「連濁はいつ起こるのか?」
(2003.09.01 更新)
このページでは「梅」の発音の移りかわりについて考えることにします。
01.はじめに
02.連濁とは何か
03.清濁と連濁の関係
04.清む(清音)と濁る(濁音)
05.ガ行鼻濁音
06.サ行の直音化について
07.タ行の破擦化について
08.ツァ行音について
09.四ツ仮名について
10.すずめはスズと鳴いたか?
11.ラ行音について
12.日本語にはなぜ行音(V-)がないのか
13.『梅咲きぬどれが梅(むめ)やら梅(うめ)ぢややら』
目次(「連濁はいつ起こるのか?」)へ
13.『梅咲きぬどれが梅(むめ)やら梅(うめ)ぢややら』(1756)
上の表題は与謝蕪村の句のひとつですが、今回はこの句で問題になっている「梅」の発音を考えて見ることにします。たとえば「梅の仮名遣ひ」(会津八一作)という文章からもわかるように、古来「梅」の表記は「うめ」で、その後「むめ」にかわったことがわかります。「梅」と「馬」の古例を、次にみておきます。(上代語辞典編修委員会編 1985:それぞれ13,129,728)
「うめ[梅](名)@うめ。いばら科の落葉小高木。中国原産だが、古く日本に渡来し、万葉人にその気品ある花の姿を雪や鶯などとともに賞玩された。懷風藻の詩にはその香も詠まれているが、記紀にはこの植物の記載がない。ウメという名も直接か間接(たとえば朝鮮語を経て)かはわからないが、中国語にもとづくものであろう。ムメとも記されている(→うま[馬])。・・・(以下中略)・・・【考】「乱れしめ梅メや」(万三三六〇)「宇ウ梅メ」(万三九〇六)「烏ウ梅メ」(万八一九)などは「梅」をメの仮名に用いたものだが、馬ウマがマととも言われるのと同じように梅ウメをメといったかどうかは疑わしい。」
「うま[馬](名)@うま。奇蹄目馬科。古く大陸より伝えられた。・・・・(以下中略)・・・・【考】ウマ(馬)・ウマゴ(孫)・ウマシ(旨)・ウバラ(茨)・ウメ(梅)・ウバフ(奪)・ウベ(宜)などと同様、平安時代初期(およそ新撰字鏡ごろ)までは、その第一音節がウと表記され、それ以後はムと表記されることが多くなった。和名抄にも、「馬无万 ムマ、南方火畜也」と見える。・・・・(以下省略)」
「むま[馬](名)馬。→うま[馬]。「牟麻むまの爪ツメ筑紫の崎に」(万四三七二)・・・(中途省略)・・・・【考】用例が防人歌と日本書紀古訓などなので、上代において中央でムマという形がどのくらい用いられたか疑わしい。・・・(以下省略)」
また鰻の語源解釈として「鵜難儀」説がありますが、それにたいする小松氏の文章のなかに「ウナギ」の表記の古形が「ムナギ」であることを述べているところがあります。(小松 昭和56:15)
「「鵜」の語形が『古事記』以来、「ウ」で一貫しているのに対し、「鰻」の方は奈良時代から平安時代にかけて、「ムナギ」という語形で文献にあらわれている。土用の丑うしの日になると、鰻屋の店頭に、
石麿いはまろに我物申す 夏痩なつやせに良しといふ物そ 鰻取りめせ (万葉集・巻十六)
という大伴家持の戯歌が張り出されているのを目にするが、これも原文の表記では、「武奈伎取喫ムナギトリメセ」となっている。」
*筆者注:上の歌は第三八五三番。なお村山氏の「鰻」の語源解釈は(江上・大野 昭和48:164-6)
ここで「梅」「馬」「抱く」「鰻」「宜ムベ」の語でそれらの表記の移りかわりを見ておきます。(上代語辞典編修委員会編 1985:引用語は各該当ページより)
上代 中世 現代
梅:宇梅ウメ(万3906番)・烏梅ウメ(万819番) 无女ムメ(和) ウメ(mme/umeなど)
馬:宇万ウマ(万4081番)・牟麻ムマ(万4372番) 无万ムマ(和) ウマ(mma/umaなど)
抱:武太伎ムダキ(万3404番)・于田支ウダキ(霊) 抱ムダク・ウタク(名) ダク
鰻:武奈伎ムナギ(万3853番)
无奈岐ムナギ(和) ウナギ(unagiなど)
宜:宇倍ウベ(万1452番) ムベ(名) ムベ
*万:『万葉集』(771年以降編纂と思われる)
*霊:『日本霊異記』(下九話。仏教説話集823年前後に成立)
*和:『倭名類聚鈔』(平安時代末期までに成立。931−8年頃か)
*名:『類聚名義抄』(平安時代末期1081年以降に成立か)
*( )内のローマ字は現代方言音。
このようにウと交替するムの表記は奈良時代から平安時代ころにはみられ、その後ふたたびムからウに交替して現在にいたっているのがわかります。そしてこのような表記の変化から、「梅」の発音は「うめ」→「むめ」→「うめ」と変化したのではないかと想像することができます。しかし考えてみると納得のいかないことがあります。なぜなら平安時代から江戸時代のおわりにかけてのわずか1000年ほどの間に「梅」の発音がume→mume→umeとめぐるましく変化するものでしょうか。そしてこのような素朴な疑問がわきおこれば、「梅」の発音がume→mume→umeのようにかわったと考えるわけにはいかなくなるでしょう。
ところで私たちは表記されている文字をみると、すぐに単純にその文字が発音をあらわしていると考えてしまいます。しかし文字は発音をあらわしているのは事実ですが、必ずしも発音そのものではないことがあります。たとえば「行こう」と書かれる言葉はカタカナでは「イコー」と書かれるように、「いこ」(iko)と「う」(u)の重複音のikouではなく、iko:(「:」は長音記号)であるのはあきらかです。つまりこの場合「行こう」と書かれる言葉の発音は「いこー」であって、「いこう」ではないということです。(この例は小松 昭和56:p30-32)つまりこのような文字と発音のあいだにみられるくい違いをしると、古代からの「梅」の発音の変化に応じてその表記を「うめ」→「むめ」→「うめ」とかえてきたのではないかと想像することができます。そしてそのときどきの発音をより正確に表記しようとしたため、文献に残された表記が一見矛盾しているように見えるのではないかと考えられてきます。
さてこのように文字表記にみられる矛盾は発音の変化をより正確に表わそうとしたために起こった現象であると考えると、それでは「梅」の発音の変化は古来から現在までどのようなものだったのでしょうか。ここでこの問題を解くために、現在の「鰻」「馬」「旨い」「生まれる」「産む」「梅」と「海」「孫」「昔」「物」の各地の発音をみることにします(それぞれ平山輝男編著 平成4・5:1巻633-4,1巻641-3,1巻643-6,1巻649-53,1巻658-660,1巻660-2,1巻653-5,6巻4708-10,6巻4933-4,6巻5107-09)。
鰻 馬 旨い 生まれる 産む 梅 海 孫 昔 物
弘前:na mma mm marr m mm m mao mgas mono
福島:nai mma m
marr m m m mao mkai mono
東京:nai ma mai marer m me
mi mao mkai mono
新潟:nagi mma mm
marer mm mme mi mago mkai mono
長野:nai mma mme: mmarer m mme mi mao mkai mono
静岡:nai ma me: marer m me
mi mao mkai mono
滋賀:unai mma mmai mmareru umu mme umi mao mukai mono
京都:unai uma/mma mmai
mmareru umu mme umi mao mukai mono
鳥取:nag ma mai marer m me
mi mago mkai mono
山口:unagi uma (oii:) umareru umu ume umi mago mukai mono
高知:unagi mma mmai mmareru umu mme umi mago mukai mono
熊本:unagi mma umaka mmaruru umu mme umi mago mukai mono
名瀬:onagi ma: ma:a mariryu (nau) ume umi maga: mukas mu
沖縄:una:gi ma: ma:e ma:ri: (nasu) - umi ma:ga muka:i mu
平良:una nu:ma mmakaz mmarizi (nasi) mme im mmaga kya: munu
鳩間:unai m:ma mma: maru (nasu) umi (tu:naka) ma: mukai munu
*名瀬・沖縄・平良・鳩間はそれぞれ鹿児島県奄美大島・沖縄本島北部の本部町・宮古島・沖縄県八重山諸島鳩間島。
*:平唇のウ。:平唇の中舌母音ウ。:中舌母音イ。:iの無声化音。
*m:前鼻音(両唇鼻音m)。:軟口蓋鼻音。/m:いりわたり鼻音。:口蓋垂鼻音()。
*:硬口蓋歯茎摩擦音。:有声歯茎破擦音。
*:半長音。::長音符号。:声門破裂音。その他の記号とアクセントは省略しました。
*「生まれる」と「産む」は同根。「うまる」は平安以降「むまれる」とも表記され、現代では「生まれる」に。古語には「産ム」「生す・産すムス」がある。
*「孫」(まご)は「うまご」(平安以降は「むまご」とも)より。
このように各地の方言をみると、語頭がウではじまる単語の語頭音はuではなく、mであるものがかなりあることに気づきます。そして京都方言の「梅」の現代音がmmeなので、これは中世の表記「ムメ」をうけついでいると考えることができるでしょう。そこで「梅」の表記と発音の変化を、次のように考えることにします。
上代 中世 現在
表記:ウメ-----→ムメ-----→ウメ
発音:ume-----→mme----→mme
ところで上のように考えると、表記が「ウメ」から「ムメ」にかわった原因は発音がumeからmmeにかわったためであると説明できるのですが、問題になる事があります。それは中世から現在まで発音は同じmmeであるのにその表記は「ムメ」から「ウメ」に再びかわっていることです。すなおに考えれば発音が同じであればその表記も同じであって当然ですが、その表記は再び「ムメ」から「ウメ」にかわっているのです。なぜこのような表記の変更が起こったのでしょうか。この問題を解くためのよいヒントとなる、別のまだ解決されていない問題があるので、先にその問題から考えることにします。
まずその問題を、次に紹介します。(小野 平成10:109:下記の〔図1〕は同書から重引しました)
「一 研究の目的
青谿書屋本『土左日記』(以下、単に『土左日記』と表記)で使用されている仮名のうち、「ん」字は、古来問題のあるものであり、「ん」の字形を持つ文字が「ム」および「モ」の両者に対応するような用い方がなされている(〔図1〕参照)。」
図1を見ればわかるように、「ん」字を用いたそれぞれの語は「むま」(馬)・「はなむけ」(餞)・「もの」をさしていると考えられます。しかしここで問題になるのはどうして図1にみられる「ん」字は「ム」「モ」の両表記に使われたのでしょうか。なぜ「ム」「モ」で書きあらわせばよい語をわざわざ「ん」字を用いて表記したのでしょうか。
ところでこの問題を解くために、上のレポートの作者は「ん」字があらわす可能性として、次の3つをあげています。(小野 平成10:115)
「イ.すべてが「ム」の可能性
ロ.すべてが「モ」の可能性
ハ.すべてがム音便[m]の可能性」
そして色々な可能性を考えて、レポートの作者は「『土左日記』において、「ん」字は特徴的な文字なのであるが、これは、ムとモを同時に表していたという結論にいたった。」(小野 平成10:117)と述べられています。たしかに図1の「ん」字を用いた語は「むま」(馬)・「はなむけ」(餞)・「もの」と解釈でき、またそれ以外には解釈できそうもありません。それゆえ「ん」字は「ム」と「モ」を同時に表わしていたと考えるのが妥当なのですが、そう考えるとなぜ「ム」「モ」で書きあらわせばよい語をわざわざ「ん」字で表記したのかという疑問が残ります。そしてこの疑問をもちつづけるかぎり「ん」字は「ム」と「モ」を同時に表わしているという「ん」字二音説は答えにならないといわざるをえないでしょう。 さてこのように考えてくると、「むま」(馬)・「はなむけ」(餞)・「もの」の語をわざわざ「ん」字を用いて「んま」・「はなんけ」・「んの」と表記した理由はもっと別のところにあると考えられます。そこでこの疑問を解決するために、「ん」字は「ム」「モ」をあらわすだけでなく、もっとそれ以上の何かの情報をつけくわえたある種の記号のようなものでないかと考えることにします。そしてこの考えにそって当時何かこのような記号を使っている表記例がないかとさがしてみると、大野氏の「日本書紀の清濁表記(異例の考察)」という文章のなかに、次のような例が見られます。(大野 1953:123-4)
「・・・(橋本進吉博士の「国語における鼻母音」の考えの引用は省略しました)・・・
即ち、類聚名義抄(觀智院本)には、中國語の韻尾を表記する爲に、ウを用ゐ、その右肩にレ點を附するものがあるが(例へば恭クウレ、僧上四丁ウの如く)、それは決して韻尾を表現する爲にのみ附せられる記號ではなかった。
餓 .カレ (僧上五五丁ウ)
持 チレ (佛下本三六丁オ)
罪 サレ.イ (僧中六丁オ) 鼻 ヒレ (佛中四〇丁オ)
盛 謝レ.ウレ (僧中一九丁ウ) 大 タレイ (佛下末一六丁オ)
主 主レウレ (佛上二〇丁ウ) 芭蕉 .バレ.セ.ウ (僧上二二丁オ) 等
レの記號は右に見る如く、カサタハ行にわたつて、濁音節を示す場合に用ゐられてゐる。これは先のロドリゲスの文典の言ふやうに、濁音節の先にはわ、た、り、(glide)として鼻音を伴つたことを示すものであり、次の如き表記の存在はレの記號が鼻音を表示するものであることを最もよくヘへ、同時にマ行ナ行音の前にもわ、た、り、の鼻音が存在したことを示すものといへよう。
夢 ムレ.ウ (僧上二五丁オ)
而 ニレ (佛上三八丁オ)
また、次の如き實例は、院政時代における母音ウが、極めて鼻母音的であつたことを示すものと解してよいのではあるまいか。
烏 ウレ (僧中六六丁ウ)
憂 ウレ (僧中二七丁オ)
これらによつて想像すれば、更に遡つた時代にはマ行ナ行の音もまたその直前又は直後の母音を鼻母音化し、清音の頭子音を有する音節をも恰も濁音節であるかの如くに聞えさせたのではあるまいか。・・・(以下省略)」
このように平安時代ころには文字の右肩にレ點をつけることによって、鼻音や入りわたり鼻音の存在を表現していたことがわかります。そしてこのようなレ點表記の実例を知れば、それと同じことが地名における漢字表記にも見られることに気づきます。そこで地名表記のなかにどのような文字の使いわけがあるかを旧国名を例に、次に見てみることにします。
単純母音 鼻母音(もしくは次音節の入りわたり鼻音として)
ア:阿波・阿蘇 安芸(あき)・安房(あは) ・安土(あづち)
イ:伊賀・伊勢・伊豆・伊予 因幡(いなば)
ウ:羽前・羽後 雲奈(うな)
オ:小田原 隠岐(おき)
*地名の阿蘇・安土・小田原は筆者が追加。雲奈は『地名の語源』(鏡味完二・鏡味明克 昭和52:86)より。
*安土は+tuti→aNtsuti>adzutiの変化。因幡・雲奈は「みなし連声」による変化で、それぞれ、+apa→iNapa>inaba、+a→uNa>unaの変化と、今は考えておきます。(N:いりわたり鼻音)
上の「阿」と「安」の使いわけでわかるように、語頭の音節が単純母音であるか、それとも鼻母音(もしくは次音節への入りわたり鼻音として)であるかの違いによって、地名表記に使う漢字が違っていることです。つまりこれらの文字の使いわけは、先ほど引用した「右肩にレ點をつける」ことと同じ機能をはたしているといえるでしょう。そしてこのようなことがわかってくると、右肩にレ點をつけることや「阿」「安」などの使いわけと同じ機能が「ん」字の用法にもあると考えることができます。つまり「ん」字は単純母音の「ム」や「モ」ではなく、入りわたり鼻音や前の音節に鼻音があることを示していると考えることができます。
よくわかるように、図1にみられる「ん」字の表記と発音とを対照させてみると、次のようになります。
表記 発音
「んま」(馬) :mma
「はなんけ」(餞):hanamuNke
「んの」 :moNno
*m:両唇鼻音。N:いりわたり鼻音。mmaの当時の表記は「ムマ」。
ここまでの考察から語が単純母音ではなく、鼻母音(もしくは次音節の入りわたり鼻音や前の音節の鼻音として)であることをあらわす方法に、次のようなものがあることがわかりました。
1.右肩にレ點をつける(例:罪 サレ.イ)
2.図1にみられる「ん」字で代用(例:「んま」(馬)、「はなんけ」(餞)、「んの」)
3.鼻音でおわる漢語で代用(例:安芸・安房・安土など)
*入りわたり鼻音は中世以降撥音便「ん」として定着した。(例:「さんまい」(三枚))
さて「ん」字の用法についてはこのように答えが出たので、ここで最初の問題(「ウメ」と「ムメ」の交替)にもどることにしましょう。さきほど引用した大野氏の考えの中に「ウは鼻母音的であったろう」という言葉があり、その例として「烏 ウレ」があがっています。そして上代において「梅」は「烏ウ梅メ」と表記されているので、古代の「梅」の発音はmeであったと考えることができると思われます。そうすると当時都であった、京都の現代音がmmeなので、古代から現代の「梅」の発音の変化を、次のように考えることができます。
古代 現代
me----→uNme----→mme(各地の方言でumeなども)
そこでこの発音の変化と表記の変化を対照させれば、次のようになります。
古代 中世 現代
表記:ウメ---------------→ムメ----→ウメ
発音:me----→uNme----→mme----→mme
*N:いりわたり鼻音
ところでこのように「梅」の発音と表記の関係を考えてみても、さきほど疑問とした「ムメ」から「ウメ」へ再び表記がかわったことはうまく説明できません。そこでこの問題を解くために、もう一度文字(表記)と発音の関係を考えてみることにします。さきほどの「ん」字の考察でもわかるように、表記にみられる一見した矛盾はそのときどきの発音をより正確に表記しようとしたために起こったと考えられます。しかしそのときどきの発音をより正確に表記するというのはどういうことなのでしょうか。もし文字が発音そのもの、つまりその当時の文字でその発音を正確に表わすことができれば文字と発音のあいだには矛盾はないでしょう。しかしもし当時の発音を当時の文字では正確にあらわすことができなければ、どういう方法を考えればいいのでしょうか。その問題を解決するための方法のいくつかを英語を例に、次にあげてみます。
1.lとrの区別:lock([lk]:ろック)------------rock([rk]:ロック)
2.bとvの区別:building([bldi]:ビル)--------violin([vilin]:ヴィオリン)
3.nとngやsとshの区別:shin([n]:シヌ)------sing([s]:スィン)
ところで上の例にあげたように、日本語にない音を表記するために新たに文字「ヴ」(v)・「スィ」(si)・「ヌ」(n)・「ン」(ng)を作ったり、新しい使い分け(lにひらかな。rにカタカナ)をしないとすれば、いままでにある文字でその表記を工夫しなければなりません。ではその時はどのように表記を工夫すればよいのでしょうか。このように考えてくると当時の発音をより正確にあらわそうとするとその表記には発音に近い仮名をあてる必要があり、そしてその仮名にもかぎりがあるとなればどの発音にたいしてどの文字をあてるかという、文字と文字の関係が問題になってくるのがわかります。つまりこのように考えてくると、以前古代におけるイ音の問題を解決にみちびいた喉頭化音()がここでもこの問題を解く鍵であると思われます。(「馬の鳴き声」「「色重」のもじり」も参照ください)
そこでmeの発音にも喉頭化音をくわえてみると、「梅」の発音と表記は、次のようになるでしょう。
古代 中世 現代
発音 :me---→uNme---→mme----→mme
表記 :ウメ--------------→ムメ-----→ウメ
ウの発音: u u
ムの発音:mu mu mu
*N:入りわたり鼻音(ここでは両唇鼻音m)
上の変化式を少し解説することにします。まず古代の「梅」の表記が「ウメ」であるのは当時の発音がmeであったためと考えられます。そのあと鼻母音のウ()が入りわたり鼻音(-m)から両唇鼻音(m-)に変化してummeになり、その後語頭のuが消えて(無声化したあと喉頭化音とともに消失して)mmeに変化したのです。そしてその当時、このmmeの音を近似的に表記できる文字としては「ウメ」(ume)と「ムメ」(mume)があったと考えられます。しかし「ウメ」(ume)には喉頭化音()があったため「ウメ」(ume)よりも「ムメ」(mume)のほうがよりmmeに近く、そのため「ムメ」の文字が選ばれたと考えられます。そして中世以来現在まで発音はmmeで変化しなかったのですが、ウ(u)の発音はその後喉頭化音()が消えuからuに変化したため、「ムメ」(mume)よりも「ウメ」(ume)のほうがよりmmeに近く、「ウメ」の文字が再び選ばれたと考えることができます。
上の説明ではわかりにくいと思われますので、もう一度発音と表記を対照させてみます。
古代 中世 現代
A.実際の発音(表記):me(ウメ)---→mme(ムメ)---→mme(ウメ)
B:近似音(表記) : mume(ムメ) ume(ウメ)
C:より遠い発音(表記): ume(ウメ) mume(ムメ)
上のAの発音がBとCの発音のそれぞれどちらに近いかを皆さんも実際発音して確かめてみてください。そうすると中世のmmeに対してはume(ウメ)よりもmume(ムメ)のほうが、現代ではmume(ムメ)よりもume(ウメ)の発音のほうが原音(Aの発音)により近いことに気づかれることと思います。つまり「梅」の発音がmeからmmeにかわったのをうけて当時存在した仮名でできるかぎり正しく表記しようとしたため、その表記が「ウメ」から「ムメ」へとかわったのです。そしてその後現代までmmeの発音は変化しなかったのですが、umeの喉頭化音()がその後消失したためにその表記が「ムメ」から「ウメ」へと再びかわり、結果として見た目の表記の矛盾が起きたと考えることができます。
ところでここでとりあげた喉頭化音()は京都をふくむ多くの方言で、せきこんで発音するなど特殊な環境以外には現われないので、なお理解しにくい多くの方がおられると思います。そこでもしこの説明が理解しにくい時は喉頭化音が顕著な岩手県の宮古市や沖縄本島の方言話者、あるいははえぬきの東京人にこの喉頭化音を聞かせてもらってください。そして上の喉頭化音を含むそれぞれの音を実際に自分で発音されれば、上の説明を納得していただけると思います。(喉頭化母音についての考察はこちら)
ところで上で語頭のuが消えてmmeに変化したと考えたのですが、この変化について少し補足しておきます。たとえば中世において次の引用に見られるように、語頭のイが消失する現象があらわれています。(日本大辞典刊行会編14 巻 昭和50:294)
「でる【出】
(自ダ下一)文:づ(自ダ下二)(・・・中略・・・) 〔補注〕古くは「いづ」が普通に用いられたが、その頭音「い」の落ちた「づ」もすでに万葉集に見られる。ただし、「漕ぎづ」、また、名詞形の「思ひで」「門で」など、他の語と複合した場合に多く見られ、単独で使われているのは東歌と防人歌だけである。しかし、「名語記−四」には「出はいづ也。ただづるとばかりいへり、如何。いづるのいをいはざること例おほき也」とあるので、鎌倉時代ごろには相当広く「い」の落ちた形が使われていたと見られる。・・・(以下省略)」
またこのような語頭母音の消失はウにも見られます。(それぞれ上代語辞典編修委員会編 1985:726,117,128,131)
「むだく
[抱](・・・前略・・・)【考】ウダクの形の確例は霊異記の訓注がもっとも古く、上代に確かな仮名書き例はいずれもムダクである。イダクは日本書紀古訓に見え、また竹取物語や土左日記をはじめ平安時代に用いられている語形である。」
「うだく
[抱](動)抱く。抱える。身にだき心にいだく。イダク・ムダクとも。(・・・以下省略)」
「うばら
[棘・](名) ウマラ・ヲマラなどの語形もある。(・・・中略・・・)【考】(・・・中略・・・)ヲマラの例は、「叢刺於止日雄ヲ万マ良ラ」(聖語蔵本大乗阿達磨雑集論古点)などに見える。→うまら[棘]」
「うまら
[棘](名) とげのある小低木類の総称。また、特にいばら。のいばら。ウバラの転。「道の辺の宇万良うまらの末ウレに這ハほ豆のからまる君をはかれか行かむ」(万四三五二)「棘宇万良うまら」(華厳音義私記)【考】「聖語蔵本大乗阿達磨雑集論古点に「叢刺於止日雄ヲ万マ良ラ」とあるので、ウマラはヲマラともいったことがわかる。→うばら」
このような語頭のイやウが消失する変化は、次のように考えることができるでしょう。
出: イヅ-----→ヅ
抱く:ムダク---------→ウダク/イダク---→ダク
薔薇:ウバラ/ヲマラ---→ウバラ/イバラ---→バラ
*語頭のイとウは交替することがあります。
「いま【馬】(名)ウマ。*滑稽本・東海道中膝栗毛‐二・凡例「筥根(はこね)より伊勢道までは馬をおまといひ又いまといふ。・・・(以下省略)。」(日本大辞典刊行会編2巻 昭和47:338)。
*表記がムと交替するイの例としては、次に。
「むま【今】(名)「いま(今)」の意。中古の和歌の中で、「馬屋(むまや)」にかけて、「今や」の意で用いられる。*大和-七〇「しのづかのむまやむまやと待ちわびし君むなしくなりぞしにける」(・・・以下省略)」(日本大辞典刊行会編19巻 昭和51:104)。
ここで母音などの小さい違いを考えずに、「梅」の現代方言音をもう一度タイプわけして見てみると、次のようになります。
1.mme(京都)
2.mm(弘前)
3.ume(名瀬)
4.ume(山口)
*ここでは名瀬方言のma:(「馬」)や鳩間方言のm:ma(「馬」)などは考慮していません(次回の更新でもう一度考えることにします)
このような現代方言音から喉頭化音や語頭のイやウの消失、また入りわたり鼻音の前鼻音化(m→m)への変化を考え、「梅」の発音の変化を、次のように考えることができるでしょう。
1a.me--→umme--→umme----------→mme(京都方言など:喉頭化音ウの消失。前鼻音化)
1b.me--→umme-------------------→mme(弘前方言:喉頭化音ウの消失)
1c.me--→umme--→umme--→ume--→ume(山口方言など:喉頭化音と前鼻音の消失)
1d.me--→umme--→umme----------→ume(名瀬方言など:前鼻音の消失)
*:鼻母音されたu。:喉頭化音。m:入りわたり鼻音。m:両唇鼻音。
*母音の違い(やi、また・など)はここでは考慮せず、eで代用してあります。
ここまで「梅」の発音の変化を考えてきましたが、今回は名瀬方言のma:(「馬」)などの変化については考察できませんでした。それらについては次回の更新で考えることにしますが、先日某TVで面白い発音を聞いたのでここで報告しておきます。それは若い女性アナウンサー(日時・局名・アナウンサー名は失念)が外来語の「フィーリング」(英語から借用:feeling)を無声両唇摩擦音の[i]でなく、カタカナで「ヒーリング」と書いてもよい無声硬口蓋摩擦音の[i]に近く発音していたことです。このような発音の傾向は國廣氏の報告にも見られので、それらは次のようにあらわすことができるでしょう。
フィ:[i](両唇摩擦音)------→[i](ヒ:硬口蓋摩擦音)
フ :[](両唇摩擦音)-----→[](口蓋垂摩擦音)
「フィーリング」を「ヒーリング」と発音したり、フ([])を[]で発音するような傾向がもしこれからの日本語の発音のさきがけであるならば、ハ行音は将来次のようになると考えられますが、皆さんはどう思われますか。
両唇閉鎖音 両唇摩擦音 硬口蓋摩擦音 口蓋垂摩擦音 声門摩擦音
ハ:【[pa]-------→[a]----------------------------------→[ha]】
ヒ:【[pa]-------→[i]--------→([i]】---------------------→[hi])
フ:【[pa]-------→([]】--------------------→[]--------→[hu])
ヘ:【[pa]-------→[e]-----------------------------------→[he]】
ホ:【[pa]-------→[o]-----------------------------------→[ho]】
*( )内は将来の変化(筆者の予想)。【 】の変化は現在までの変化(推定。ただし特殊仮名遣いについては考慮していません。これについてはハ行頭子音の変化についてを見てください)。
追記
本日(2003.10.18 朝6:55分頃)再び某TV局のある番組の中で、某女子アナの発音に上と同じ発音を聞きましたので報告しておきます。
英語からの借用語「フィット」(fit([ft]))は街の日本語では[ft]や[itto](近似カナで「フィット」)でもなく、[uitto](近似カナでフイット:は両唇摩擦音//)と発音されているのが普通ですが、このアナウンサーは[itto](近似カナで「ヒット」:は硬口蓋摩擦音//)に近く発音していました。これは([ft]→)[itto]→[uitto]→[itto]のような発音の変化によると思われます。ui(フイ)はウの口構え(平唇(//:東京方言)であれ、円唇(/u/:京都方言)であれ)をしたあと次のイ音へわたるため、そのイの口構えに引きづられて結果としてヒ音がでてしまう変化であるといえます。この変化は橋本氏の表記で考えると、次のようになるでしょう。
ui(=ui:フイ)-----→ii(=ii:ヒー)
*後ろにあるiの影響でがになるのを逆向的同化と呼ばれています。(ここでは平唇で説明してます)