の交替の原因はただ一つの原因によって起こったと考えるほうが理にかなっているように思えます。しかしそう考えると、あるときは促音便とウ音便が交替し、あるときは撥音便とウ音便とが交替し、またあるときは撥音便と促音便が交替するということになります。しかしそれではこれらの音便がそれぞれ交替する原因はどのように考えればよいでしょうか。このようにあちら立てればこちら立たずという状態ですが、この難問を解決するために次のように考えることにします。つまり各音便の起こる原因はただひとつであり、その原因には各音便を起こすそれぞれの条件があると考えます。そしてそれらの各音便の発生にはおおまかにいってイ(ウ)音便、その後撥音便、最後に促音便が起きているという時間差があるので、イ音便が起こったときは撥音便や促音便を起こす条件は内在していたのですが、まだ撥音便や促音便を起こす機が熟していなかった(つまりまだ撥音便や促音便が発現しなかった)と考え、撥音便が起こったときは促音便を起こす条件は内在していたのですが、まだ促音便を起こす機が熟さなかった(つまりまだ促音便が発現しなかった)と考えることにします。
話が少しこみいってきたので、ここで仮面をかぶった人物をたとえに使って説明することにします。まずある人物Xが素顔の上に促音便の仮面をかぶり、その上に撥音便の仮面をかぶり、さらにその上にイ(ウ)音便の仮面を、そして一番上に白面をかぶっているとします。そうするとこの白面をかぶっている人物Xがこの白面を脱ぎすてればイ(ウ)音便の仮面の人物Aに変身します。そしてこの人物Aはその後どのような人生を歩もうとも世間の人々には人物Xでなく人物Aが生活しているとうつるでしょう。そしてもしこの人物Aが再びイ(ウ)音便の仮面を脱ぎすてれば人物Aでなく撥音便の仮面をかぶった人物Bに変身するでしょう。そして同じようにこの人物Bが撥音便の仮面を脱ぎすてれば促音便の仮面をかぶった人物Cに変身することでしょう。ところでこの人物Xは死ぬまでどこでどのような生活をしたとしてもただひとりの人物Xであるにもかかわらず、世間の目には人物Aや人物Bとして、また違った土地では人物Cとしてたち現れています。つまり見た目の人物は時代により土地により色々違った人物であったとしてもただ一人の人物であることにはまちがいありません。ここまで仮面をかぶった人物Xにたとえて説明してきましたが、これを各音便の交替の話にもどすと、各音便の交替の原因は各音便を起こす三つの条件を内在させているある一つの何かであると考えることができます。そしてその条件の違いによりある時はイ(ウ)音便が、またあるときは撥音便が、そしてある土地では促音便が現れていたためこれらの各音便が交替したようにみえるのでしょう。
そこでこの考えを模式図であらわしてみると、次のようになります。
音便未発現 イ(ウ)音便発生 撥音便発生 促音便発生
イ音便:(X・Y・Z)-----→Xイ音便(Y・Z)
撥音便:(X・Y・Z)-----→Xイ音便(Y・Z)-----→Y撥音便(Z)
促音便:(X・Y・Z)-----→Xイ音便(Y・Z)-----→Y撥音便(Z)----→Z促音便
*X:イ音便の起こる条件。Y:撥音便の起こる条件。Z:促音便の起こる条件。
Xイ音便:イ音便の発現。Y撥音便:撥音便の発現。Z促音便:促音便の発現。
( ):各音便の起こる条件が内在しているだけで、まだ音便現象が発現していない状態を示す。
さて各音便の交替の理由はこれでよいでしょうから各音便の起こるただ一つの原因を探っていくことにします。そこでどのような条件によって各音便が発生するのかを考えるために、これまでの考察結果をもう一度掲げることにします。まず前ページでイ段転呼の変化を、次のように考えました。
A.Ci/Cu---→Ci/Cu---→C'i/C'u---→i/u---→i/u
*C:閉鎖音(p・t・k)。C:Cの喉頭化音。C':Cの摩擦音。i・u:i・uの喉頭音化音。i・u:母音イ・ウ
*ただしp(両唇閉鎖音)の場合は特殊ウ音便化(pi→pi→u→u)します。
また以前入りわたり鼻音・鼻母音と撥音の関係から鼻母音の音韻変化を、次のように考えました。
B.CC'V>CVC'V>CVC'V
*C・C':子音。V:母音。:鼻鼻音化母音。:入りわたり鼻音。:撥音。
そしてさきほど促音便の語末の変化を、次のように考えました。
母音の無声化 語末子音化 喉頭音化 喉頭化音の消失
C.C1V1C2V2-------→C1V1C2
2--------→C1V1C-------→C1V1---------→C1V1 *C1・C2:子音。V1・V2:母音。
:無声化母音。C:語末子音(C2もしくはその変化形:閉鎖音・摩擦音・鼻音など)。:喉頭化音。:喉頭化音の消失をあらわす。
いま上に三つの変化をかかげましたが、これらの変化がそれぞれイ(ウ)音便・撥音便・促音便の変化であることはすぐ納得できると思います。そこでこれらの変化と先ほどの模式図で表わした変化とを矛盾なく整合させるために、各音便が起きるただ一つの原因として語末が鼻母音化した一音節語(下記のC22)を考えます。そしてその一音節語(C22)を音節間に挿入すると、上のA・B・Cの各変化は、次のようになるでしょう。
A':C11C22C33-→C11C33-→C11C'33-→C113-→C113(のち母音融合)
B':C11C22C33-→C11C33-→C11C3V3-→C11C33-→C11C3(-→C11C3:のち撥音化)
C':C11C22C33-→C11C33-→C11C33--→C11C3-→C11(-→C11:促音化)
*一音節語(C22C33→C33)の変化についてはこちら。(詳しくはこちら)
*記号については上を見てください。
上の変化式ではわかりにくいと思いますので、「書きて」「病みて」「買ひて」「手伝ひ」の例で、これらの変化を見てみることにします。
1.「書きて」:ka(C22+k)te-→kakte-→kaxte-→kate(-→書いて)
2.「病みて」:ya(C22+m)te-→yamte-→yate-→yaute(-→やうで)
ya(C22+m)te-→yamte-→yamte-→yamte-→yamte(-→病んで)
3.「買ひて」:ka(C22+p)te-→kapte-→kate-→kaute-→kaute(-→こうて)
ka(C22+p)te--→kapte-→kapte-→kapte-→kate(-→買って)
4.「手伝ひ」:te(C22+t)tahi-→tettahi-→tetutahi-→tetudahi-→tetudahi(-→手伝い)
te(C22+t)tahi-→tettahi-→tettahi-→tettahi-→tetahi(-→てったい)
*なお「てつだい」「てったい」は「てつたひ」のヒもイ音便化しています。
*変化式2のm-→、6のp-→の特殊ウ音便の変化については、次回の更新(「人の語源」)で考えます。
このような各音便の変化をまとめると、次のようになります。
音便未発現 イ(ウ)音便 撥音便 促音便
1:書きて------------→かいて
2:病みて-----┬-----→やうて(→やうで)
└-----------------------→やんで
3:買ひて-----┬-----→かうて(→こうて:西日本方言)
└-------------------------------------→買って(東日本方言)
4:手伝ひ(てつたひ)-┬→(てつたい)--------→(てつだい)
└--------------------------------→てったい(滋賀方言など)
*「てつだい」は撥音便ではありませんが、連濁になっているため「てつたい」→「てつんたい」→「てつだい」のように変化したと考えることができます。
また撥音便と促音便の表記の変遷は、次のように考えることができるでしょう。
ム表記 ン表記
撥音便:yamte(「病みて」)----→yamte(「ヤムテ」)-----→yande(「ヤンデ」)
無表記 ツ表記
促音便:motte(「持ちて」)-----→motte(「母モテ」)----→mote(「モッテ」)
上のそれぞれの変化は次のように考えることができます。まず母音が無声化したあとその無声化母音が消失してyamteとmotteになりました。そしてyamteは喉頭音化()が消失するまえに撥音便表記(「ヤムテ」)があらわれ、その後m→nの変化ののち連濁したために、その表記は「ヤンデ」になりました。それにたいしてmotteは語末tが遅くまで残存したために無表記(「母」:moが鼻母音でないと矛盾しますが、ここではmoにしてあります)がつづき、その後入声音tが消失しmoteになり、それに応じた促音便表記(「モッテ」)があらわれたのです。
ところで上の各音便の発現順序は、次のような音韻変化の順序に対応しているのがわかります。上の例を使ってそれをみておきます。
喉頭音化-----→イ(ウ)音便化
└------→入りわたり鼻音化
└----------→母音の無声化1.書きて:kak
te------→kate(------------------------------→かいて:イ音便)
2.病みて:yamte-┬--→yate-----→yaute(------------------→やうで:特殊ウ音便)
└----------------------------→yamte(----→やんで:撥音便)
3.買ひて:kapte--┬--→kate----→kaute(-------------------→こうて:特殊ウ音便)
└----------------------------→kapte(-----→かって:促音便)
4.手伝ひ:tettahi-┬-------------→tetutahi(-----------------→てつだい:連濁)
└---------------------------→tettahi(---→てったい:促音便)
つまり各音便は喉頭音化を起こしたあと、まずイ(ウ)音便化が、その後撥音便が、そして最後に促音便という順序に発現したのです。そして最初にイ(ウ)音便化した(例:「書いて」)のですが、そのなかのあるものはその後入りわたり鼻音化を起こし特殊ウ音便(例:「やうで」「こうて」)を起こしました。また喉頭音化を起こしたなかのあるものはイ(ウ)音便化する前に入りわたり鼻音化したものはその後連濁を起こし(例:「手伝い」)、入りわたり鼻音化せずに母音の無声化を起こしたものはその後連濁を起こした(例:「病んで」)ものと促音便化(例:「買って」「てったい」)したものとの2種にわかれたのです。このように国語学で説明されているイ(ウ)音便・撥音便・促音便や連濁という現象は上でみるように喉頭音化・イ(ウ)音便化・入りわたり鼻音化・母音の無声化という言語学の用語でうまく定義することができると考えられます。
さてここまで音便の変化を色々考えてきたのですが、まだいくつか考察すべき問題が残っています。その問題点を列挙します。
1.「かい」(「櫂」)はイ音便の最古例か。(新しい考察はこちら)
2.「書きて」は「書いて」のようにイ音便化したのに、なぜ「書き手」は音便化しなかったのか。
3.サ行イ音便(例:「落といた」)はのち非音便形(例:「落とした」)にもどったのはなぜか。(新しい考察はこちら)
4.タ行連声現象はどうして起こったのか。
5.古代では中国渡来音の語末には母音iまたはuなどを添加(たとえば「菊」の語末u)したのに、現代では英語からの借用語は促音化される(たとえば「ベッド」←bed)が、この違いの原因はなにか。
6.音便の原因として音節間に一音節語(C22)の挿入を考えたのですが、そのC22とはいったい何か。
7.特殊ウ音便(例:「病みて」→「やうで」)の変化はどうして起こったのか。
8.撥音便と促音便が漢語の影響でおこったというのは本当か。
まず問題1(「かい」はイ音便の最古例か)を考えます。まず問題点をしるために、次に引用します。(それぞれ山口・秋本 平成13:35、上代語辞典編修委員会編 1985:176)
「〔歴史〕 @キ・ギ→イ。この音便が最も古く、かつ文献上の偏りもなく用例も多い。『万葉集』に櫂を加伊・賀伊と表記したものがあり、これを「掻く」の音便形と見ると最古の例となるが、鎌倉時代までは音便は語末には生じないので問題が残る。・・・・(以下省略)」
「かき 動詞につく接頭語。動詞掻カクの連用形が接頭語化したもの。指先でする動作を表わす動詞に接することが多く、原義を幾分残しているものも見られる。「加岐かき廻ミる磯の崎落ちず」(記神代)・・・・(以下、用例省略)・・・・【考】「皇子撰カイハツリレ臂ヲ按レ剣奏言」(天武紀元年)「撹加伊奈也須カイナヤス也」(新撰字鏡)などは、カキの音便形であろう。「海人舟にま楫カヂ加伊カイ貫き」(万三九九三)のカイも同じものか。・・・・(以下省略)」
*「き」(甲類)にふられている右棒線は省略しました。
上の引用でわかるように、「かい」(「櫂」)は「掻き」のイ音便形とみられイ音便の最古例と考えられるのですが、鎌倉時代までは音便は語末には生じないという観察があり矛盾が見られます。ではこの問題はどのように考えればいいでしょうか。そこでこの問題を解くために、以前の「全段転呼」と「イ段転呼」の違いを表わした模式図を使って考えることにします。
イ.全段転呼の変化
3世紀 5世紀 平安時代
カ行:(ki---→)xi---→iA
タ行:(ti-------------→)si・i→iA ハ行:(pa----------------------→)F
aB
ロ.イ段転呼の変化
平安時代 中世 現代
カ行:(ki----→xi-------------→)iC-----------→i---------→i
タ行:(ti---→si・i---------------→)iC--------→i---------→i
ハ行:(pi--------------------------→)FiD-----→u--------→u
*例は母音「イ」(全段転呼のハ行は母音「ア」)で説明しています。
*上の模式図はおおよその年代です。
*A:その後母音融合し、上代特殊仮名遣いを発生させた。
*B:その後ハ行転呼音となった。
*C:その後イ音便化した。
*D:その後特殊ウ音便化した。
このように全段転呼とイ段転呼の変化を考えると、「かい」(「櫂」)は全段転呼の変化(ki→xi→i)によって起こったイ音便と考えることができ、上で問題になった「鎌倉時代までは音便は語末には生じない」ということの矛盾も解消されるでしょう。(新しい考察はこちら)
次に問題2の「書きて」と「書き手」の変化の違いを考えることにしましょう。連用形「書き」は古代以前にはkaC22kのようなものだったのですが、奈良時代にはkakに変化していて、それに助詞「て」がついてイ音便を起こし、その後喉頭化音が消失し、現在の「書いて」になりました。しかしこの一音節語C22は平安時代頃以降は付加されることがだんだんなくなり(「係り結びの消失」)、連用形「書き」に「手」(〜する人の意)が直接ついたため、喉頭音化のある「書きて」のようにはイ音便化しなかったためです。その違いをは、次のように比較することができるでしょう。
書きて:(ka(C22+k)+te--→)kakte--→kate--→kate---→kaite
書き手: kak+te----------→kakte---→kakite(かきて)
*「書き手」は「*史記抄-二・周本紀第四「写本ぢゃほどにかきての誤てぞあるらうぞ」(日本大辞典刊行会編4巻 昭和48:389)にみられるように15世紀頃にできた言葉です。
次に問題3(サ行イ音便の問題)を考えることにします。まずあまり馴染みのないサ行イ音便について、次の引用によって紹介します。(奥村 1977:606)
「サ行イ音便の消長
一 はじめに―サ行四段動詞イ音便
現代京都語をはじめ、多くの方言において、四段活用動詞完了形は、概ね、所謂音便の形をとるが、サ行四段動詞に限って、音便形をとらない。然るに、名古屋岐阜地方その他西日本諸方言においては、話イタ(1)等サ行イ音便の認められる所が、かなり存する。之等諸方言の姿は、当然、何らかの意味で、国語―京都語―史的事実を反映しているはずである(2)。」
この文章でわかるように、サ行イ音便とは共通語の「話した」が方言で「話いた」などとイ音便化している現象をさすのです。そしてこのサ行イ音便の現代方言における残存は、次のような状態であることが知られています。(奥村 1977:612)
「(3) 現代サ行イ音便の残存は、東日本に殆んど認められない。その東限は、従来から説かれている如く、大体、佐渡・新潟県西端・岐阜県・長野県南部・静岡県あたりを結ぶ線であり、指定辞・否定辞・動詞命令形語尾・形容詞連用形等、いろんな形態素的特徴における東西方言の境界と、ほぼ一致する。」
ところでこのように珍しいサ行イ音便ですが、なぜこのような変化が誕生したのでしょうか。この変化の理由についてはすでにいくつかの考えが出されているので、その中からアイディアとして役立つものを、次に紹介します。(それぞれ奥村 1977:613、p614)
「(3.2) 所で、東日本に、サ行イ音便が、余り波及しなかったのは何故か。
イ(筆者注:○のなかに「イ」です) 先ず考え合わされるのは、次の事実であろう。即ち、関西方言等に著しいシ→ヒの音変化傾向(質ヒチ屋・舌ヒタ等)―更に、サ行音→ハ行音という一般的変化傾向―は、東日本に殆んど認められず、而して、その境界は、大体、サ行イ音便の境界に準ずる様である。
特に、話ヒ〇タ等の形は、音変化としてのサ行イ音便の一過程を示すものと見られるが、その分布は、サ行イ音便の場合と密接な関係をもつ。『近畿方言叢書一』p121・『報告書』・『NHK資料』その他によれば、この形は、サ行イ音便の盛な西日本周辺部をはじめ、愛知県南設楽郡・海部郡・静岡県安倍郡等各地に、かなり広く認められるが、その辺から東には存しないのである。」
「(4.1)サ行イ音便の一過程ともいうべき話ヒ〇(子音は又はその有声音)タ形については、或程度前述―(3.2)項(イ)―したが、従来報告されている山陽・近畿一部の他、東海地方も含めて、西日本各地に、かなり広く認められる。而して、その分布は、大体、サ行イ音便の場合に準ずる。〈之等の形が、京都語史における、サ行イ音便成立過程の或姿を反映している〉可能性は、極めて大きい訳である。
尤もこの場合、中古期京都語のサ行イ音便が、si→i(子音有声化の場合を含む)→iの如き過程をとったものとしても、そのi等が、音韻論的に/ヒ/と意識された訳ではない。/ヒ/の子音が唇的摩擦音だった古代京都語では、その様な音は、むしろ/イ/などに近く意識されたはずである。京都語史文献の/イ/音便表記の中には、iの他、i又はそれに準ずる音価の場合もあったかと想像されるのである。」
またこのサ行イ音便の衰退時期については、次のようなことが知られています。(奥村 1977:618)
「▽結局、京阪語史におけるサ行イ音便は、〈室町末期〜元禄期の間に、甚しく減少し、宝暦期頃には既に、ほぼ現代語と同様、サス等の化石形を除いて、殆んど衰退していた〉と言うべきであろうか(17)。
(3) 文献資料の関係で、古い東国方言の事は、よくわからないが、少くとも、近世江戸語では、サ行イ音便が殆んど認められない。・・・・(以下省略)」
このようにサ行イ音便の分布や衰退状況などは上の引用のとおりですが、ひとつ問題があります。それはサ行イ音便はイ音便化(シ-→イ)したあと衰退したのですが、その後再び「話イタ」-→「話シタ」のように先祖返りをしていることです。(以前の考察は削除しました。新たに2008.1.25に書きなおした考察はこちら。)
次は問題4(タ行連声現象の問題)です。タ行連声現象は「日月ハ」を「日月タ」のように発音された現象で、次の引用文でわかるように近世期に衰退したと考えられています。(奥村 1977:233)
「「絶域チキ・日月はタ・念仏をト」(京大本平曲正節の例)のごときタ行連声現象も、近世期にはおおむね衰退した模様であるが、これもつまりは、語末促音の消滅を意味する訳である。」
上でわかるように文字で考えると「ハ」が「タ」のように変化する現象で、現代の我々には不思議な変化にみえます。そこでこの変化を考えるために、まず中世における「日月」の発音を、次にみてみることにします。(土井ほか 1980:462)
Nichiguat.ニチグヮッ(日月) Fi,tuqi.(日,月)太陽と月と.
このように中世の「日月」の語尾は入声音のtでおわっているのがわかります。そこでこの入声音tをもつ語尾のあとにpa(←pa:助詞「ハ」)を考え、次のような変化を想定します。
CVtpa---→CVta---→CVta--→CVta
*いま中国渡来音は正確にはわからないので語尾の入声音tを残し、そこまでの音(Nichigua)をCとしてあります。
*pa→a(=a:は両唇摩擦音)の変化はこちら。aの表記はこちら。
*『日葡辞書』時代の「日月は」の発音は「ニチグァッタ」(Nichiguata)のような発音だったと思われます。
つまり上のような変化を想定することによって、タ行連声現象を説明することができると思われます。
次に問題5の「語末に母音i・uを添加されることと、促音化されるコトの違いは何か」という問題ですが、この問題は疑問としている点がよくわからないと思いますので、例にあげた「ベッド」と「菊」との違いを知るために小松氏の言葉を、次に引用します。(それぞれ小松 昭和56:192,p193)
「右に指摘したように、‘I go bed.’,‘This is a cat.’というような英語を日本人が日本語流に読むと、bed [bed],cat [kt]などに、自然に促音が挿入され、したがって、外来語としても、「ベッド」「キャット」の形をとる。発音表示からも知られるとおり英語に促音があるわけではないのに、こういう現象が生ずることには、なにか音声上の理由があるはずである。」
「漢和字典で調べてみればすぐにわかるとおり、これは和語ではなく、この文字の音おんである。『万葉集』にはでてこないが、『古今和歌集』になると頻出している。その当時の中国語で、「菊」という文字はkukと読まれていた。このkukも全体で一音節であるから、dogやcatの場合と同じように、やはりそのままには日本語の中に取り入れることができなかった。そこで、中心母音の[u]を脱落させて、前の方を[ki]というCV音節にし、また、末尾の[k]がそれだけでは独立した音節を構成できないので、そのあとに狭い母音の[u]を添えて、全体を二音節語にしたのが[kiku]という語形なのである。」
上の引用でわかるように、外来語を日本語化するための方法が古代では「語末に狭母音u(またはi)を添加する」のに、現代では「ベッド」のように促音化されるという違いがあるのがわかります。そしてこのような日本語化のための方法が異なることにたいして、小松氏は、次にように考えられています。(小松 昭和56:195-6)
「漢語の場合には、CVC=音節でも促音の存在を感じ取らせるような緊張感をともなわかったのであろうか。すでに失われてしまった発音なので推定に頼らざるをえないが、現代中国の南方方言の状態などから考えて、おそらく、その点については現代の英語と同じか、それ以上だったのであろう。ただ、それらが日本語に導入された時期には、まだ促音が一般の語彙にまで定着していなかったために、そういう形でとらえらえなかったということなのであろう。漢語型と欧語型とにおけるこの相違は―、すなわち、「きく(菊)」「キック(kick)」との相違は―、日本語における促音の歴史と結びつけて理解すべきもののようである。」
上の小松氏の考えで、私がとりあげた疑問点がはっきりしたと思います。つまり古代の中国渡来音も現代の英語の音も同じような条件であるらしいのに、古代では「語末に狭母音u(またはi)を添加する」のにたいして、現代では促音(と語末母音添加)として発音されるのはなぜかということです。この疑問にたいして小松氏は「日本語における促音の歴史と結びつけて理解すべきもの」という理にかなう考えをだされているのですが、結果として何の解答もだされていません。これでは問題の提起としてはすぐれていても問題の解決には何の役にもたっていません。
ではこれからこの問題を考えていくことにします。まず「菊」「インク」「キック」の原音と仮名表記を対照させてみると、次のようになります。
古代:kuk(菊)-----------キク
明治:ik(ink:インク)------インク・インキ
現在:kik(kick:蹴る)------キック
*以下、上のkuk・kickはkikで説明します。
上でわかるように古代の渡来音kikは「キク」に、現代の英語からの借用語kikは「キック」になっていて、発音が違っているのがわかります。そこでまず中国渡来音が「キク」(菊)と発音された理由を考えることにします。そこでその原因となるイ(ウ)音便化の変化を、もう一度引用することにします。
イ(ウ)音便化:C11(X2)C33-→C11C33-→C113(---→C1V1V3、のち母音融合)
*X2はある何らかの一音節語。他の記号は前に同じ。
上の変化式で一番前にある音節をkik、X2はある何らかの一音節語、また最後のC33をここではCと考えると、上の変化式は、次のようになるでしょう。
「菊」:kik+(X)C---→kikC---→kik---→kiku)
*中国渡来音kukが「キク」と発音された当時の発音はkik(キックンのような音)でした。
つまりこのような変化を想定することによって、古代、中国から渡来したkukが「菊」として日本語化されたと考えることができます。そしてこのような変化は先のタ行連声現象の例であげた「日月タ」(←「日月+ハ」)でも確かめることができるでしょう。そこで古代、語末に付加された(X)Cの音節の変化を考えると、その後に変化しています。そこでその変化は、次のように考えることができるでしょう。
(X)C---→C---→---→u
*この変化には「ウ」だけでなく、「イ」(C---→:例(「歴」))にもみられます。
上の変化式でわかるように、このが語末が子音である中国渡来音を日本語化させるための付加母音であったと考えられます。つまり現代の日本語だけでなく三世紀倭人語でも「語末が母音おわり」であるという日本語の特質はこのような語末の付加母音(、など)によっているのがわかります。
ところで形容詞の語尾はよく知られているように、次のように変化しています。
例:「良い」(よし---→よい)
*「シ」・「イ」の相関についてはこちら。また「シ」→「イ」の変化の例はこちら。
たとえば「いまい」「うざい」「きもい」といった現代に作られた(発生した)形容詞は必ずその語尾は「イ」でおわり、決して「シ」でおわることがありません。これは古代の形容詞語尾が「シ」であったのですが、その語尾「シ」が中世以降「イ」に変化したことに原因があります。つまりこのことから現代の形容詞語尾「イ」を古代の形容詞「シ」の痕跡(変化の跡)であると考えることができるでしょう。そこでこの痕跡という考えを、先の語末に付加された(X)Cの音節に適用すると、その痕跡は現代ではであるということができるでしょう。つまり現代の英語からの借用語であるkick(以下ではkikで説明します)は、次のように日本語化されると考えることができます。
よくわかるように先の「菊」と対照させておきます。
「菊」 :kik+---→kik---(喉頭化音と鼻母音の消失)---→kiku
「キック」:kik+u---→kiku---(喉頭化音の消失、促音化)----→kikku
*:古代における(X)Cの痕跡。
*u:現代における(X)Cの痕跡。
上の変化をみればわかるように、古代の外来語である「菊」には語末に(X)Cの痕跡である母音を、現代の外来語である「キック」には(X)Cの痕跡である母音uを付加したのです。形容詞の終止形語尾シが現在ではイになっているように現代語の語末には鼻母音()がないので古代の痕跡もuに変化したものが語尾に添加され、それぞれkikとkikuになったのです。「菊」のほうはその後喉頭化音()と鼻母音()が消失して「キク」になり、「kick」は喉頭化音の消失によって促音化されて「キック」になったのです。このように外来語を日本語化するために同じ方法で語尾に(X)Cの痕跡を付加したのですが、現在の我々の目からみれば「語末にウを添加」する方法(古代)と「語末を促音化」する方法(現代)とちがったように見えることになったのです。
さてこれで借用語「菊」と「キック」との違いの原因はわかったのですが、このような母音音節の添加現象はハワイ語中の英語借用語にもみられます。そこでハワイ語と日本語の母音添加現象を比べてみると、次のようになります。(庄司ほか 1990:13)
英語 ハワイ語 日本語
1.Merry Christmas[mri krsms]:Mele Kalikimaka メリー・クリスマス〔meri: kurisumasu〕
2.flour[flur] :Palaoa フラワー〔furawa:〕(粉,パン)
3.pray[pri] :pule プレイ〔purei〕(祈り,祈る)
*[ ]は国際音声記号による発音(『研究社新英和中辞典(携帯版)』(岩崎民平、小稲義男監修 研究社辞書部 1968.3(初版7刷))より引用)。〔 〕は日本ローマ字
*ハワイ語には元来の子音にt・sやfはなく、通常これらのt・sとfはそれぞれkとpで発音されます。(庄司ほか 1990:23より引用)
「falu /falu/ 流感 tausani /tausani/ 1000
palu /palu/ 同上 kaukani
/kaukani/ 同上」
上に見られる英語借用語のハワイ語と日本語との驚くべき相似性は、次のような比較で良く納得できることと思います。
英語 :mri krsms
ハワイ語:Mele K(a)lik(i)mak(a)
日本語 :meri: k(u)ris(u)mas(u)
*( )の母音が付加母音。
ところでこのような音節間の母音付加の方法やその挿入位置といった類似性はハワイ語と日本語における単なる偶然と考えるべきものでしょうか。それともハワイ語と日本語との同系を証明するための一つの重要な証としてみるべきものでしょうか。皆さんはどのような感想をもたれるでしょうか。
さて次は問題6(音節間に挿入される一音節語(C22)とは何か)です。さきほど外来語「菊」と「キック」の違いを(X)C音節の痕跡であるやuの語尾への添加で説明したのですが、それとは別に前に音便の変化とイ段転呼の変化を考えました。そこでそれらの変化を比べて見ると、次のようになります。
音便の変化 :C11(C22)C33----→C11C33------→C113----→C113
イ段転呼の変化 : Ci/Cu----------→i/u-------→i/u
語末添加母音の変化: (X)C-------→C----→----→u
*C22やXの消失代償として、次音節のC33やCが喉頭音化しています。
上で対照した変化をみればわかるように、音便の変化も語尾の添加母音の変化も添加された音節の消失代償として次音節が喉頭音化されているのがわかります。ただ音便の変化と添加母音の変化のあいだに見られる違いは音節間に起こっているのか、語尾に起こっているのかという位置の違いだけです。この音節間と語尾における違いは、次のようにあらわすことができるでしょう。
音節間(XY):(C)Y--------→Y----→----→u(---→u)
語尾 (XY) : (C)C-----→C----→----→u
*Yは語末子音。Yは語末音節。Cは喉頭音化が起きる原因である添加音節。Xはある音節。
*音節間は音便の変化。語尾は添加母音の変化(外来語を日本語化させる方法)。
*語末子音Yをt、添加音節Cを助詞「ハ」(pa:ただしCはなし)と考えれば、その変化はタ行連声現象です。
さてこのようなことがわかった上で、もう一度先ほどの英語借用語のハワイ語と日本語の母音音節の添加現象を考えることにします。そこでこの問題を考える上でどうしても必要がある「接中辞」について、次に引用することにします。(土田 平成2:86-7)
「 たとえばフィリピンのタガログ語では「買う」を意味する動詞の行為者焦点形(つまりActor Focus)の既然法(つまり「買った」)は、語幹-biliの語頭子音と母音の間に接中辞-um-が割り込んだb-um-iliである。また目的語に焦点が当てられ、それが文の主語となった目的語焦点形(つまりObject Focus)の既然法は、同じ語幹-biliの語頭子音と母音の間に接中辞-in-が割り込んだ形b-in-iliである(意味はほぼ「買われた(物)」にあたる)。これらの接中辞は台湾やフィリピンや北部ボルネオのあたりまでは生産的で、非常に盛んに行なわれるのだが(だからタガログ語ではtelepono「電話」、t-um-elepono「電話をかける」のように借用語にも使われる)、インドネシア語になるともはや生きて生産的に使われることはなくなり、いわば化石化している状態である。(例えばgirapとgemirapはどちらも「心臓がドキドキする」を表わすが、gemirapがもともとgirapと-em-という接中辞から成っていることはもはや意識されない)。
ところがこの非常に特徴的な接中辞が、同じオーストロネシア語族の中でもオセアニア語派には全然みあたらないのだ。・・・・(以下、オセアニア語派にみられる接中辞の特例やオーストロアジア語族にみられる接中辞の例などがあげられていますが、ここでは省略します)」
このようにフィリピンのタガログ語などの接中辞は文法的な表現力をもっているのですが、ここでは文法性は問題にせず、音節間に接中されるという性質を、次に考えることにします。そうすると先のハワイ語と日本語の母音音節の添加現象とこれらの接中辞を、次のように比べることができるでしょう。
ハワイ語 :pray(「祈り」・「祈る」) p(u)le
日本語 :pray(「祈り」・「祈る」) p(u)rei
タガログ語 :telepono(「電話」) t(um)elepono(「電話をかける」)
インドネシア語:girap(「心臓がドキドキする」) g(em)irap(「心臓がドキドキする」)
*ハワイ語の例は庄司ほか 1990:13。日本語はローマ字綴り。
*( )が添加された音節、もしくは接中辞。
上のように比較してみれば上の各言語に接中(添加)される音節のそのされ方やその音の類似性には驚くべきものがあるといわざるをえないでしょう。そしてハワイ語とタガログ語(現在のフィリピノ語)・インドネシア語は同じオーストロネシア語族に属するとされているのですから、インドネシア語のemが接中辞の化石(痕跡)であるならば、ハワイ語の添加母音uも同じように接中辞の痕跡として考えることができるでしょう。つまりこのような考えから日本語の添加母音uとハワイ語の添加母音uとの相似性を考えると、日本語の添加母音uもオーストロネシア語族の接中辞の痕跡として考えることができるでしょう。
ところでここまで音便の原因として音節間に添加された一音節語(C22)を想定して、ついにそれがオーストロネシア語族の接中辞の痕跡であるという考えにいたったのですが、それではイ(ウ)音便・撥音便・促音便の三つをおこす原因であるこのC22とはいったい何なのでしょうか。確かにこのC22が何であるかは簡単には解けるものではありません。それでこの難問はずっと先の「係り結びとはなにか」で深く考えるとして、いまは少しだけ考える糸口を述べておくことにします。
まずこの一音節語(C22)を副助詞の「シ」と考えると、古文にみられる「AシBバ」(大野 1989a:84-122。特にp108-111)や形容詞語尾(〜シ:現在はイ)などとの関係を考えることができるでしょう。そしてこのように音節間に接中される副助詞「シ」やあるいは助詞「ヲ」はフィリピノ語の接中辞inやumなどと、次のように比較することができるでしょう。
日本語(係り結びなど):「シ」(→「イ」)(t→(→→i)) 助詞「ヲ」(p→→u)
フィリピノ語(接中辞) :in (t→(→→in) um(p→→um)
*「シ」・「イ」(オーストロネシア語族のsi・i)の相関についてはこちら。
これらの詳しい考察(「係り結びとはなにか」)はずっと先の更新になりますが、楽しみにお待ちください。
次に問題の7(特殊ウ音便の問題)ですが、この現象はハ行音のみに起こっていて、p→のように変化したと考えられます。しかしこの問題は「ワ行音はなぜ発生したのか」という問題とつながっていて、考察が長くなりますので、次回の更新(「人の語源」)で考えることにします。
最後に問題の8(撥音便・促音便の発生は漢語の影響か?)です。撥音便と促音便は和語にも中国渡来音にもみられるのですが、そのあいだの相関性や先後については、次のようなことがいわれています。(奥村 1977:234)
「(4.2) 撥音便や促音便と漢字音との直接的相関性は難問題だが、前記三内鼻音や三内入声が何らかの意味でその成立に影響したとする考え方も、むげには否定できない。元来、音韻の発達というような事象は、音韻の消滅とか音価のみの交替など非生産的な変化と異り、一般に外国語音の影響を想定すべき可能性があるが、さらにこの場合、《和語的な撥音・促音の成立期が、漢字音の受容よりやや後れた頃と見なされる》ことなども見逃せまい。例えば、「ホロヒゝ・サカゝ」(竜光院本法華経、一〇五八年頃)のごとき和語的な撥音表記は、字音の場合より半世紀あまりおくれるようであるし、また『平家物語』古写本では、「給タマハて・全マタうして/必ヒツ衰・実ジツ否」等々、和語的促音の零表記と字音のツ表記とが対立しているのである。」
このように和語的な撥音・促音表記が字音のそれより遅れていることなどを考慮して、音便の生じた理由を「A漢語の移入により国語の音節構造が変化し、語の単位が文節単位へと変化したため」(山口・秋本 平成13:115)と考える漢語影響説があります。しかしこの説については、次のような反論がすでに出されています。(それぞれ奥村 昭和47b:78、p82)
「一方、関東方言における和語的撥音の成立は、中央語史のそれよりも、多少早かった様である。たとえば、「馬ウマ・梅ウメ」の第一拍は、万葉では概してウで表記されるが、巻二十の防人歌では、「牟麻」(四三七二、上総国歌)など、平安朝の文献と同様のム表記が存する。また、万葉集の場合、「加牟能禰」(三五六一)や、「可牟思太」(三四三八)の如き、上カミ(ミは甲類)の意のカム形は、巻十四の東歌に限って認められるが、これについても、撥音表記的なものと見なす説(10)がある。なお、関東方言における撥音の発達が、中央語より早かったとすれば、それが、漢字音の影響とは見なし難いものなること、勿論である。」
「漢字音としての入声音が、京畿地方の上流階級を中心に行われた事は、言うまでもないが、和語における促音の発達は、撥音の場合と同様、やはり、関東地方に著しかった様である。たとえば、日蓮上人遺文如説修行抄(〜一二八二年)の例「ひっさげ・うち乗って・かっぱと」などは、おそらく関東方言であろうし、また、平家物語その他の促音形についても、関東方言的要素の混入と見る立場がある。」
上の考えからわかるように、和語的な撥音・促音が漢語の影響を受けて発生したとは考えにくいのは本当のところでしょう。しかしここまで私が漢語とは無関係に、イ(ウ)音便とも関係づけ、撥音や促音の発生を論じてきたので上のように文献からの演繹にたよらなくても和語的な撥音・促音は漢語とは関係なく独自に発生したと結論づけることができるでしょう。ところでこのように和語的な「撥音・促音は漢語とは関係がない」と考えると、またまた問題が起こります。それは「和語的な撥音・促音表記が字音のそれよりおくれていること」、「関東方言における和語的撥音の成立は、中央語史のそれよりも、多少早かった様である」や「和語における促音の発達は、撥音の場合と同様、やはり、関東地方に著しかった様である」(この三つは上の引用文から)などから、和語的な撥音・促音の(関東地方における)発生と漢字音の撥音便化・促音便化がほぼ同時代に起こったと考えられるでしょう。つまり日本語と中国語におけるこのような撥音便化・促音便化の同時代発生という相似性は単なる偶然でしょうか。それとももっと深い何かに原因があるのでしょうか。この問題は「日本語の起源」以上の難問ですので、いずれきちんと考えてみることにしたいと思います。(興味ある方はこちら)
とここまで書いてきて更新の時間がきました。まだいくつか考察できなかった問題(関東方言の「よっぴいて」など)もありますが、それらの問題はまた先のページで折りに触れ考察したいと思います。