「連濁はいつ起こるのか?」
(2004.03.01 更新)
このページでは「人の語源」について考えることにします。
01.はじめに
02.連濁とは何か
03.清濁と連濁の関係
04.清む(清音)と濁る(濁音)
05.ガ行鼻濁音
06.サ行の直音化について
07.タ行の破擦化について
08.ツァ行音について
09.四ツ仮名について
10.すずめはスズと鳴いたか?
11.ラ行音について
12.日本語にはなぜ行音(V-)がないのか
13.『どれが梅(むめ)やら梅(うめ)ぢややら』
14.「母」は「ハワ」から「ハハ」に先祖がえりをしたのか?
15.「ハワ」から「ハハ」への変化を仮定する
16.みたびハ行転呼音の変化を考える
17.促音便ってなに?
18.特殊ウ音便と撥音便・促音便の交替はなぜ起こったのか
19.「人」の語源を探る
目次(「連濁はいつ起こるのか?」)へ
19.「人」の語源を探る
前のページでは特殊ウ音便の変化を解くことができましたが、ここでその例として「人」の語源を考えていくことにします。現在の「妹」(いもうと)はよく知られているように、古語の「いも」(男から女性を指す)と「ひと」(人)の合成語で、それが特殊ウ音便をおこしたもの(imo+pito→imoto→imouto)です。ところで人名の「正人」(まさと)や「和人」(かずと)などは「〜人」を使った漢字で書かれます。しかし「正人」「和人」などは「まさうと」「かずうと」(あるいはそれらの連濁形)のように読まれることはなく、「妹」のようには特殊ウ音便化をおこしていません。そこで疑問がわいてくるのですが、なぜ「正人」「和人」などは特殊ウ音便化をおこさず、そのかわりに「人」と書いて「ト」と読むのでしょうか。たしかに「正人」「和人」などの「ト」に漢字の「人」をあてていることから、昔の人はこの「ト」に人の意味を感じていたのはまちがいないでしょう。たとえば「正しい子になるように」と親が願うとき、自分の子供に「マサ正しいト人」と命名し、それを「正人」あらわすのでしょう。ところでこのような「人」の意味を感じとることができる「ト」は「人」の意味であるとして、前部要素の「ヒ」は何なのでしょうか。なぜ「妹」(いも+ひと)は特殊ウ音便化しているのに、「正人」(まさと)・「和人」(かずと)は特殊ウ音便化しないのでしょう。まずこの疑問を解くために上代の「彦」「姫」「人」の言葉を、次に見てみます。(それぞれ上代語辞典編修委員会編 1985:607,623,615,602)
「ひ甲こ甲[彦・日子](名)男子のこと。「海佐知毘古ウミサチビコ」(記神代) 「日子ヒコ刺肩別命」(記孝霊) 「彦舅ひこヂ〈比古尼ひこヂ〉」(神代紀上)「男星ひこホシ早こぐ船の櫂カイのちりかも」(万二〇五二)「彦比古ひこ」(新撰字鏡享和本)【考】「男子」(記神代)「男王」(記孝霊)はヒコミコと訓まれているが、ヒコが男子の意味で独立して使われることがあったかどうか疑わしい。多くは男神の名につけられている。これにはヒコが上につく形と、下につくものがある。上につく形の方が古いという。ヒは、ヒメ・ヒトのヒと同じ。コは子の意。魏志倭人伝の「又南渡二一海一千余里、名曰二瀚海一、至二一大国一、官亦曰二卑狗一、副曰二卑奴母離ヒナモリ一」の「卑狗」は地方官の意でヒコ(彦)の音を写したものといわれている。「卑」「狗」は、それぞれヒ・コの甲類に当たる字音をもち、仮名遣の上では符号する。=神・=ぢ・=星・山=」
「ひ甲め甲[姫・媛](名)@女性一般をさす。ヒコの対。・・・・(途中省略)「卑弥呼」はヒメコ(姫子)あるいはヒミコ(日御子)を写したものという。・・・・(以下省略)」
「ひ甲と乙[人](名)@人間。人。「一つ松比登ヒトにありせば太刀佩けましを」(記景行)・・・・(途中省略)・・・・【考】日本書記古訓に「大三輪真上田子人フト君キミ卒」(天武紀五年)とある例は、人ヒトの転化形としてフトが存在したことを示すか。・・・・(以下省略)」
「ひ甲」[日](名)@太陽。日光。「青山に比ひが隠らばぬばたまの夜は出でなむ(記神代)・・・(以下省略)」
*上代特殊仮名遣いを示す右棒線・左棒線はそれぞれ甲・乙の記号で代替してあります。
*なお「フト」の例は、次の「夫」にも見られます。(上代語辞典編修委員会編 1985:839)
「をひ甲と乙[夫](名)夫おつと。妻メの対。夫ヲ=人ヒト。ヲフトとも。・・・・(途中省略)・・・・【考】ヲフトの例は「聟乎不止ヲフト」(新撰字鏡)「夫、猶レ扶也、以レ道扶接也、乎布度ヲフト」(和名抄)など見える。」
ところで上の「彦」の考察に「ヒは、ヒメ・ヒトのヒと同じ」とあるので、「彦」「姫」「人」はそれぞれ「日・子」「日・女」「日・人」(=「日なる者」)と分析できると考えられているといえるでしょう。このことは「彦」「姫」「人」の第一音節のヒは「日」と同じ甲類で上代特殊仮名遣いの上でも問題がないことからも一応うなずける考えです。そしてもしこの分析が正しいとすれば、「人」は「日・人」(=「日なる者」)なので、「正人」の「人」をトと考えることに矛盾はないといえるでしょう。しかし少し考えると、次のような疑問が出てきます。
1.「彦」「姫」を「太陽の子」(←日・子)、「太陽の娘」(←日・女)と考えるのは自然ですが、「人」の語義を「太陽の人」(=日なる者←日・人)と考えるのは語義的に少し不自然ではないでしょうか。
2.なぜ「人」には「フト」の交替形があるのに、「彦」「姫」にはそのような交替形がないのでしょうか。
3.なぜ「人」には短縮形「ト」があるのに、「彦」「姫」にはそのような短縮形がないのでしょうか。
4.「人」にのみ特殊ウ音便化(例:いもうと(妹))や短縮形(例:まさと(正人)の「ト」)があるのはなぜでしょうか。なぜならこのような特殊ウ音便化する語は連用形(例:「病みて」→「病やうで」)などをのぞけば、「人」以外にはないのですから。
5.なぜ「人」の「ヒ」はこんなにも簡単に無声化し、消失したのでしょうか。
つまりこのような疑問がわいてくれば、「マサト」(正人)は「マサ正・ヒ日・ト人」からの変化ではないと思われてきます。そこで「マサト」(正人)への変化を考えてみれば、次のようなものが浮かんできます。
A.マサ(正)+ヒト(人:単純語)-------→マサヒト----→マサト(正人)
B.マサ(正)+ヒ(日)+ト(人)--------→マサヒト----→マサト(正人)
C.マサ(正)+ヒ(前接辞)+ト(人)----→マサヒト----→マサト(正人)
D.マサ(正)+ト(人)---------------------------→マサト(正人)
*A、B、Cは原初形はともかくマサヒト→マサトの変化を考えたもの。Dはマサ(正)にト(人)が接尾されたもので、このト(人)にヒ(不明の何か)が前接されたものが「人」(ひと)となったと考えます。
さてAの変化はマサヒトがマサトに変化したように見えるだけで、単純語「人」のヒが消失した確例がありません。またBの「人」のヒを「日」と考えるのも前に述べたように不自然です。そしてCもAと同じくヒが消失した例がありません。このようにA・B・Cのすべてはヒの消失例がないので、Dの可能性が高いと考えることができます。そこで「ト」にはもともと人の意味があって、その後何か不明の前接語が付加されて「人」(ひと)ができたと考えることができるでしょう。それではこれから「ト」に人の意味があったことを見ていくことにします。そのために古代九州にいたとされる隼人・熊襲の言葉から、それを探ることにします。(以下、一般的呼称としてハヤト・クマソを使用します)
まずハヤトについては、次のような言葉があります。(それぞれ上代語辞典編修委員会編 1985:59,日本大辞典刊行会編16巻 昭和50:434,436,122)
「はやひ甲と乙【隼人】(名)ハヤトとも。@九州南部に住む種族の名。「早人はやひとの名に負ふ夜声いちしろく吾が名は告ノりつ」(万二四九七)・・・・途中省略・・・・A九州南部。主として薩摩地方。「隼人はやひとの薩摩の瀬戸を雲居なす遠くも我は今日見つるかも(万二四八)」・・・・途中省略・・・・【考】ハヤヒトのハヤについては、〔イ〕唐書倭国伝の「又有二邪古・波邪・多尼三小王一」の記事が、日本書紀の「夜句人」(推古紀二四年)「隼人」「多禰人」(天武紀一一年)に当たっているから、九州南部の地名であるという説と、〔ロ〕ハヤシの語幹と結びつけて、勇猛なるという意と考える説とがある。・・・・以下省略」
*上代特殊仮名遣いを示す右棒線・左棒線はそれぞれ甲・乙の記号で代替してあります。
*筆者注:夜句は屋久島、多禰は種子島をさします。
「はや-と【隼人】〔名〕(「はやひと(隼人)」の変化した語)@「はやひと(隼人)」に同じ。Aはやと(隼人)の司(つかさ)」の略。*運歩色葉「隼人 ハヤト 唐名布護」B九州南部、大隅・薩摩国(鹿児島県)の男子。・・・・(以下省略)」
「はや-ひと【隼人】〔名〕@(「逸人」で、勇猛な人の意か)古く、大隅・薩摩(鹿児島県)に住み、大和朝廷に従わなかった種族。五世紀後半頃には服属したらしく、やがて朝廷に上番して宮門の警衛などに当たった。・・・・(途中省略)・・・・はやと。はいと。・・・・(以下省略)」
「はい-と【隼人】〔名〕(「はやひと(隼人)」の変化した語)上代、九州の南部地方に住んでいた種族。はやと。はいとん。*書言字考節用集-四「隼人 ハヰト ハヤト 往古隅薩二州出レ之。禁中外門警固或行幸先駈之者也」 古辞書 書言」
このようにハヤトには「はやひと」「はやと」「はいと」などの言葉がありますが、もしこのハヤトを「ハヤ」(隼)と「ト」に分析でき、「ハヤ」にそれ相応の納得できる意味があれば、この「ト」を人の意味に考えることができるでしょう。ところで「ハヤ」は鳥の隼(はやぶさ)と同じ「隼」の字で書かれていることから、古代人は「ハヤ」に「勇猛な(ハヤブサのような)」意味を感じていたと思われます。しかし本当にハヤトの「ハヤ」は「勇猛な」という意味でしょうか。その疑問を解くためにこの「ハヤ」と関係があると思われる「ハエ」について、次に見て見ることにします。(日本大辞典刊行会編16巻 昭和50:139)
「はえ 〔名〕沖縄で南の方位をいう。また、西日本一帯で南風のこと。*日葡辞書「Faye(ハエ)、すなわち、ハエノ カゼ〈訳〉南風」*思ひ出〈北原白秋〉TONKA JHONの悲哀「南風(ハエ)が吹けば菜の花畑のあかるい空に」 方言@南。南方。鹿児島県宝島988 《ふぇえ》琉球995A南風。島根県830・・・・(途中省略)・・・・種子島986 《はい》・・・・(途中省略)・・・・B西南風。静岡県551・・・・(途中省略)・・・・C東南風。山口県吉敷郡秋穂830 D梅雨。五月雨。三重県志摩郡和具044 E風のために白くなって打ち寄せる波。大分県北海部郡日代村網代044 ・・・・(以下省略)
はえ の 風(かぜ) 南風。はえ。*日葡辞書(ハエ)「Fayenocaje(ハエノカゼ)」*俳諧・毛吹草-五・夏「川がりは先凉みとれはへの風」 方言@南風。石見723・・・・(途中省略)・・・・A西南風。島根県八束郡野波830 熊本県938」
上の引用には「沖縄で南の方位をいう」とあるのですが、そこで琉球方言のなかの「ハエ」の分布を見てみると、次のようになっています。(中本 1983:199-200)
「四 「南」について
琉球の「南」を表す方言は、ハエ系、ミナミ系、シリ系、マエ系に分かれる。ハエ系は奄美、沖縄、先島諸島に分布する優勢語形である。pai,p:,pe:のように語頭にp音をとどめる方言は奄美大島佐仁、喜界島北部、与論島、沖縄北部、沖縄東海岸の離島久高島、津堅島、先島諸島に分布している(2)。:,iは奄美大島、hai,he:,e:は奄美、沖縄諸島に分布している。これらは*paeにさかのぼる。その変化過程の一例を示せば、
*pae→pa→p:→:→e:→he:
*pae→pai→pe:
のようになる。
ミナミ系は奄美諸島の中でも奄美大島だけに分布している。しかもハエ系の分布領域内でみられる。・・・・(途中省略)・・・・ミナミ系の方言形minan,minamをみると古い語形が奄美大島だけに残存しているとみたほうがよいのではないか。本来、南風を表すハエ系が季節風に対する関心の強さによって方位語として急速に発達したために、ミナミ系は早い時期に失われる結果になったのであろう。同様なことは、本来、北風を表すニシ系が「北」を表すキタ系の語を衰退に追いやったことにもみられるのである。・・・・(以下、シリ系・マエ系の説明は省略)」
*なお、南をあらわす「ハエ」と共通語の「南」との言葉の古さについては、故村山氏も次のように指摘されています。(村山 昭和50:200)
「日・琉共通祖語が分離する前に,ミナミが琉球語にもあって,後にハエによっておきかえられた可能性もあります。」
このように「ハエ」(ハイ)は方角の南と風向きの南風(その変異として西南風や東南風)をあらわすものと考えてよいでしょう。また方角と風向きはおおいに関係しているので、南と南風は同じ語基であると考えて問題がないでしょう。そこでこの南(風)の語源として「ハエ」・「ハイ」を原オーストロネシア語の「エイ」と結びつける、崎山氏の次のような考えがあります。(崎山 1993:76)
「このハイ,ハエの語源は,原オーストロネシア語*paRi(*pai)「エイ」であったと考えられる。魚のエイは,古ジャワ語pe,マレー語pariなどでその形状から「南十字星」を指すため用いられるが,・・・・(途中省略)・・・・(改行)
・・・・奈良時代の上代日本語の音韻体系に従うならば,原オーストロネシア語の*paRiは古代日本語で*payi,その後,さらにhayiへと変化した。」
そして崎山氏はオーストロネシア語族が波状的に日本列島に渡来したと考えられて、この「ハイ」を「ハイ期(縄文時代後期:中期以降)」に、また「ハイ」と語基を同じくすると思われる「ハヤ」を「ハイ」の母音変異と「類推され」(崎山 1993:81)て、その「ハヤ」を「ハヤト期(古墳時代)」に想定されています。そしてこの考えから「隼人」を“ハヤ−ト「南の(異)人」”(崎山 1993:81)と分析されたのはみるべきアイディアでしょう。たしかにこのハイ・ハエをオーストロネシア語族の「エイ」に比定する考えは面白いアイディアですが、paRiがpayiにかわったり、hayiのほうがhayaよりも古い語であるとするのはどうしたものでしょう。なぜなら上代の助動詞「ゆ」はその後「る」に変っています(y→rと考えられるでしょう)し、「エ」が「イ」にかわる変化は日本語に普通にみられる変化です(たとえば私が住むところの字名「垣見」)。しかしそれらの変化と逆のpaRi→payiやhayi→hayaの変化を崎山氏は考えられています。たとえば種族名の「隼人」は「ハヤ(ヒ)ト」よりも「ハイト」のほうが新しい言葉であるのですが、そのことがよくわかるように上の引用例にもとづいてそれらの時代差を比較してみると、次のようになります。
上代 中世
隼人 :ハヤ・ハヤト・ハヤヒト-----→ハイト
ハエ(「南」): ハエ(→ハイ)
つまり崎山氏の「隼人」のハヤをハエ(南)に結びつける考えは大変すばらしいですが上のような問題があります。そこで上の「ハヤト」「ハイト」「ハエ」の変化を考えると、次のようになるでしょう。
ハヤト:paya(ハヤ)+to(人)--→fayato--→hayato(隼人)
ハイト:paya(ハヤ)+pito(ヒト)--→payapito--→payaito--→payeto---→faito(隼人)
ハエ :paya(ハヤ)+ti(方向詞)--→payasi--→payai--→hae(南風)
*方向詞tiについてはこちら。ti→siの変化についてはこちら。
*payati→payati→payasiの変化は喉頭音化。payapito→payaitoとpayasi→payaiの変化はイ音便。
*ハイトの変化(payeto→faito)については少々問題がありますが、今回は省略。
このような変化を知れば、崎山氏の「南(風)の語源として「ハエ」・「ハイ」を原オーストロネシア語の「エイ」と結びつけるアイディア」は一考の余地があるでしょう。(また「みなみ」(南)のほうが「ハエ」よりは言葉が古そうですし)それはともかく上の考察から「ハヤト」(隼人)を「南・人」と考えることができ、つまり「ト」を人の意味に考えることができるでしょう。ところで、ここで地名の用字についてよく知られている注意するべきことを、次に引用することにします。(崎山 1993:78)
「【ハイ,ハエの地名】 ただし現在,地名として南風を意味するハイ,ハエが残るのは,ハエードマリ(南風泊・山口),ハエーサキ(南風崎・長崎),琉球ではハエーバル(南風原),ハエーミ(南風見・石垣)などと例は少ない。方言としての風名,方位名が地名としてはあまり残らない最大の原因は,この言葉の歴史が古く,ハイ,ハエが,早,灰,拝,林,萩,榛,配,這,生,碆,八重などのようなさまざまの漢字によって置き換えられてしまった結果,原意が失われたからだと考えられる。」
このように原意が忘れられ、原意をあらわすべき漢字がぜんぜん別の関係のない漢字によって置き換えられてしまうことはよくありますが、たとえばここで問題にしている「ハエ」についてもいうことができるでしょう。そこでその考えを長崎県の諫早について見てみることにします。諫早は江戸期に伊佐早から諫早に用字をかえたことが、次の文章からわかります。(角川日本地名大辞典編纂委員会編 平成3:117)
「・・・・地名の由来については、「宇佐の大鏡」に伊佐早村,中世には伊佐早荘と見え,江戸期に佐賀藩諫早領2代領主諫早直孝が元和年間に嘉字に改めて諫早にしたという。しかし,周辺部では寛永年間頃まで伊佐早荘と慣用した例がある。・・・・(以下省略)」
このことから現在の地名の「諫早」は古代の地名「伊佐早」の替え字であることがわかります。ところでその伊佐(いさ)は「磯」(いそ)の母音交替(少し問題がありますが、今回は省略)と考えると、「伊佐早」の用字は次のように考えることができるでしょう。
いさ(礒)+はや(隼)→いさはや(伊佐早→諫早:磯の隼人)
*諫早は「中世には「いさはい」の読みもある」(上井覚兼日記・フロイス日本史)。」(角川日本地名大辞典編纂委員会編 平成3:117)ということから、先ほど考えた「南」を意味するハヤがハイに変化していることとうまく符号します。
もしこのような私のごろあわせの推測が正しいとすれば、先の崎山氏の「ハヤ」を南にあてる考えを用いると諫早は「(その地の)磯にすむ南の人(つまり隼人)」であると考えることができるでしょう。ここで少しげせないことを書いておきます。それは江戸時代に「伊佐早」から諫早という嘉字に改めたということですが、「諫」字は嘉字なのでしょうか。「諫」は漢和辞典では「諫めるの意」しか見だせないので、伊佐早から諫早の嘉字にかえたことの理由は領主の苗字を拝命した以上のものとは考えることができないのではないでしょうか。そしてまた人名は地名から発生していると思われるので、古代地名としての伊佐早の用字だけでなく、諫早もあったと思われます。つまり古代にこの地方の海岸部に住む「隼人を諫めた」いう事実があり、その征服者(諫めた豪族)がそれを記念(?)して、諫早の名字がつくられ(地名は伊佐早)、江戸期に領主の名前ということで伊佐早から諫早の嘉字に改めたのではないでしょうか。もしこの想像が正しければ、なおのこと諫早を「磯の南人」(→「磯の隼人」)と考えることが可能でしょう。
ところで話をかえて、隼人の領域についての中村氏の考えを、次に引用しておきます。(中村 平成5:33-35)
「七世紀の後半以後、『書紀』・『続日本紀』などにあらわれる隼人は、それぞれ地名を冠して、大隅隼人・阿多隼人・日向隼人・薩摩隼人・甑こしき隼人などとよばれている。それらはほぼつぎのように区分できる。(改行。・・・・以下、各隼人の区分・説明については省略)・・・・ちなみに『和名抄』では甑島郡は薩摩国に属し、二郷からなっていた。
以上、七世紀後半から八世紀にかけての隼人の用例をあげて、その区分を試みた。その結果、隼人は大隅国と薩摩国のそれぞれの地域内に居住していた原住民をさし、日向国(薩摩・大隅両国分立後)の住人はふくまないといえる。このように限定してみると、阿多隼人も日向隼人も、また甑隼人もそれぞれ大隅国と薩摩国の領域内にふくまれているので、地域的には問題はないであろう。」
次に「クマソ」について考えることにします。クマソもハヤトと同じように古代南九州にいたとされる種族であることは、次の引用文でわかります。(日本大辞典刊行会編6巻 昭和48:584)
「くま-そ【熊襲・熊曾】@上代のクマとソとの複合の地名。古くは九州南半、日向・大隅・薩摩地方(宮崎県、鹿児島県)に当たる。律令時代の行政区画には、クマに当たるものとして肥後国球磨(くま)郡(熊本県球磨郡、人吉市)の名があり、ソは大隅国贈於(そお)郡(鹿児島県曾於郡西部、姶良郡東部、国分市)の名がある。*古事記-上「故(かれ)、筑紫国は白日別(しらひわけ)と謂ひ、豊国は豊日別(とよひわけ)と謂ひ、〈略〉熊曾(くまソ)の国は建日別(たけひわけ)と謂ふ<曾の字は音を以ゐる>」・・・・(途中省略)・・・・A〔名〕@の地域に居住したと伝えられる種族。・・・・(途中省略)・・・・隼人(はやひと・はやと)とは同一と推定される。*書紀-景行一二年一二月(北野本訓)「朕(あれ)聞(き)く襲国(くまそのくに)に厚鹿文(あつかや)・鹿文(せかや)といふ者有り是(こ)の両人(ふたり)は熊襲(クマソ)の渠帥者(いさをのもの)なり」・・・・(以下省略)」
*筆者注:@のなかの古事記からの引用文の豊国と熊曾(くまソ)の国のあいだ(上の〈略〉)には「肥国は建日向日豊久士比泥別と謂ひ、」の記事がみられます。
ところでハヤトの場合はその用字は「隼人」で一貫しているのですが、クマソの場合はその用字にゆれがあります。そこでその用字のゆれを、次に見てみることにします。(それぞれ中村 平成5:23-4,65(注3))
「各『風土記』では、用字に多少の差異はあっても「クマソ」は「クマ」と「ソ」で理解されている。すなわち、「球磨贈於」(『豊後国風土記』)、「球磨噌唹」(『肥前国風土記』・『筑前国風土記』・『肥後国風土記』)などであり、いずれも肥後国の球磨地方と大隅国の贈於地方の両地名が合わされて使用される(3)。 これらの記事からすると、クマソの居住地域はこの二地方と考えられていたようである。」
「(3)『播磨国風土記』には「久麻曽」の表記もある(印南郡条)。」
このクマソの用字のゆれに対して、中村氏は次のような考えを出されています。(それぞれ中村 平成5:24,30)
「原則的には、クマソは大和政権によって服属させられ、その居住地域はせばめられていくであろうし、一方で、大和政権はその支配圏を漸次拡大していくことから、クマソの居住域を広域に設定するものが古く、狭域に設定するものは新しいということができる。この原則にたてば、古い形は『古事記』の日向・大隅・薩摩をクマソの国とする表記であり、つぎには各『風土記』の球磨地方と贈於地方を複合する表記であり、さらに『書紀』の襲国とする表記となる。しかし、襲国がかならずしものちの贈於郡の地域にのみ限定されるものではない可能性も、いちおうは考慮しておく必要があろう。」
「『古事記』・『書紀』のヤマトタケルを中心にしたクマソ征討説話は六世紀ごろの『旧辞』にもとづくものとされるが、『古事記』はより古い形でそれを伝承し、『書紀』は改作された部分が多いといわれる(12)。より古い形で伝承されたとする『古事記』が「熊曽国」とし、『書紀』が「熊県」と「襲国」を分離して表記し、「襲国」に熊襲之渠帥が居住していたとするのは、両書のそのような性格をよくあらわしている。」
ここまでのクマソの用字を整理すればその呼称・用字の変化は、次のように考えることができるでしょう。
『古事記』など 『風土記』 『日本書紀』
地域:南九州(日向・大隅・薩摩)--→球磨・贈於地方----→襲国(大隅国贈於地方)
表記:熊襲・熊曾 球磨贈於・球磨噌唹 襲
*襲国が成立したあとのクマは「熊県」になっていきます。
このようにクマソの呼称は朝廷服属・未服属の観点から見ることができ、朝廷の勢力が伸張するにつれ、その呼称の意味するところはだんだんと狭められていき、最後には大隅国贈於郡(現、鹿児島県曽於郡西部あたり)に限定されるようになったと思われます。ところで朝廷に征服されて帰順するクマソについては、次にみられるような二つの考えがあるようです。そこでその二つの考えを中村氏の文章から見てみることにします。(中村 平成5:30-1)
「しかし、『書紀』が「襲国」に熊襲之渠帥がいたとするように、クマソの呼称は継承されていた。吉田東伍氏は「按に熊襲の詞に二様の別あり、景行紀に熊襲とあるは、一は熊県襲国を連ね指せる名なるべく、一は襲のみさして、熊をば勇猛の形容詞として負はせたる者也」として、クマソの語が二様に使われることを指摘されているが(13)、『書紀』のクマソはこの指摘の後者の例とでも言うべきであろう。」
このようにクマソの呼称は襲国にいる「熊襲の渠帥者」という言葉に継承されていることから、クマソを球磨と贈於の両地方(熊県と襲国)と見る見方と、クマを勇猛・獰猛な意の熊と考え「勇猛な部族民の住む襲国」と見る見方があると考えることができそうです。ところでこのようにクマを二様に解釈するならば、次のような疑問がわいてくるでしょう。
1.クマソの「熊」を動物の熊と考えるならば、そのことから修飾される「襲」は国よりも人のほうが自然ではないでしょうか。つまり「熊・襲(国)」(勇猛なる部族民の住む国:大隅国贈於郡)と考えるより、「荒ぶれる・輩」(未服属の部族民)と解釈するほうがより日本語らしいのではないでしょうか。(上の吉田東伍氏の言葉ではー原著をみていないのでたしかにはわかりませんがー「勇猛な・者」と解釈できそうですが)
2.もちろんクマソは球磨と贈於の両地方を示しているのでしょうが、それならばなぜ風土記にもちいられたように球磨・贈於を用いず、わざわざ熊襲の字を用いたのでしょうか。
3.贈於地方の発音は短音の「ソ」ではなく長音の「ソオ」と思われるのに、なぜ「ソオ」(贈於)ではなく、「ソ」(襲)と書かれたのでしょうか。(この地は豪族「曾君ソノキミ」がいました)
このような疑問を感じれば古代の筆録者が球磨・贈於を用いずにわざわざ熊襲の文字を選んだ理由は南九州にいる未服属民に対して、「熊のように獰猛な(また畏怖の対象として)・者」として感じていたことを表していたのではないでしょうか。そしてそれは征服者にとっては「熊が襲ってくる」ようにと感じられていたことを示しているものと考えられます。このように考えてくると用字としてのクマソの「襲」には通説でいわれる勇猛なる部族民が住む「球磨贈於地方(のちには襲国)」という地域名をあらわすだけではなく、「熊が襲ってくる」(熊に襲われる)という征服者の心情を託した熊のような「者」、つまり人としての意味が隠されていると考えることができるでしょう。つまりここにもハヤト(南人→隼人)の「ト」と同じように、このクマソのソ(「襲」)にも人の意味がかくされていると考えることができるでしょう。ところで「曾」が「贈於」になった理由として中村氏は、次のように述べておられます。(中村 2001:64)
「『風土記』編纂に際しての、地名は二字・好字をつけよ、との方針から理解しやすい。しかし、『日本書紀』の用字「襲」は、普通にはソとは読まない字であり、ことさらおぞましい字を選んだとみられることである。この選字が、反逆者としてのクマソ観念をつくりだし、増幅させていることを見過ごしてはならない」
しかし現在の発音からすれば古代もやはり「ソオ」でしょうから、「ソオ」ではなく、わざわざ「ソ」(襲)を選ぶ理由としては「二字・好字」の理由だけでは弱いでしょう。また「襲」の選字が反逆者としてのクマソ観念をつくりだしたというより、反逆者としてのクマソ観念が「襲」を選字させたというべきではないでしょうか。ところでクマソとハヤトの言葉の出現時期の違いについて、次のような考えがあります。(中村 平成5:21)
「このように、クマソは天皇あるいは朝廷に未服属であり、ハヤトは服属したものということに両者を区分する主な視点が見出される。したがって、ほぼ同一地域でクマソが先行し、ハヤトがその後につづいてあらわれることからすると、同一系統の種族の対朝廷関係における呼称の差異という見方が、まずできるであろう。」
さてここまでハヤトとクマソの用字を考察するすることによって、ハヤトとクマソのそれぞれの語尾のト・ソに人の意味があると考えることができるでしょう。ところでクマソとハヤトを比べると、クマソのほうがハヤトよりも早く出現しているのですが、それではなぜその語尾はソ・トと違っているのでしょうか。その違いを説明するためには以前考察したツァ行音の変化(t→ts→s)が参考になります。そこでクマソとハヤトの語尾ソ・トがともに上代特殊仮名遣いの乙類なのでその変化は、次のように考えることができるでしょう。
ト乙 ソ乙
t----→ts
*奈良時代ころまではソ乙はsではなくtsでした。
ところでクマソ・ハヤトをクマ+ソ(人)・ハヤ+ト(人)と考えたので、クマソのほうがハヤトより早く出現しているという事実からト乙→ソ乙ではなくソ乙→ト乙の変化を考えるほうが自然のように感じられます。実際ハヤトの「ト」は現在でもト(例:正人の「ト」)のままでソには変化していません。しかしト乙は奈良時代ころまでにはソ乙に変化した事実があるので、この矛盾をうまく説明する必要があります。そこでこの矛盾を解消するために「人」の意の語基をt(ト乙)と考えます。そうすると上代以前にそのt(ト乙)はts(ソ乙)に変化したと考えることができます。そして最初「クマ(獰猛な熊のような南九州の部族民)なる人」という意味でkumat(クマソ)の言葉ができ、その後クマソが朝廷に上番して宮門の警衛などに当たるようになり、ハヤトと呼ばれるようになります。そこで「ハヤ(南)の人」という意味でpayat(ハヤト)なる言葉ができたと考えると、ハヤトよりもクマソのほうが早く出現していること、しかしそれにもかかわらず語尾のトがソよりも古い語であることを、うまく説明できるでしょう。この考えは、次のようにあらわすことができます。
古代 5〜8世紀ころ(?) 古事記・万葉集ころ
ト(「人」):t--------→ts---------------→ts
クマソ :kuma+t--→kumats-----------→kumats
ハヤト : paya+t--------→payato
さて「正人」「熊襲」「隼人」などの用例から人の語基がト(t:乙類)であろうと考えることができましたが、クマソの「ソ」に人の意味をみる考えは早くも戦前に故新村氏によってだされていますので、次にその新村氏の考えを引用することにします。(新村 昭和15:18)
「・・・・又九州に住した熊襲隼人等の諸民族の古史上の觀察も、専攻家に譲つておくが、臺灣の阿里山邊の蕃民の曹ツオ族の名なるツオー(人の義)は何人も熊襲のソと對照したくなるであろう。其他國語で唱ふる異族名の語尾らしきソ〇と云ふ語も、或は同じではないかと思ふ。・・・・(以下省略)」
ところでクマソの用字には熊襲や球磨贈於以外にもう一つ「熊曾」というものがあります。上代特殊仮名遣いのソ(乙類)には襲・贈・曾・衣・僧など多用な字があるのですが、その中でわざわざ「曾」をつかってクマソを表しているのはなぜでしょうか。そこでその理由を卓抜なアイディアで説明している故村山氏の考えをこれから見ていくことにします。そのアイディアを引用するために、まず「阿曾」について見ておくことにします。(それぞれ上代語辞典編修委員会編 1985:24,25。日本大辞典刊行会編1巻 昭和47:279)
「あそ乙(名) 人を親しみ尊んで呼ぶ称。「たまきはる内の阿曾あそ汝ナこそは世の長人」(記仁徳)・・・・(途中、「池田の阿曾」「穂積の阿曾」などの例を省略)「いづくぞまそほ穿る丘こもだたみ平群の阿曾あそが鼻の上を穿れ」(万三八四三)・・・・(一例省略)【考】アソは我兄アセの転か。あるいは、アソミの約か。第三例以下は、アソ(ミ)が姓カバネの一つにかぞえられ、「朝臣」の字が固定した後のものであり、第三、四、五例に関する題詞にそれぞれ、「池田朝臣」(万三八四〇)「平群朝臣」「穂積朝臣」とある。→あそみ」
「あそ乙み甲[朝臣](名) 家格の尊卑をわかつ八種の姓カバネの第二等。・・・・(途中省略)・・・・【考】語源については、吾兄アセ=臣オミの約、朝アサ=臣オミの約、吾兄アセの転のアソに接尾語ミの接したもの、など諸説がある。「朝臣」の字は、アソミをアサ=オミの約と理解し、かつ朝廷の臣の意と解して、あてられたものであろう。朝臣アサミは天武紀一三年初出で、アソは古くから歌謡にもちいられている。・・・・(以下省略)」
「あ-せ【吾兄】〔代名〕対称。女子から男子を親しんで言った語。多く「を」伴って用いる。・・・・(以下、古事記の歌謡例など省略)」
上の「あそ」「あそみ」「あせ」の語義や出現順序、またその音変化の可能性などを考えると「アソは我兄アセの転」「アソミの約」という考えはまったくのごろあわせであるということができるでしょう。さて上の引用でもわかるように「阿曾」もクマソと同じ曾の字を使っているので、この「曾」に同じ意味があるといってしまうのは早計でしょうが、音が同じか、それに非常に近かったということは許されるでしょう。そのことを頭においたうえで、村山氏の卓抜なアイディアを少し長いのですが、これから見ていくことにします。(村山 1981a:153-4)
「「人」を表わす古代日本語ヒトpito(トは乙類)はヒコ(彦.男子)=日子ヒコ,ヒメ(女性一般)=ヒ・女メと同じくヒ・トという構成と見られている(JK,p.706)が,ヒコ,ヒメのばあい,語幹はコ(子),メ(女)であるようにヒトの語根はトtoである,ということになる.前記の仮定を応用すればto<*tau〜*ta‘uということになる.また私たちは古代日本語アソ(『古事記』に阿曾アソ)「人を親しみ尊んで呼ぶ称」からソtso(乙類)が「人」であることを推定できる.アソは「我兄アセの転か」という説がある(JK,p.24).しかしaeアセまたはaeがatsoに転化することは考えられない.・・・・(途中省略:古代日本語の音節結合法則の説明あり)・・・・アソatsは合成語,つまりa|tsであると結論される.文脈から見て,アソは英語で言えばmy dearにあたる.アは「吾ア」であり,ソは「人」である,と私は見る.つまりmyア (dear) personソであろう.とすれば,古代日本語の資料から見て,奈良時代以前の日本語は「人」(person)を表わすことばとしてト(乙類)toとソ(乙類)tsoを持っていたことになる.琉球語における「人」は宮良当壮(1980年,p.154ff.)にfits'u(与論島),ptu(石垣島),ts'u(奄美名瀬),tts'u(喜界島,徳之島,沖縄本島),tts'u:(奄美の一部,沖永良部島,沖縄本島の一部)などがあるが,出発形は*pitoである.ただ,『混効験集』(1710年)には人を数えるばあいの助数詞ソがある.モモ・ソ「百人」,ナナ・ソ「七人」,ト・モモ・ソ「十・百・人(=千人)」がある.ト・モモ・ソは『おもろ』にも出ている.この助数詞は古くは「人」の意味であったと思う.とすれば,それは古代日本語のア・ソのソと同じと見ることができる.アソのソ,古い琉球語の助数詞ソから出発して日本・琉球共通祖形*tso「人」を立てることができる.これにたいしてもo<*au〜*a‘uを応用すると,*tsau〜*tsa‘u「人」が得られる.(・・・・以下省略:台湾諸語やオーストロネシア語族に属する各言語との比較があります。この比較についてはこのあとの引用を見てください)」
この故村山氏の考えは、次のようにあらわすことができるでしょう。
奈良時代ころ 中世
ト(語基:「人」) :t-----------------→ts(「曾」)-----→so
アソ(阿曾) :a(吾)+ts(曾)------→ats(阿曾)----→aso
ヒト(人) :pi(前接辞)+t(人)---→pit(人)------→to(隼人の「ト」)
ソ(助数詞:琉球語):t-----------------→ts-----------→so?(『おもろ』時代)
ここでもう一度「人」の琉球各方言形を見てみることにします。(村山 昭和50:55-7)
「古代日本語の比登ヒト(記景行),比等ヒト(万葉),比止ヒト(仏足石歌)はfit<pitをあらわしたでしょう。沖縄語(沖縄語辞典)Qcuツチユはpcuプチユ<pituピトウ<pitピト(沖縄語ではiがすぐあとのtを破擦音化しました。これはポリワーノフの1914年の発見です。tの前にiがあるのでtがcチとなりました)。沖縄語の祖形は*pitであります。・・・・(以下一部省略)
八重山列島の方言(宮良,1930,46)では,iが次の破裂音(t)を破擦音(cチ)にするという規則はありませんでしたから,「人」はttu(与那国島),ptu(石垣島),pitu(竹富島),pusu(鳩間島)としてとどまりました。これらはいずれも,*pitからの発達です。・・・・(以下後略:そこには近世の薩摩方言と青森下北半島の方言がft・ftoであり、*pitにさかのぼることなどが書いてあります)」
*筆者注:「人」の各方言はつぎのとおり。(平山輝男編著5巻 平成4:4291-3:アクセントは省略。ただし、祖納方言(八重山群島与那国島)は中本 1990:225より)
青森 Fto 甑(鹿児島県) Fto 名瀬(奄美) tu
沖縄 tu: 平良(宮古島) pstu 鳩間(八重山群島) psu
祖納 tu:
さきほど引用した文章の中でオーストロネシア語族との比較を省略したので、ここで故村山氏の他の文章からその比較の文章を引用することにします。(それぞれ村山 昭和50:245-6,村山 昭和49b:86)
「 ヒト「人」
二音節語においても,合成語では長母音が存在したでしょう。その例はヒト「人」です。これはヒ・トpi|tと分析されます。
沖縄(首里) Qu<pu<piu<pitu<pit
八重山 pitu(竹富)<pit
日本語祖形 *pi|t<*tau
南島祖語 *Tav(u)
ここではフィリピン諸言語の語形をかかげましょう(ロペス,No.1966による)
タガログ to 人(以下、9言語の例を省略しました)
ナバロイ語 to 人
ラナオ ta,tu 人
スル tu 人
イロンゴト to 人,to 叔父
九州南部にすんでいた熊襲クマソのソs<s<tsao<*Tauはフィリピン諸言語のtaoと同源と見られます。おそらく原始日本語にはtao系統とtsao系統の二つの方言があったと見られます。台湾ではツォウcu,カナカナブ語cuツアウ,バゼヘsu,パイワン語cau|cauですが、ヤミ語ではtau「人」です。
古代南九州の地名囎唹s<*sau<*tsauもクマソのソとおなじく、「人」の意味でしょう。・・・・(以下、後略)」
「九州南部の部族熊曽クマソkumatsはクマとソ(乙類)に分かれ,クマは地名,ソは「人(人)」,つまり,クマ種族を表わすと見られます(台湾のパイワン系シラヤ語でta'uが「人、人人」を意味すること、また、ツォウ族のツォウも「人、人人」を意味すること参照)。つまり、ヒ・ト「人」のトとクマ・ソのソとは同源で、方言的差を表わすと見られます。
ついでながらインドネシア諸語のおのおのの名詞は単数を表わすのではなく,全体をあらわすことをラッベルトン(1924)がのべています(“Each noun denotes the whole category and is felt as a plural・・・・)。」
*筆者注:この段落のはじめに「このtは「ともがら、連中」の意味の古代語ト・ムラにもあらわれているでしょう」(村山 昭和49b:85。村山 1981b:229-230,p233-4にも少し考察があります)という言葉があります。この儻(とむら)の「ト」については、またいずれ考察したいと思っています。
*村山氏のト(「人」)の考察は村山 1981b:230-4に詳しい。
さて上に人の「ト」がオーストロネシア語族の祖語*Tav(u)と比較できるという村山氏の考えを引用しました。たしかに村山氏の音韻対応にはまだ考えるべきところがありますが(村山氏のこの不正確な音韻対応についてはいずれ考察するつもりです)、語基の「ト」(人)が祖語*Tav(u)(「人」の意)と同根であることは疑うことができないでしょう。なお人の「ヒ」(前接辞といまは仮にしておきます)については、次回の更新(「ワ行音はなぜ起こったのか?」)で詳しく考察したいと思っています。
ところでここまで熊襲・隼人について考察してきましたが、その居住地には日向国も存在したと考えられます。そこで日向についても考えてみたいと思います。まず日向については、次の言葉が知られています。(日本大辞典刊行会編17巻 昭和50:107,138)
「ひむか 【日向】古代、筑紫(九州)の東南部を指した呼称。はじめ襲国(そのくに)に属していたが、のち日向(ひゅうが)国が成立した。*書紀-推古二〇年正月・歌謡「馬ならば 譬武伽(ヒムカ)の駒 太刀ならば 呉の真鋤(まさひ)」 語源説 日の出る方角に向いている国であるところから〔風土記逸文-日向国・日本釈名〕。」
「ひゅうが ひうが【日向】(「ひむか(日向)」の変化した語)@〔名〕日に向かうこと。日に対すること。日を受けて草木が繁茂すること。(一部省略)AT西海道一一か国の一国。古くは襲国の一部で、九州東南部を広く占めた。和銅六年(七一三)大隅国を設置して後一国となる。・・・・(以下省略)」
これらの言葉から日向はヒムカ→ヒウカ→ヒュウガと変わってきたと考えられますが、同じようにこの日向を語源とするのではないかと考えられている言葉に「東」があります。そこで東について、次に見てみることにします。(それぞれ上代語辞典編修委員会編 1985:622,日本大辞典刊行会編16巻 昭和50:587,同17巻 昭和50:225,同16巻 昭和50:600)
「ひむがし[東](名)東。「東ひむがしの野にかぎろひの立つ見えてかへりみすれば月かたぶきぬ」(万四八)・・・・(途中省略)・・・・【考】和名抄には「東市司比牟加之乃以知乃官ヒムガシノイチノ・東生比牟我志奈里ヒムガシナリ」(廿巻本)とある。仮名書きの確例なく、ヒの甲乙は不明。ニシには西風の意があり、元来風位名であったといわれるが、ヒムカシのシも、ニシ・アラシ・ツムジなどと同じく風の意の語であろう。日ヒ=向ムカ=シの意かともいう。なお、「比美加之ヒミガシの山辺ビを清み」(東大寺要録)のヒミガシは音が転じたものか。・・・・(以下省略)」
「ひうがし 【東】〔名〕(「ひむがし(東)」の変化したもの)「ひがし(東)」に同じ。*西宮記-三・郡司読奏「先読二畿内七道六十国一銓二擬大少領数一、次読二道名一、東海道<又ひうかしのうみのみち うへつみち> 東山道<又うたつみち 又ひうかしのやまのみち>」*名語記-九「ひうがし、如何。東也。晨也」 補注「ひむがし」が「ひがし」に変化する、過渡的な語形と考えられる。」
「ひんがし 【東】〔名〕(古くは「ひむかし」で「日向し」の意という)「ひがし(東)@」に同じ。(・・・・途中省略・・・・) 語源説(1) ヒムカシ(日向風)の義〔古事記伝・大言海〕。(2)ヒムカヒシ(日向処)の義〔冠辞考・名言通〕。ヒムカシ(日向)の義〔東雅・蒼梧随筆・俚言集覧・菊池俗言考・和訓栞〕。(・・・・以下、語源説ほか省略)」
「ひがし 【東】@〔名〕(「ひんがし(東)」の変化した語) T方角の名。日の出る方向。十二支では卯(う)の方角にあたる。ひんがし。(・・・・途中省略・・・・) U東方から吹いてくる風。東風。こち。・・・・(以下省略)」
これらの言葉から「東」もヒムカシ→ヒウカシ→ヒンガシ→ヒガシと変化してきたと考えることができるでしょう。ところで「東」のシは風の意と見られているので、そのシについて次に見ておきましょう。(上代語辞典編修委員会編 1985:345,360)
「し(名)風。複合語を構成している例しか見えない。「大和へに尓斯ニし吹き上げて」(記仁徳)「荒風アラし」(万三二八〇)「科戸しナトの風」(祝詞六月晦大祓)「次生二風神一、名志那都比古しナツヒコ神」(記神代)【考】方角をあらわす西ニシ・東ヒガシはもともと風位名であったといわれ、第一例のニシは西風である。風神シナツヒコは日本書紀には「級長戸辺シナトベ命、亦曰二級長津彦シナツヒコ命一」とある。=なと・あら=・つむ=・に=・ひむが=→こち[東風]・しなと」
「しなと甲(名)風の吹き起こるところ。シは風の意(→し(名))。ナは連体格を構成する助詞。トは場所を示す形式名詞。(語例ー上の「科戸」と「級長戸辺」以下の二例ーは省略)【考】場所の意のトはフナド・クナド・ネド・クミド等にみられる。(・・・・以下、他の言源説などは省略)」
*上代特殊仮名遣いを示す右棒線(甲類をあらわす)は甲で代替してあります。
また沖縄でも中本氏によれば次のような「東」を表わす方位語があったと考えられます。(中本 1983:196-8)
「・・・・現在、沖縄では「東」を普通にアガリというが、ヒガシ系の語がなかったかというとそうではない。沖縄独特の姓、「比嘉ヒガ」「東恩納ヒガオンナ」などにおけるヒガは本来「東」を表す方位語であったといわれている。『おもろさうし』に「ひか」と「あがるい」が見えるから、十五世紀前後の首里王府の琉球語では古語形のヒガと新語形のアガルイが併用されていたのである。この事実は、ヒガが十五世紀まで生きていたこと、アガルイが十五世紀以前に形成されていたことを証するものにほかならない。
ヒガは、ヒガシの末尾音シの脱落と見る説(1)があるが、そうではなくてヒガシより古形とみるべきものである。語末の要素「シ」は「風、息」を表す語であり、前項のヒガは「日向ヒムカ」である。琉球語のヒガはこの前項のヒムカの単独形であり、「シ」の要素は複合しなかったのである。・・・・(途中省略:項を改め)
二 「東」について
琉球の「東」を表す方言は、アガルイ系、ヒガ系、コチ系に分かれる。奄美諸島にはそのいずれの形も分布している。(・・・・アガルイ系は省略。改行)
ヒガ系は奄美大島南部と徳之島、沖縄本島北部に分布している。分布領域は広いとはいえない。igaiは奄美大島湯湾、屋鈍、sgjasは徳之島亀津、igaiは沖縄北部佐手に分布している。これらはいずれも語尾に「シ」が複合していない。・・・・(以下省略)」
このようないろいろな言葉から「ひがし」(東)はヒカが東の意味をもっていて、その後「風」の意味のシが接尾されてヒガシになったと考えられ、東は「ヒカ」と「シ」の複合語(東+風)であると考えるのが自然でしょう。そこで先ほどの「日向(国)」とこの「東」の変化を比べてみると、次のようになります。
日向:ヒムカ---------→(ヒウカ)------------→ヒュウガ
東 :(ヒムカ-→)ヒムガ-→ヒウガ-→ヒンガ-----→ヒガ
*ヒガシからシ(風の意?)はとりのぞいて比較してあります。ヒムカシ→ヒウカシの変化もあり。( )の語は変化の途中に存在したと思われます。
さてこのように見てくれば「東」の語源をヒムカシ(日向・風)」に求めることは正しいように思われますが、少し問題が残ります。そこでその疑問を、次に列挙してみることにします。
1.日本語の統辞構造から考えて、ヒムガシを「日向・風」と解釈するのはむつかしい。
2.琉球方言でヒカ(東)にシ(風の意?)が接尾されたのは中世頃と考えられそうですが、本土では上代に早くもシ(風の意?)が付加されてヒムガシが誕生しています。ところでシが風の意ならばなぜ本土方言でヒガ(「東の意」)とヒガシ(「東風の意」)の語の使いわけがみられないのか?
3.「日向」と「東」ではヒウカ以後の変化がちがっている。
4.「東」には比美加之という二重語があるのに、同じ語源であると思われる「日向」にはそうした二重語がみられない。
5.東の語源は日向風と考えても自然なのに、上代になぜ日向風の用字がみられないのか。
少し補足しておきましょう。まず1の問題。東を日向ヒムカ・風シと考えると、ヒムカシは日に向かう風と解釈できます。しかし風位名は風が吹いてくる方向をさすので、東風は日に向かう風ではなく日の方角から吹いてくる風でなければなりません。そうすると東はヒムカシではなく「ヒノシ日の風」のほうが適当でしょう。それに太陽はべつに東(朝日)だけでなく南や西(夕日)にも、さらに中天にも存在するので、東にかぎる理由も考えねばなりません。次に2のヒガとヒガシの使いわけの問題。東や西はだれでも方角の東や西の意味を考えて、東風や西風の意味を知っている人はあまりいないでしょう。そこでもしヒムカシのシを風と考えるならば、ヒガ(←ヒムカ)が東の意味となり、上代にはすでに東の意味のヒムガシがあるので現代までの時間の長さを考えれば、ヒムカ(あるいはその変化形ヒガなど:琉球方言にあるのは先にみました)の言葉も残されていてもよさそうに思えますが、どの本土方言にもヒガはみられません。このように考えてくるとヒムガシ(東)はもともと東の意味で、東風はのちの派生であると考えるほうが自然でしょう。ところでまた3や4の理由も問題になるのはまちがいないのですが、特に問題になるのは最後の5の問題です。先に考えたようにヒムガシを日の方角から吹いてくる風と解釈するには少々むりがあるのですが、民間語源として考えればそれぐらいの意味のゆれ(誤用?)は当時の宛て字と考えて許されるかもしれません。現在の我々でも東を日(太陽)と関係づけることは自然な発想で、ヒムガシを「日向風」と書いてもあまり違和感がありません。実際風土記逸文や日本釈名が書かれた古い時代には日向国は「日に向いている国」であると書かれているので、古代人も我々と同じように東を太陽と関係づけたと思われます。つまりこのように「ヒムガシ」(東)の語源として「日向風」を考えるのにそう問題がないと思われるのに、古代人はなぜ「日向風」の用字を使用しなかったのかということです。そう考えてくると、古代人は「ヒムガシ」を「日向風」とは考えていなかったと思われてきます。ではなぜ古代人は「ヒムガシ」を「日向風」と考えなかったのでしょうか。この疑問がでてくれば、古代人は「ヒムガシ」の語源を「日向風」と考えなかったのではなく、当時「ヒムガシ」と発音されていたにせよ、彼らの記憶(伝承)には「ヒムガシ」の発音はなかったと考えると、よいことに気づきます。つまりその過去の発音の記憶が生きていたため古代人は「ヒムガシ」を「ヒムカ・シ」(日向・風)と分析できず、そのため「日向風」の字を用いなかったと考えることができるでしょう。
さてこのように「ヒムガシ」の語源は「日向風」ではないと考えられるのですが、それでは「ヒムガシ」の語源は何なのでしょうか。これからそれを考えることにします。まずこの問題を解決する糸口である「ヒムガシ」の二重語「ヒミガシ」を、次に見てみることにしましょう。(日本大辞典刊行会編17巻 昭和50:106)
「ひみかし[東](名)(「ひむかし」)の変化したもの)「ひがし(東)@」に同じ。*東大寺要録-二・供養章第三「比美加之(ヒミカシ)の山辺(やまび)をきよみ邇井之せる盧舎那ほとけに花たてまつる」
上の引用では「ヒムカシ」の変化したものが「ヒミカシ」であるかのように説明されています。しかしもしそうではなく「ヒミカシ」が変化して「ヒムガシ」になったのであれば、当時の古代人にとっては「ヒミカシ」こそより古い言葉であるので、「日向・風」と考えることはできなかったことでしょう。つまり古語である「ヒミカシ」が二重語として当時存在していたので、古代人は「東」の用字として「日向風」をつかうことができなかったと考えることができます。このようにヒミカシ→「ヒムカシの変化を考えると、「日向風」の用字が存在しないことをうまく説明できるのですが、ヒミカシ→ヒムカシ→ヒガシの変化を考えると、語中のミが消失したと考えなければなりません。
ではこのような語中のミの消失変化は可能なのでしょうか。また「ヒミカシ」のシは「風」ではないとすればいったい何なのでしょうか。そこであらたにでてきたこの問題を考えることにします。「シ」の意味は後ほど考えることにして、語中のミの消失をまず考えます。ところで皆さんは2年前はやった沖縄県出身の夏川リミさんの「涙ナダそうそう」の歌を御存知でしょうか。この歌の題名でわかるように、本土方言のナミダを琉球方言ではナダといい、ここに語中のミの消失が見られるのがわかります。そこでもう少しいくつかの方言でこのことを確認しておきましょう。(例は中本 1976:425より。ただし、山下方言と糸満方言はそれぞれ同書p156、p296。より詳しくは同書:425)
五島富江町山下方言(鹿児島県) namda
名瀬(奄美本島) nada 奥武(沖縄本島) nada
糸満(沖縄本島) nara 平良(宮古島) nada
波照間(波照間島) nanda
上の変化は、次のように考えることができるでしょう。
namida--→namda--→namda--→nanda--→nada--→nara
*はiの無声化音。
このように語中のミの消失が琉球方言でみられることから、ヒミカシもミが消失し、ヒガシに変化したと考えることができるでしょう。さてヒミカシがヒムカシ(→ヒガシ)にかわるとして、語尾のシはどう考えればいいでしょうか。この語尾のシはチからの変化であると、考えることができます。よくわかるようにチ→シの変化(以前の考察はこちら)をもう一度あげておきます。
古代 上代 中世
発音:ti------→ti-----→i
表記:チ------→シ-----→シ
このような変化が日本語にみられるので、古代にもti→tiの変化があったと考えれば、ヒミカシのシは「風」ではなく、遠近(オチコチ)にみられる方向をあらわす接尾語チであると、考えることができると思います。さてこのように考えてくるとヒミカシはヒミカチからの変化と考えることができ、その変化は次のようになるでしょう。
東:ヒミカチ---→ヒミカシ---→ヒムカシ---→ヒガシ
*チ:方向を表す接尾語(チ→シ)
*チはのちに風を意味するシになったのでは。コチ(東風)の言葉もあります。
つまり東は「ヒミカ」のいる方角をさししめす言葉であると考えることができます。ところでこのように考えてくると当然思いあたる言葉があります。それは三世紀にいたと考えられている女王卑弥呼です。もちろんこのヒミカという言葉は卑弥呼がいた三世紀よりまえに存在したと考えられるので、ヒミカは「日御子ヒミコ」(=日の御子)の意味であると考えられるでしょう。つまり東の語源は「日御子のいる方角」(太陽神の住まう場所。転じて為政者のいる方角)と考えることができます。そして東の語源をこのように考えるなら、私たちが「東」にもつイメージとうまく符号しているのがわかります。このように考えてきてヒミカシのヒミカを日御子ヒミコに同定したのですが、ヒミカとヒミコでは音がちがっています。もし私の「日御子ヒミコ・方チ」説が正しいとすれば、邪馬台国論争によくある勝手な思い込みの珍説をまたひとつぶちあげるわけでないのですから、ヒミカとヒミコの音の違いをきちんと説明しなければならないのは当然でしょう。それでこれからヒミカシのヒミカとヒミコとの音の違いの理由を考え、その理由をあきらかにすることによって「日御子ヒミコ・方チ」説の正しさを皆さんに見てもらうことにしたいと思います。
ところで私たちが使う言葉には単純語とそれを合成した複合語がありますが、私たちは言葉をひとまとまりのものとして使っているため複合語は単純語にくらべてその変化が遅い、つまり時間の変化によくたえるといわれています。また同じように考えて、複合語の語中と語尾での変化をくらべると、複合語の語尾のほうがより早く変化すると考えられます。そこでヒミカ(シ)とヒミコの音の差を説明するために、この二つの言葉がもとあるひとつの言葉Xを用いて作られたと考えることにします。そしていま考えた単純語と複合語の変化の遅速を考えあわせ、「子コ」・「日御子ヒミコ」・「日御子方ヒミカチ(→シ)」の三語にいたる変化を想定すると、その変化は次のような模式図としてあらわすことができるでしょう。
単純語 :X-----------→コ-----------→コ----------→コ(子)
複合語(語尾):ヒミX--------→ヒミX--------→ヒミコ--------→ヒミコ(日御子→卑弥呼)
複合語(語中):ヒミXチ------→ヒミXチ-------→ヒミカチ------→ヒミカシ(日御子方→東)
*チ(→シ):方角をあらわす接尾語。
*コ甲(子):上代特殊仮名遣いでは甲類。
このように上のような変化のもとになる語X、つまり「子」の前身がみつかれば、「東」の語源であると考えた「日御子方」説が成立するでしょう。(これからは方向詞チを除いて考察することにします)さてこの大変むつかしい問題は三世紀当時のヒミコの音、ひるがえって当時の中国訳音をもとに考察しなければなりませんが、にわか勉強をした私には古代中国語の音韻体系などについて詳しい説明をする力がありませんので、それについては概説書(たとえば森博達 昭和60:163-5:詳しくは藤堂 昭和42:33-89)を見てください。
まず「卑弥呼」の「呼」字が卑弥呼時代(三世紀頃)以前にはoではなく、a音に近い音であったらしいという森博達氏の考えを、次に見ていきましょう。(森博達 昭和60:180-2:倭人伝の音訳漢字を上古22部の枠組みに入れた表(同書:178)を見ながら、上の考えを理解してください)
「ところが、『詩経』の押韻状況などから帰納される先秦時代の韻のグループ(上古二二部)では、中古〔模〕韻の字は《魚》部というグループに属する。《魚》部にはほかに中古〔麻〕韻(-a)の「巴」字なども含まれるところから、中古〔模〕韻字も上古音ではa類の主母音をもっていたものと推測される。したがって、「盧」や「奴」が右の比定のごとく、「ア列音」を写したものであれば、それは上古音に基づいて音訳されたからではないかと考えられているのである。」
同書(p178)の表からわかるように、中古音では「模開一」に属する「模・謨・觚・古・吾・烏・呼・都・奴・盧・蘇」と「麻開二」に属する「巴・馬」が同じ魚部陰類aに入っているので、中古〔模〕韻字である「呼」も上古ではa音に近い音であったと考えることができるでしょう。そしてこのことは同書:181の表6にまとめられているように、「呼」音は後漢頃からはa音から離れ、o音に近づいていたことが分かります。
「この表(筆者注:同書p181の表6のこと。この表を見て以下の考えを理解してください)によれば、上古音から前漢、そして後漢から三国への変遷は穏やかであるが、前漢から後漢への変遷が顕著であることがわかる。「倭人伝」音訳字が最も多く所属している《魚》部について見ると、後漢では、〔麻〕韻字が《魚》部から離れ、〔歌〕韻とともに新しい《歌》部を形成し、残された《魚》・〔虞〕(音訳字なし)・〔模〕の三韻が新しい《魚》部を形成するようになった。この変動は、《魚》部の主母音が前漢から後漢にかけてa類から離れ、o類に近づいたことを物語っている。」
つまり卑弥呼の「呼」の音は卑弥呼時代頃にはカからコに近づいていたと考えることができ、その変化から次のような考えがでてくるでしょう。(森博達 昭和60:183)
「さて、人名はすべて第W群に載せられているが、そのうち〔模〕韻字は、「卑弥呼〇」「卑弥弓呼〇」「都〇市牛利」「烏〇越」の三字種四例ある。当時の倭人語の中に上代日本語と同様/a/・/o/・//という母音が存在し、しかも右(筆者注:これら)の人名が当時の中国における一般的な漢字音に基づいて音訳されたものであるならば、この四例の〔模〕韻字は/a/や//(筆者注:「オ列乙類」)ではなく/o/の母音を含む音節(「オ列甲類」)を表すのに用いられたことになる。」
この考えを簡単にあらわせば、「呼」音の変化は、ごくおおよそ次のようになります。
前漢(紀元前) 後漢(紀元後) 三国時代(三世紀)
「呼」:ka------------→ko-----------→ko
さてこのようなことがわかると「子コ」「日御子ヒミコ」「日御子方ヒミカチ(→シ)」の変化を、おおよそ次のように考えることができるでしょう。
紀元前より以前 (異説卑弥呼時代) 卑弥呼時代(2-5世紀頃) 記紀以降(8世紀以降)
子 :ka-----------→ko甲-----------→ko甲--------------→ko甲(子)
日御子 :pimika--------→pimika---------→pimiko甲-----------→pimiko甲(卑弥呼)
日御子方:pimikati-------→pimikati--------→pimikati-----------→pimikati(ヒミカシ)
*ti:チ(ti)→シ(ti)の変化はこちら。
*中古音ではヒミガシ(比美加之)の「加」は歌部に、卑弥呼(日御子の用字)の「呼」は魚部模韻に属していて、「呼」がもとa音であったとしても、「加」(a音)とは少し音がちがっていたと考えられます。詳しい変化を考察すべきですが、いまは私の手にあまるので省略します。なおka(「呼」)はk→kau→ko甲の変化を考えればよいでしょう。
*「呼」は見母(軟口蓋閉鎖音k)でなく、暁母(声門摩擦音x)に属しているので、ka(→ko甲)ではなくxa(x:軟口蓋摩擦音)とすべきでしょうが、ここではここの議論に関係ないのでkaで説明してあります。(詳しくはこちら)
本当はもっと丁寧な議論をすべきですが、おおよそ上のような変化を想定すれば、「東」の語源を「日御子ヒミカ・方チ」にもとめることができると思います。簡単にまとめておきます。
「東」:pimikati(ヒミカチ)--→pimikati(ヒミカシ)--→pimkati--→pimkati(ヒムカシ)--→pigati/piugati(ヒンガシ/ヒウガシ)--→pigati(ヒガシ)
*チ:ti。シ:ti。:iの無声化音。
ところでこういう風に考えてくると日向国の語源説もあやしいと考えられてきます。たしかに「日向」は日本書紀に「譬武伽」と書かれていますが、この「武」がmuであると確定できるものではありません。それよりは「日向」は現在ヒュウガと発音されていることを考えれば、次のような変化を考えるのがよいでしょう。
日向:pimika→pimka→pimka(ヒムカ)→pika→hyuuga(ヒュウガ)
*ムをmとする考えはこちら。hyuugaはローマ字表記。
つまり「日向国」の由来は「日の出る方角に向いている国」ではなく、やはり「東」の語源と同じ「日御子」ではないかと思われます。たださきほどの卑弥呼をpimiko甲と考えると、数世紀あとにpimka(譬武伽:ヒムカ)になるというのはちょっと具合が悪いので、卑弥呼時代はちょうどka→koへの過渡期ということを考慮して、さきほどの変化式で卑弥呼時代を少し昔にずらしてpimikaと考えるほうがよいのかもしれません。同じように、卑弥呼をヒミコ(pimiko甲)ではなく、ヒムカと読む考え方は長田夏樹氏の、次の言葉にも見られます。(長田 昭和54:97)
「唐の張楚金撰・雍公叡注の『翰苑』には「卑弥娥は惑わすも翻かえって群情に叶い、台与は幼歯なるも方まさに衆望に諧う」という句があって、卑弥呼を卑弥娥としている。・・・・(途中省略)・・・・〈呼〉を中古漢音のaの〈娥〉に変えたもので、これも卑弥呼がヒムカを表記した漢字であることの傍証となろう。」
*筆者注:〈呼〉音がxaからxoに変ったため、xa音の表記が〈呼〉字ではできなくなったため、a音をもつ〈娥〉字に変え、「卑弥呼」から「卑弥娥」へと表記がかわったことから、「卑弥呼」が当時の音でヒミカであったと長田氏は述べておられます。
*卑奴母離(=日守ヒナモリ)の「奴」も卑弥呼の「呼」と同じ韻類なので、もし卑弥呼をヒミコを読めば同じ倭人伝にでてくる話なので、長田氏が主張されるように卑奴母離はヒノモリと統一して読むべきでしょう。そうすれば卑奴母離は「鄙守ヒナモリ」とは解釈できなくなり、それゆえ卑弥呼をヒミコと読むべきではないという考え方もでてきます。(このばあいは卑奴母離は「ヒノモリ(日の守)」で、「ヒナモリ(日の守)」よりももっと意味がとりやすいですが)。たしかに時には「奴」をna、「呼」をkoなどと好き勝手に読むのは問題があるのは本当ですが、だからといって「奴国」(博多の古名:儺県)の「奴」をナと読むのであれば、卑弥呼はヒムカと読まないといけない、それゆえヒムカの意味をまたべつのもの(たとえば長田氏は日向ヒムカにあてられています(長田 昭和54:122-3)。これはまだうまく当てることができた例でしょうが)にさがしもとめるというのも、本末転倒することにもなりかねません。なぜなら、いずれ「奴」「呼」などはa→oの変化をするので、統一して読んだ結果の音(つまり語)となるのですから、どちらに読んだとしてもその意味(語義)はかわらないのですから。この「奴」「呼」をna、kaとa音に読むという考えに対しては、森浩一氏の批判があります(森博達 昭和57:180-2)。その一例は「奴国」の「奴」で、魏代にはna→noの変化をしていたため、ナを表記するのに「奴」は適さず、「儺」の字を使用したと森氏は考えられています(森博達 昭和60:170)。
さて「東」の語源はこれでよいでしょうが、もう少し考えておきたいことがあります。ヒミコが「日御子」であり、その「日御子」は三世紀に卑弥呼という女王として存在したと考えられるのですが、ではその後ヒミコの言葉はどうなったのでしょうか。なぜならヒミコの言葉は上代の言葉を集めた『時代別国語大辞典 上代編』という辞典にも見られない(下記の注を見てください)からです。たしかに卑弥呼のいた三世紀から数百年もたてば、女王の存在自体も人々の記憶からなくなり、女王卑弥呼の伝承もなくなるかもしれません。(もちろんたかだが数百年でそのような伝承がなくなるはずがないというほうが真実らしいのですが、ここではそれは考えないとして)ヒミコ(日御子)という大王をさししめす言葉がそんなに簡単になくなるものでしょうか。こう考えてくると、ヒミコの言葉はどこかで語義を少しかえて生きのびていると考えるのが自然でしょう。それではそれはどんな言葉なのでしょうか。その疑問を解くために「東」のなかにふくまれている「子」がko甲になってからの「日御子」の変化を考えると、次のようになります。
「日御子」:pimiko→pimko→pimko→piko→ヒコ(彦)
*ko:上代特殊仮名遣で甲類。
*『時代別国語大辞典 上代編』には「ヒミコ」はなく、そのかわりに「ひ甲のみ甲こ甲」(日御子:上代語辞典編修委員会編 1985:620)の言葉があり、その意味は「天皇・皇子などに対する尊称。日の神の末裔の意」となっています。
このように「日御子」から「彦」への変化を考えると、上代に「ヒミコ」の言葉がすでになくなっていること、そのかわりとして「ひ甲のみ甲こ甲」ができていること、また「彦」が「ヒミコ」の語義をうけついでいることなどをうまく説明できるでしょう。また魏志倭人伝の対馬国に対して、「大官亦曰二卑狗一、副曰二卑奴母離ヒナモリ」とある長官の「卑狗」と副官の「卑奴母離」はそれぞれ「日子ヒコ」と「日守ヒナモリ」(ナは「水門ミナト」のナ。「ノ」の意)と考えられ、「日子(=彦)」と「日子の補佐官」と考えることができるでしょう。つまり「卑奴母離」を「地方を司る役らしい。鄙ヒナ=守モリか」(上代語辞典編修委員会編 1985:619)とする通説はまちがいということができるでしょう。
*魏志倭人伝には「(女王)卑弥呼」と「卑狗」(たとえば上の対馬国に)の言葉がみられるので、卑弥呼時代にはすでに大王(「日御子」)と諸王(「彦」)の意味の違いがあったと考えるられるのでは。
さて「東」の語源は「ヒミカチ日御子・方」であることがわかったので、これから「西」「左」「右」「日方」の語源を考えることにしましょう。まずやさしい「左」「日方」の語源を考えるために、それらの言葉を引用しておきます。(上代語辞典編修委員会編 1985:613、p604)
「ひだり[左](名) 左。方向の示しかたの一。ミギの対。・・・・(途中省略)・・・・「陽神左ひだりヨリ旋、陰神右旋」(神代紀上)「左ヒタリ」(名義抄)【考】ヒの甲乙やタの清濁については確証がない。左は右より尊ばれていたようで、陽神が左に位置づけられたり、天照大神が左の目から生まれたりする。=手テ・=縄」
「ひ甲かた[日方](名) 風位の名。太陽のある方向から吹く風というが、未詳。「天霧アマキラひ日方ひかた吹くらし水茎ミヅクキの岡の水門ミナトに波立ち渡る」(万一二三一) 【考】東南風・西南風等の説がある。風位考資料によれば、この歌の作られた福岡県では、北東風(京都郡苅田町)・東風(北九州市若松区藤木・行橋市前田・遠賀郡芦屋町)・南東風(遠賀郡芦屋町)などが挙げられている。」
*上代特殊仮名遣いを示す右棒線(甲類をあらわす)は甲で代替してあります。
*「日」(ヒ:「太陽」)も甲類です。
まず「左」の語源です。「東」のシは方角のチから変化と考えました。そこでti(チ)→di(連濁)→ri(リ)の変化と「ダ」を「クダモノ木の物」(果物)や「ケダモノ毛の物」(獣)の「ダ」と同じと考えると、ヒダリは「日ヒのダ方角リ」と考えることができます。つまり「日方ヒダリ」と考えてよいでしょう。また引用した二番目の「ヒカタ」(日方)のヒは「日」と同じ甲類でその用字も「日」なので、この「日」は日神、転じて為政者と考えることができるでしょう。そして通説とは逆に方角名が風位名をあらわすようになったと考えると、「日方」は日神(つまり日御子)の方角と解釈できます。つまり「日方」は「日御子」(そこから為政者の意)のいる方角と考えることができるでしょう。そう考えると「日方」が上の引用に出てくる東風・北東風や南風・南東風・西南風といった矛盾した風位も東風(→北東風)は為政者のいる方角から吹いてくる風、南風(→南東風・西南風)は「日御子」のいる方角から吹いてくる風とうまく解釈することができるでしょう。
次に「西」「右」の語源を考えることにします。そこでそれらの語源を解くためのヒントになると思われる太陽神信仰について考えることにします。太陽といえば我々に浮かぶのはまず朝日、その次に夕日、そして昼間の太陽の順でしょう。そのなかでやはり太陽と朝日は切っても切れない関係にあるのはまちがいないでしょう。さて一日を朝・昼・夜(夕方以降)と三区分して考えると、古代神話の「高天原たかまのはら」「葦原中国あしはらのなかつくに」「根堅州国ねのかたすくに」の三世界と重なることがわかります。「天照大神」が「てんてるだいじん」と読まれる御時勢なので、それらの言葉を引用しておきましょう。(上代語辞典編修委員会編 1985:412,22,560)
「たかまのはら[高天原](名)天上にあると考えられていた国。・・・・(途中、数例省略)・・・・「高天原たかまのはらニ所レ生神名曰ニ天御中主尊一」「伊弉諾尊ニ任三子一曰、天照大神者、可二以治ニ高天原たかまのはら一也、月読尊者可ニ以治二滄海原潮之八百重一也、素戔鳴尊者可ニ以治二天下一也」(神紀上)・・・・(以下省略)」
「あしはらのなかつくに[葦原中国](名)葦の生えしげる現実の国。高天ノ原と黄泉ノ国に対する一つの世界で、日本の別名となる。・・・・(以下省略)」
「ねのかたすくに[根堅州国](名)黄泉よみの国をいう。・・・・(例は省略)・・・・【考】ネは根で、ネノクニソコノクニともいうように、死後の世界が地下にあったと考えられたことを示しているが、カタスクニは未詳。宣長は片隅カタスと解するが疑わしい。「堅州国」は古事記の表記者の解釈をあらわしていると思われる。→次項・よみ」
またこのあとの比較に必要な「天照大神者」と「月読尊者」の関係を、次に見てみることにします。(倉野 1963:30)
「・・・・ここに左の御目みめを洗ひたまふ時に、成れる神の名は、一一天照大御神あまてらすおほみかみ。次に右の御目を洗ひたまふ時に、成れる神の名は、一二月讀つくよみの命。次の御鼻みはなを洗ひたまふ時に、成れる神の名は、一三建速須佐之男たけはやすさのをの命。」
*筆者注:上の注11には「日の神」、注12には「月の神。書紀には月弓尊とも月夜見尊とも記されている」、注13には「嵐の神」とあります。
*二日フツカなどのカの交替形である日コは暦コヨミ(日コ読み)に見られ、この「日コ読み」と「月讀つくよみ」の関係を天照大御神と月讀命とに対照させることができるでしょう。
そして上の二つの引用からわかる古代人の心情は、次のような関係としてとらえることできるでしょう。
朝 昼 夜
朝日 昼間の太陽 月
高天原 葦原中国 根堅州国
天上世界 地上世界(現実世界) 地下世界(黄泉:死後世界)
天照大御神 素戔鳴尊 月読尊(月夜見尊とも)
女性神(男性神) 男性神(女性神) -
左(最初) 鼻(三番目) 右(二番目)
誕生(再生) 活動(生者) 消滅(死者)
*( )内の男性神・女性神についてはこの後の説明をみてください。
*天照大御神を三世紀の卑弥呼にあてる考えがあります。
ところで上にみられるように古代人は朝日を女性神、昼間の太陽を男性神と見ているようですが、もう一つの考え方もあります。それは太陽といえばまず朝日を思い浮かべますが、「日御子」が「彦」に語義をかえていること、魏志倭人伝に「もとまた男子をもって王としていた」という記述から卑弥呼は男王のかわりであることがわかることなどを考えあわすと、朝日を男性神、昼間の太陽を女性神と考えるほうが自然な気もします。しかし記紀の古代神話が三世紀の時代のでき事を反映していると考えれば、朝日の象徴としての「日御子」は当然実在した卑弥呼なので、朝日は女性神(天照大御神)として考えられるわけです。そうすれば対となる昼間の太陽は男性神と考えることができます。それはともかく記紀によれば天照大御神の別名は「大日尊オオヒルメノミコト」でもあるので、その言葉を見ておきましょう。(上代語辞典編修委員会編 1985:626-7)
「ひ甲るめ甲[日女・日](名)日の女神。特に天照大神をさしていうことが多い。「於レ是共生二日神二、号大日貴オホひるめのムチ<於保比■灯\武智オホひるめノムチ、一書云、天照大神、一書云、天照大日霎尊>此子光華明彩、照二徹於六合之内一」(神代紀上)、「天照らす日女ひるめの命、一云、さしのぼる日女ひるめの命」(万一六七)・・・・(一例省略)・・・・【考】昼ヒル=女メで、日ヒの派生語であるヒルが昼の意(→ひ[日]B)とともに太陽の意(→ひ[日]@)をもちえたので、昼女ヒルメは日の神である、と説かれている。・・・・(以下、日の神の妻や日の神につかえる巫女とする説は省略)・・・・」
*ただし、上の【考】以下で省略した説からは「ひるめ」(日女)を日の神とする解釈はなりたちませんが。
上の引用から「ひるめ」(日女)を「昼女ヒルメ」と解釈すれば、「ひるめ」は昼間の太陽である女性神であると考えることができるでしょう。そうすると「日御子」(男性神:朝日)を男王、「日女ヒルメ」(女性神:昼間の太陽)を女王と考えることができます(ただし、上の「さしのぼる日女ひるめの命」の注をとれば、やはり朝日の象徴としての女王となりますが)。ところで昼間の太陽の象徴としての「ひるめ」(日女)である天照大御神には「天の岩戸」神話があります。そして天の岩戸を開くという象徴的なできごとを卑弥呼生存時代の(二度みられたうちのひとつの)皆既日蝕(たとえば倭の女王の交代と日食および岩戸隠れなど)をさすという考え方も可能でしょう。(「天の岩戸」神話の解釈もすでにいろいろな説が発表されているので、省略します)
さて話をもどして、先ほど古代人の心情として朝・昼・夜の三区分をあげました。古代人は一日を朝日とともに起き、昼間仕事をして、夕日とともに寝につくという生活をしていました。そして太陽が東から上り、西に沈むそのサイクルを人間世界の一生とだぶらせ誕生、成長、死亡(そして再生)として感じとっていたと考えられます。そしてそういう古代人の心情は世界を天上世界・地上世界・地下世界の三層構造としてとらえたということができるでしょう。さてこのように古代人の太陽神信仰について見てきたのですが、ここで面白い対比を考えることができるので、次にそれをしめして見ましょう。(左項と右項が対になりますが、以下の考察のために上下も二段にわけてあります)
東(朝日) 西(夜)
神の名:天照大御神あまてらすおほみかみ 月読(=夜見)尊つくよみのみこと
語源 :日御子ヒミカ・方チ(日神・方角) ニシ(月神(?)・方角)
左 右
物の名:日 月(?)
語源 :日方ヒダリ(日・方角) ミギリ(月(?)・方角)
*月読つくよみのツクはツキ(月)の交替形(例:「都久夜つくよ」(月夜)(万葉集四四八九:上代語辞典編修委員会編 1985:464))。その変化はtuku(月)+i→tuk乙(乙は上代特殊仮名遣いの類別:月)。
*チ(→シ)は方角をあらわす接尾語。リはti(チ)→riの変化。
*右はミギリの語もあります。
上のような対比を考えると東・西は日神・月神の方角、また左・右は日・月の方角となってうまく対応すると思われます。もちろん上で「月神」「月」に疑問符をつけているように本当に東・左と西・右をそれぞれ日と月とに対応させることができるかはわかりませんが、古代人の心情を考えるとこの対比は「西」と「右」の語源を解くうえで重要なヒントになると思われます。そこでこのヒントをもとに「西」と「右」の語源をこれから考えていくことにします。
お断り(2004.03.01)
このあと「西」と「右」の語源についても書いてみたのですが、少々問題があり、その上更新の時もきてしまいました。それで「西」と「右」の語源は次回の更新で考察することにしました。
お詫び(2004.06.01)
「西」と「右」の語源をいくつか考えついたのですが、これはという決定的なアイディアがわいてきませんでした。それで以前やり残した「「母」は「ハワ」から「ハハ」に先祖がえりをしたのか?」の問題を次頁で、もう一度考察することにしました。なお「西」と「右」の語源の簡単な考察はこちら。