「連濁はいつ起こるのか?」
(2008.02.02 更新)
このページでは連濁現象についてまとめてみます。
01.はじめに
02.連濁とは何か
03.清濁と連濁の関係
04.清む(清音)と濁る(濁音)
05.ガ行鼻濁音
06.サ行の直音化について
07.タ行の破擦化について
08.ツァ行音について
09.四ツ仮名について
10.すずめはスズと鳴いたか?
11.ラ行音について
12.日本語にはなぜ行音(V-)がないのか
13.どれが梅(むめ)やら梅(うめ)ぢややら
14.「母」は「ハワ」から「ハハ」に先祖がえりをしたのか?
15.「ハワ」から「ハハ」への変化を仮定する
16.みたびハ行転呼音の変化を考える
17.促音便ってなに?
18.特殊ウ音便と撥音便・促音便の交替はなぜ起こったのか
19.「人」の語源を探る
20.「西」と「右」の語源を考える
21.再び「母」の変化を考える
22.再びワ行音の変化を考える
23.ワ行音と合拗音の関係を考える
24.琉球語の助詞「ヤ」について
25.琉球語の助詞「ヤ」の起源について
26.ワ行音とハ行転呼音はどのように発生したのか
27.連濁はなぜ起こるのかーア行音の問題
28.連濁はなぜ起こるのかーサ・タ行音の問題
29.連濁はなぜ起こるのかーサ行イ音便の問題
目次(「連濁はいつ起こるのか?」)へ
29.サ行イ音便の問題
まずサ行イ音便の問題を考えます(以前の考察はこちら)。サ行イ音便は現代語で「話した」というところを「話いた」などとイ音便化するもので各地方言になお見られますが、その方言分布や衰退時期については次のようなことが知られています。(それぞれ奥村三雄 1978:606,618,611)
「現代京都語をはじめ、多くの方言において、四段活用動詞完了形は、概ね、所謂音便の形をとるが、サ行四段動詞に限って、音便形をとらない。然るに、名古屋岐阜地方その他西日本諸方言においては、話イタ等サ行イ音便の認められる所が、かなり存する。(…以下省略)」
*筆者注:「話いさ」(滋賀県彦根市など)や「話ひた」(和歌山地方など)の形もあります。(奥村三雄 1978:608)
「▽結局、京阪語史におけるサ行イ音便は、〈室町末期〜元禄期の間に、甚しく減少し、宝暦期頃には既に、ほぼ現代語と同様、サス等の化石形を除いて、殆んど衰退していた〉と言うべきであろうか(17)。
(3) 文献資料の関係で、古い東国方言の事は、よくわからないが、少くとも、近世江戸語では、サ行イ音便が殆んど認められない。・・・・(以下省略)」
「(2) 現代の方言分布相から見て、京都語史におけるその衰退は、かなり早かったと考えられる。即ち、現代京阪語をはじめ、中近畿(淡路や若狭も含めて)・四国等の大部分に、その残存が認められないからである。例えば、京都府の場合、その残存は、山陰方言的な奥丹後地方のみである。・・・(略)・・・(改行)
その他、西日本周辺部でも、サ行イ音便の衰退している所は、かなり多い。・・・(略)・・・(改行)
又、現代サ行イ音便地域の大部分においても、若い人にはそれが認められないし、老人語でも、シタ〇・イタ〇両形の間のユレが相当著しいのである。」
このようにサ行イ音便は中世には衰退しはじめ、「・・・いた」形(老人)-→「・・・した」形(若い人)の変化がみられることから、「方言は古語に残る」という方言周圏論を適用すれば上代から現在への変化は「話した」-→「話いた」-→「話した」と考えることができるでしょう。しかしここで問題になるのは「話した」が「話いた」に変化することは語中の摩擦子音消失(i→i)と考えればこれを認めることもできそうです。しかしその後「話いた」が「話した」に再び先祖返りしたとなると語中のイがシに変化したことになり、これはとてもありそうもない変化といわなければなりません。これは頭で考えるよりも実際「話いた」と「話した」を口に出してみれば「話した」→「話いた」の変化は易しくても、「話いた」→「話した」の変化はとても無理だとすぐわかるでしょう。
ではなぜこのような不思議な変化が起きたのでしょうか。それとも「話いた」が「話した」に再び先祖返りしたと考えること自体がそもそもおかしいのでしょうか。たしかに「話いた」→「話した」の変化はとてもありそうにもないのですが、かといってサ行イ音便の変化を先祖返りなどという亡霊の出そうな言葉で説明するのはもっと良くないでしょう。そう考えれば語中・語尾のハ行転呼音の例としての「母」が「ハハ」→「ハワ」→「ハハ」に変化したようにここでもやはり一筋の変化(「話シタ」→「話イタ」→「話シタ」)を考えるのが正当な考えでしょう。そこでサ行イ音便の変化は次のように考えるとうまく説明できると思われます。(以下、「問題1」までの説明が混乱していたので2009.1.29書き換えました)
上代 中世 現代
サ行音イ音便の変化 :ti(@:シ)-----→i(A:イ)-----→i(B:シ)
例:話して 「はなシ・て」 「はなイ・て」 「はなシ・て」
panatite------→fanaite------→hanaite
「イ」と表記された音の変化:i(C:イ)--------→i(C:イ)------→i(D:イ)
*今回ハ行音はその時代のp・f・h音で表わしました。(以下同じ。ハ行音の変化はこちら)
*今回は語末母音の鼻音化(たとえばt)はtiのように省略しました。(以下同じ)
*上代のシを破擦音のtiに考えることについてはこちら。
*私は以前「上代や中世のイ音は現代のイ音と同じではなく、現代のヒ(i)のような音である」というアイディアを示しておきましたが、奥村氏もまたすでにそのような次の考えを出されています。(奥村 1978:614:引用全文はこちら)
「・・・京都語史文献の/イ/音便表記の中には、iの他、i又はそれに準ずる音価の場合もあったかと想像されるのである。」
さて上のようにサ行イ音便と「シ」と「イ」音の変化を考えると、それらの変化は次のようにいうことができます。
サ行音のシ(ti:@)が中世までに摩擦音化してi(A)になったのですが、そのi(A)は上代に「イ」と表記されていた喉頭化音のi(C)とかなりよく似た音で、つまり他にi(A)に近い音がなかったためi(A)を表わすためにイの表記が選ばれたのです。その後i(A)は喉頭化音()を失ないi(B)になり、またi(C:イ)も喉頭化音()を失ないiになったためイ(D)でi(B)をあらわすことができなくなったのです。そこで上代からの変化(ti→i→i)の末裔であるiの表記にシを用いることになったのです。つまりシの表記がシ(上代:ti(@))→イ(中世:i(A))→シ(現代:i(B))と変わったことによりサ行イ音便が先祖返りしたように見えてしまったのです。
上の説明では少しややこしいと思われるのでわかりやすいようにサ行イ音便の変化を示してみると、次のようになります。(以下の「衰退・残存・改新」などの術語は定説で使われている語です)
上代 中世 現代
京都方言(衰退):fanatite-----→fanaite-----→hanaite
「はなシ・て」 「はなイ・て」 「はなシ・て」
残存方言(老人):fanatite-----→fanaite--→hanaite--→hanaite--→hanaite
「はなシ・て」 「はなイ・て」 「はなイ・て」 「はなイ・て」 「はなイ・て」
残存方言(若者):fanatite-----→fanaite-----→hanaite
「はなシ・て」 「はなイ・て」 「はなシ・て」
*残存方言の老人語ではf→hとi→iの変化の先後など考える必要がありますが、とりあえず上のようにしておきました。)
上の変化式からわかるように残存方言の老人はhanaiteからhanaiteに変化する頃に両親などから言葉を覚えたのですが、その後急速に摩擦喉頭化音()が消失し、その老人の言葉はhanaiteとなったのです。それにひきかえ残存方言の若者世代は老人世代がもっていた喉頭化音()を消失させてしまいhanaiteを使用することになったのです。つまり老人たちがかろうじて保持していた喉頭化音()を若者が保持できなくなったために残存方言の老人語(「話いて」)と若者語(「話して」)の違いとなったのです。
また改新方言とされている和歌山地方や彦根市の方言の変化は、次のように考えることができます。
平安時代頃 現代
和歌山地方(改新):fanati----→fanai・te----→hanai・te----→hanai・te(「はなひて」)
彦根市方言(改新):fanati----→hanai・ta----→hanai・sa(「はないさ」:この変化はこちら)
*:硬口蓋摩擦音//。s:歯茎摩擦音/s/。
つまり和歌山地方の方言は京都方言と同じように喉頭化音()を保持できなくなったためfanai・te→hanai・teの変化を起こし、その後i(シ)→i(ヒ)の変化をしたと考えることができます。それにひきかえ彦根市方言は残存方言の老人語と同じようにサ行イ音便化(hanai・ta)し、その後「はないた」の「た」が摩擦音化したと考えることができます。
*各方言名は現在それらの発音が当地でなされているかはどうかは考えずに右の本(奥村三雄 1978:611,608,607など)から拾ったものです。
またサ行イ音便の時代差を狂言本と上方シャレ本の音便形(異語数で66対1)、非音便形(異語数で86対63)(奥村三雄 1978:617より)をもとに狂言本(室町末期か)と上方シャレ本(近世後期)の特徴(傾向)をみると、次のように考えることができます。
室町末期 近世後期 現代
狂言本(音便形異語数66) :i------→i--------→i
イ イ イ
狂言本(非音便形異語数86) :i--------→i--------→i
シ シ シ
近世後期 現代
上方シャレ本(音便形異語数1) :---------→i--------→i
イ イ
上方シャレ本(非音便形異語数63):---------→i--------→i
シ シ
語中の喉頭化音()の多さ :健在 ほとんど消失 消失
つまり室町末期ころは狂言本の音便形数66に見られるようにまだ語中の喉頭化音()が多く保持されていたのですが、その後近世後期ころになると上方シャレ本の音便形数1に見られるように喉頭化音がほとんど消失してしまったために狂言本と上方シャレ本の音便形異語数の違い(それぞれ66と1)となって現われたということができるでしょう。
さてこのようにサ行イ音便(語中)のイがi(→i)であったことがわかると、次のような言葉や現象をうまく説明できるでしょう。
問題1.東国語の「しし」(父)
問題2.「雀」の鳴き声(しうしう)
問題3.同い年
問題4.「広重」のもじり(色重)
問題5.馬のいななきのイ
問題6.雨(あめ)と春雨(はるさめ)
問題7.「稲目」(いなのめ)、「細竹目」(しののめ)、稲光、稲つるび、稲妻
問題8.動詞の連用形(置いて)・完了形(置いた)
問題9.形容詞の連用形(高く)、終止形(高し)、連体形(高き)
問題10.「カイ」(櫂)はイ音便の最古例か
問題11.月立ち(つきたち)と朔日(ついたち)
問題12.イ音便・サ行イ音便と上代特殊仮名遣いとの関係
問題1.東国語の「しし」(父)
まず上代語の「父」(「知知」:チチ)とその東国語形「志志」(シシ)との関係は次のように考えることができます。(以前の考察はこちら)
上代 平安 室町 現代
上代語チ:tsi@----→tiA----→tiB----→tiC
表記 チ シ チ チ
上代語シ:tiA-----→tiA---→iD-----→iE
表記 シ シ シ シ
*チチ・シシはそれぞれチ・シの重複形と考えてあります。
*喉頭化音(//)についてはこちら。
*タ行音の変化はこちら。
*平安・室町はおおよその時代をあらわしています。
上代語のチ(tsi:@)が平安時代に(ti:A)となる摩擦音化は東国語のほうが一歩先んじていたと考えると、東国語の「父」の発音はtiti(Aより)であったと考えることができます。そのため上代語でtsitsi(@より)をチチ、東国語でtiti(Aより)はシシと表記されたのです。
問題2.「雀」の鳴き声(しうしう)
いま述べた「父」における上代語チと東国語シの表記上の違いは中世に「すずめ」の鳴き声の表記が「しうしう」から「ちうちう」に変るという変化にも見られます。(亀井氏の考えはこちら、新しい考察はこちら)
上代以前 上代 中世以前 中世 現代
タ行のチ:---------→tsi@----→tiA----→tiB----→tiB
表記 チ シ チ チ
サ行のシ:tsi------→tiA----→tiC-----→iC----→iC
表記 シ シ シ シ
つまり上代語のチ(tsi:@)がti(シ:A)を経て中世にti(B)へと変化し、またサ行のシ(ti:A)もi(C)へと変化しました。雀の泣き声は中世以前にシウシウ(tiutiu:A)と表記されていたのですが、シ(ti:A)がi(C)に変化したため雀の泣き声の中世以前の表記シウシウ(tiutiu:A)と変化後のシウシウの音(iuiu:C)とでは音の差がおおきくなりすぎ、中世にチウチウ(tiutiu:B)と表記しなおされたのです。つまりここでもtsi-→ti-→tiと中世ころ喉頭化音()が消失したことが原因で雀の泣き声の表記が「しうしう」から「ちうちう」へと変わったのです。
問題3.同い年
「同じ年」のことを口語で「おないどし」(同い年)といいますが、その変化は次のように考えることができます。
上代以前 上代 中世ころ 現代
ont----→ona----→onai------→onai
オナジ オナジ オナジ
中世以前 中世ころ 現代
ont+to---------→onaidoi----→onaidoi
オナシ トシ オナイドシ オナイドシ
*ここでは連濁の変化を起こす原因として語末鼻母音(上代以前のont)を考えてあります。
つまり中世までにオナシとトシの複合語が作られ、そのオナシのシが中世にサ行イ音便化した(t-→)ためにその表記がオナシからオナイになり、またトシは連濁を起こしたために複合語オナイドシができたのです。またオナシは上代に連濁を起こしたためにオナジと表記されて現在に至り、「おないどし」(同い年)と「おなじ」(同じ)という両語が存在することになったのです。
問題4.「広重」のもじり(色重)
浮世絵師の歌川広重(1797-1858)が自分の名のもじりとして「色重」を使っていたそうですが、その理由として「広重」(iroie)と「色重」iroie)の音が近かったからであるという解釈を提出しておきました。(以前の考察はこちら。小松氏の考えはこちら)その考えは次のように表わすことができます。
上代 中世 現代(東京方言) 現代(大阪方言)
イ音:i@-----→i@----→i@-----------→iA
表記 イ イ イ イ
ヒ音:pfiB----→iC----→iC-----------→hiD
表記 ヒ ヒ ヒ ヒ
*:喉頭化音//、:硬口蓋摩擦音//、h:声門摩擦音/h/。
*例(「人」):to、ito、hito(それぞれ東京方言、京都方言、大阪方言)(平山輝男編著 平成5:4291,4292,4292)。アクセントは省略。
つまり「広重」の当時の音はiroie(ヒロシゲのヒ:C)で、そのヒであらわされる音(i)に近いものとしてはi(イ:@)だったのです。つまり歌川広重が生きていた時代、iroie(ヒロシゲ)とiroie(イロシゲ)の音は近かった(似かよっていた)ため、広重は自分の名のもじりとして「色重」を使ったのです。
問題5.馬のいななきのイ
上代では馬のいななきをイであらわしています。しかし馬の鳴き声が古代ではイ、現代でヒヒン(ヒの重複と語末の鼻音)であらわされるのは何故なんでしょうか。「馬の鳴声には古今の相違があろうと思われないのに、これを表わす音に今昔の相違があるのは不審」(橋本進吉 1980:7)といえば不審です。(以前の考察はこちら)
そこでここでも喉頭化音()を考えると、語頭のイの変化は次のように考えることができます。
上代 中世 現代(東京方言)/(京都方言)
イ音:i@-----→i@----→i@/iA
表記 イ イ イ/イ
ヒ音:pfiB----→iC----→iC/hiA
表記 ヒ ヒ ヒ/ヒ
*東京方言と京都方言の喉頭化音()の有無についてはこちら。
上代には馬の甲高い鳴き声を喉頭化音()のあるイ(i:@)で表わしていたのですが、そのイ音は中世以後京都方言では喉頭化音()を失ない現代のイ(A)になりました。そして語頭のハ行のヒ(pfi:B)も中世以降i(C)に変化したため喉頭化音のないイ(i:A)では馬の鳴き声の甲高さを表現できなくなったため、より音の差の小さいヒ(i:C)で代用したためです。つまりこのような理由から馬の鳴き声が古代ではイ(i:@)、近世以降ではヒ(i:C)で表わされたのです。橋本氏が「…国語の音としてhiのような音がなかった時代においては、馬の鳴声に最も近い音としてはイ以外にないのであるから、これをイの音で摸したのは当然といわなければならない。」(橋本進吉 1980:8)と考えられたのは古代音のイ(i:@)と喉頭化音のないイ(i:A)を同じに考えていたための誤りといわねばならないでしょう。
*筆者注:「インといわず、ただイといった」(橋本進吉 1980:8)のは古代の語尾は鼻母音であり、その語末鼻音が表記されなかったためです。
問題6.雨(あめ)と春雨(はるさめ)
ところで子音sの挿入と考えられている「雨」と「春雨」の二重語についても喉頭化音()を考えることでうまく説明することができます。まず通説を引用しておきます。(それぞれ上代語辞典編修委員会編 1985:601)(以前の考察はこちら)
「はるさめ乙[春雨](名)春の雨。サメは速雨ハヤサメ・村雨ムラサメなどのサメと同じく雨の意。・・・(例は省略)・・・【考】ハルサメはハルとアメとの複合名詞構成の際に母音重複を避けるため、子音[s]を挿入したものと解される。なお、サメが古形という説もある。→こさめ」
*筆者注:上代特殊仮名遣いは「乙」で表わしました。
ところで上に引用した「母音重複を避けるため、子音[s]を挿入したもの」という考えにはこれといった根拠があるわけではありません。このようなつじつまあわせの考えよりも「サメが古形」という考えのほうに一理があるでしょう。
つまり次のような変化を考えることができます。
上代以前 上代 中世 現代(京都方言)
サメ:tame@---→tame@---→tameA---→ameB---→sameC---→sameC
表記 サメ サメ サメ
アメ:tame@----→ameD--------------------------→ameD----→ameE
表記 アメ アメ アメ
このように上代のサメ(tame:@)はその後喉頭化音()が消失しtame(A)-→ame(B)-→same(C)に変化し、また上代までにtame(@)からame(D)に変化していたアメはその後喉頭化音()が消失しame(E)へと変化したのです。つまり上のような変化を考えるとアメとサメが二重語であることを無理なく説明できるでしょう。
問題7.「稲目」(いなのめ)、「細竹目」(しののめ)、稲光、稲つるび、稲妻
二重語アメ・サメと同じような変化を考えると、イネ(「稲」)と「荒稲あらしね/み志禰みしね」(上代語辞典編修委員会編 1985:361)のシネが二重語であることを次のように無理なく説明できるでしょう。
上代 現代
シネ:tine----→tine----→tine----→ine
表記 シネ シネ シネ
イネ:tine----→ine---------------→ine
表記 イネ イネ
さて上のような変化を考えると「稲」と漢字表記されてきた意味不詳の「稲目」(いなのめ)、「稲光」、「稲いなつるび」、「稲妻」、そしてそれに関係する「細竹目」(しののめ)の言葉を正しく解釈できます。まずそれらの言葉の意味を紹介します。(上代語辞典編修委員会編 1985:87-8,362,88)
「いなの乙め乙[稲目]未詳。稲藁をあらく編んで住居の壁にし、採光・通風の用とした、その編み目という説もある。(改行)
いなの乙め乙の乙 枕詞。明ケ去ルにかかる。かかり方未詳。「相見らく飽き足らねども稲目いなのめの明けさりにけり舟出せむ妻」(万二〇二二) 【考】(諸説は略)類語シノノメは、万葉では、「小竹之眼」「細竹目」と記され、これと「稲目」と考え合わせるとき、両者は、おのおの文字通り、小竹シノノ目、稲ノ目で、原始的住居に、篠や稲を粗く織った採光・通風の窓がわりのむしろ、そのすきまなどの意かといわれる。・・・・・(後略)」
「しののめ[細竹目](名)未詳。篠を編んで作った簾のようなものをいうか。・・・・・(以下略)」
「いなび甲かり[流電・雷電](名)いな光り。電光。・・・(略)・・・「雷イナビカリ、イナツルビ、イナヅマ」(名義抄)」【考】第二、五例の別訓イナツルビのツルビは絡ツルムことで稲の成長と関係づけた古代信仰による命名かという。」
ところで上に引用した「しののめ」のシノの母音交替形(/a)を考えるとシナになります。そして先の二重語シナ(「荒稲あらしね/み志禰みしね」・イナ(「稲」)と同じような変化を考えると二重語イナが考えられます。そこでシノノメとこのイナからできたイナノメとの共通性からイナノメを「採光・通風の窓がわりのむしろ、そのすきまなどの意」と考えることが可能となります。しかし枕詞の「いなのめの」が「明ケ去ル」にかかっていることを重くみればシノノメに「窓のすきまの意」とする解釈にはしたがうことができないでしょう。そこでこのようなあたりさわない解釈はやめて、村山氏のシノノメとイナノメに対するすばらしい考えを次に紹介します。(村山 1988:210)(引用のはじめはこちら)
a)「シノノメ」:発光天体(シナ)の目(メ)(-→「太陽」・「月」)-→夜の明け方
b)「イナノメ」:発光天体(イナ)の目(メ)--→「太陽」------→夜の明け方--→「明け」にかかる枕詞となる
*「イナノメ」には「シナノメ」からのs音消失の変化を想定してあります。
*村山氏はシナ>シノ、また*nt'ia>*ina>inaの変化を考えられておられます。(村山 1988:210)
*村山氏の考えを筆者が上のようにまとめました。
つまり先のサメとアメの二重語の変化と同じようにtina(シナ:発光天体シノの母音交替形)-→ina(イナ)-→ina(イナ)の変化を考えれば、村山氏のシノノメ・イナノメが「発光天体の目」からの語義変化であるという考えのすばらしさがみえてくるでしょう。そしてこのようにイナ・シノを発光天体と考えればイナノメが「太陽」へ、そして「夜の明け方」へと語義転化し、そのことから「明け去る」にかかる枕詞となっていることもすなおに納得がいくでしょう。そしてまた「稲」の漢字であらわされる「稲光」「稲絡び」「稲妻」の語源もそれぞれ「発光天体の光」「発光天体が絡ツルむこと」「発光天体の連れ合い(つまり光)」と考えることができるでしょう。
四段活用動詞の連用形は平安時代以後イ音便化していますが二段活用動詞の連用形にはイ音便がみられません。この四段活用と二段活用の変化の違いを動詞語幹母音の音質の違い、つまり上代特殊仮名遣いの甲類・乙類の違いがイ音便のあるなしに影響したという考えを以前の考察で示しておきました。そこでここではイ音便化する四段活用動詞についてもう一度考えることにします。
まずこの問題を考えるために現代のカ行のキがどんな音であるかを見てみることにします。(それぞれ今田 1989:34,M.シュービゲル 1982:73)
「「カ,キ,ク,ケ,コ」の[k]は後続の母音の舌の位置により多少影響を受けるが,「キ」の場合,つまり母音「イ」[i]が続くときはその影響が著しい。「柿(かき)」をゆっくり発音してみれば,「カ」よりも「キ」の子音の方が前寄りの音であることが分かる。
「キ」の場合だけに限らず,どの子音も[i]の前では舌が硬口蓋の方向,つまり[i]を発音する用意をしながら盛り上がる。「キャ,キュ,キョ」ではどうであろうか。調音の位置は「キ」の場合とだいたい同じである。このように拗よう音の場合にも同じ現象が起こる。この現象を(硬)口蓋化と呼び[kj],[],[]などで示す。・・・(以下省略)・・・」
「<日本語の「キ」[ki]の[k]は硬口蓋で,「コ」[ko]の[k]は軟口蓋で発音する>。」
このように現代のキの音は硬口蓋化しているのですが、歯茎音(/t/)と軟口蓋音(/k/)の硬口蓋化については次のようなことが知られています。(M.シュービゲル 1982:73)
「([t]と[k]の追補)硬口蓋した[t]と[k]は調音点が非常に近づいているので,――中でも[k]は明るい環境(前舌母音の前)では前方に移動する。――時々[k]が[t]に置き換えられたり,逆に[t]が[k]になったりする場合が見受けられる。・・・・・(フランス語の例、ラテン語の[k]の変化は省略)・・・・・硬口蓋化した[]は硬口蓋化した[]となり,それから破擦音の[t]もしくは[ts]になった。なおフランス語の[ts]はさらに[s]になったのである。同じ過程を経て,古代英語のcin,cild,dcの[k]が現代英語のchin,child,ditchの[t]となった。[in],[ild],[di:];[tn]<顎>,[tald]<子供>,[dt]<みぞ>。」
上の変化は次のように表わすことができるでしょう。
([k]--→)[]--→[]--→[t]/[ts]--→([])/[s]
*:硬口蓋化したk。:硬口蓋化したt。t:硬口蓋歯茎破擦音(/t/)。ts:歯茎破擦音(/ts/)。s:歯茎摩擦音(/s/)。
*( )内の[k](軟口蓋摩擦音(/k/)、[](硬口蓋歯茎摩擦音(//))は筆者で追加しました。
この変化は以前「タ行の破擦化について」で考察したt-→t/ts-→/sの後半部分の変化と同じものであることがわかります。つまり古代のキの変化を次のように考えることができるでしょう。
ki--→i(=kji)/i(=tji)--→ti--→i
*「硬口蓋化した[t]と[k]はp.80に述べた硬口蓋子音[c]と合致する。」(M.シュービゲル 1982:73)
*「實在の口蓋化子音はその前後,ことに出わたりに[j]式のわたりの聞えるのが普通で」(服部 1951:135),k/tの口蓋化子音は[]/[]のように鉤印か、[kj]/[tj]のように[j]を添える。(この後項は服部 1951:134を参照しました)
ところでこの口蓋化の琉球方言での現われは「琉球語の母音組織と口蓋化の法則」(伊波普猷氏:昭和5年)によって知られるようになりました。そこで琉球方言の口蓋化がどんなものであるかを次にみておきます。(伊波 1974:26)
「両形の対立してゐない、鬼界及び沖永良部の方言には、沖縄方言と等しく、口蓋化(若しくは湿音化)の現象があり、就中鬼界方言では、口蓋化しない場合には、オ列から来た「k+u」・「t+u」等の子音(ku'kuru心こころ・tu'chi時とき)が、原価を保存するに反して、在来のウ列の「k+u」・「t+u」等の子音('ku'chi口くち・'tu'chi月つき)は無気音化し、同様にエ列から来た「k+i」・「t+i」等の子音(ki'ta桁けた・ti:手)が原価を保存するに反して、在来のイ列の「k+i」・「t+i」等の子音('kidzu傷きづ―小野津、chidu傷きづ・'ti'tu一つ―早町)は、無気音化し、さもなければ、口蓋化するので、これで両列の混同が避けられるわけである。・・・・・(以下省略)」
*故伊波普猷氏の言語学の業績については「言語学者としての伊波普猷」(中本 昭和51:230-255)に詳しい。
またこの口蓋化はオモロ時代にも次のように見られます。(伊波 1974:38)
「なほこれより以前のもので時代の判然わかってゐるオモロ中に、口蓋化した例を求めると、初めて明に通じた中山王察度を謳った、十四世紀中葉のオモロに、「なち∩やる」(産なし°たる)・「おち∩やる」(置き°たる)の二語が見えてゐる。前者は「し」の影響で、「た」が口蓋化すると同時に、二音節が結合して、「ちや」に約つたもので、エ列から来たものと区別する必要上起つた、所謂口蓋化の例にはならないが、後者は在来のイ列の「き」が口蓋化した結果、「た」が同化されると同時に、二音節が結合して、「ちや」に約つたもので、所謂口蓋化の例と見ることが出来る。これで見ると、eがiに合併したのは、かなり古いやうにも思われる。」
*筆者注:「なち∩やる」「おち∩やる」の「∩」は「ちや」の上部を括弧で結んだ記号のかわりに使用しました。
つまり14世紀ころ琉球の首里方言では「おきたる」-→「おちやる」のようなキの口蓋化(ki→ti)が起こっていたことがわかります。そしてこの口蓋化は現在の沖縄方言の四段活用動詞の連用形に次のようにみられます。「書き」の琉球方言形(一部)を引用しておきます。(中本 1990:それぞれ471,477,487,490,493,496,498,499)
奄美(宇検村湯湾):kaki
沖縄(国頭) :hati
(那覇) :kati
宮古(平良市西里):kak
(来間島):kats
八重山(石垣) :kak (竹富島):kai
与那国島 :kati
*与那国方言ではki(軟口蓋音)-→ti(歯茎音)まで変化しています。
上のように琉球方言でもキの口蓋化がみられるので「置き」の現代東京語、琉球語(那覇方言)のそれぞれの変化を次のように考えることができるでしょう。
上代以前 上代 平安 中世 現代
現代東京語 :oki------→oki---→oi-------------→oi-------→oi
表記 オキ オイ オイ オイ
オモロ時代 現代
沖縄那覇方言:oki------→oki(---------→oi)----→oti------→uti
表記 オチ ウチ
*「u=cu@(他=ka,=ci)@置く。A(・・・して)おく」(国立国語研究所編 昭和51:540)
上のような変化を考えると、まず本土方言が平安時代にoki-→oiのようにイ音便化し、那覇方言はオモロ時代ころ破擦音化(oi-→oti)したと考えることができます。つまり東京方言はイ音便化(i)したのに対して、那覇方言は「置き」のキが口蓋化(i)して、破擦音化(ti)したため現代音がそれぞれオイ・ウチと異なってしまったのです。
問題9.形容詞の連用形(高く)、終止形(高し)、連体形(高き)
形容詞の連体形・終止形は平安時代以後、次のように変化しています。
連用形:高く---→高く(共通語)/高たこう(京都方言)
連体形:高き---→高い
終止形:高し---→高い
この変化もいままで考えてきたように各形の語尾の口蓋化(破擦音化)を考えると、すなおにその変化が解けます。
上代 平安 現代(京都方言)
連用形:takau----→takau----→takau----→tako:
表記 高ク タカウ タコウ
連体形:takai-----→takai--------------→takai
表記 高キ タカイ タカイ
終止形:takati----→takai---------------→takai
表記 高シ タカイ タカイ
*注:語基「高」に接尾語tiが接尾したと考えると、「高き」(連体形)と「高し」(終止形)の変化をそれぞれ次のように考えることができると思われます。
連体形:takai(<高+ti)-→takai(高き)-→takai(高い)-→takai(高い)
終止形:takai(<高+ti)-→takai------→takati(高し)-→takai(高い)-→takai(高い)
問題10.「カイ」(櫂)はイ音便の最古例か
古代日本語には「…母音音節は、語頭にしか立てない」といういちじるしい特徴がありました。しかし次の引用からわかるように例外中の例外として「カイ」(櫂)という語が上代には存在していたことがわかります。(《日本語の歴史》編集部編 昭和38:312-3)
「(前略)つまり、イカ(烏賊)という語はありえても、カイという語はありえないはずなのである。ところが事実は、《万葉集》に「櫂かい」が「加伊」という万葉仮名で一ヶ所にとどまらずでてくる。…(中略)…」
ところでこの「カイ」(櫂)と同源と考えられている語には「カ」「カキ」「カヂ」があるので、次に「カイ」とともに引用します。(それぞれ上代語辞典編修委員会編 1985:172,172,176,197)
「か【梶】(名)かじ。舟を動かす櫓や櫂の類。複合した例しかみえない。「舟を浮け据ゑ八十ヤソ加か貫き可子カコととのへて」・・・(以下省略)」
「かい【楫・櫂】(名)かい。舟を動かす道具。ふなばたに掛けて舟を漕ぐもの。・・・(省略)・・・「楫倭言加伊かい」「櫂倭言加地カヂ」(華厳音義私記)・・・(省略)・・・【考】母音の連続が極端に避けられた上代語にあって、語頭以外にア行音の現われるのは珍しい。沖つ=・辺つ=・真=→か【梶】・かぢ【梶】」
「かき 動詞につく接頭語。動詞掻カクの連用形が接頭語化したもの。指先でする動作を表わす動詞に接することが多く、原義を幾分残しているものもみられる。・・・(例、省略)・・・【考】「皇子攘カイハツリレ臂ヲ按レ剣奏言」(天武紀元年)「攪加伊奈也須カイナヤス也」(新撰字鏡)などは、カキの音便形であろう。「海人舟にま楫カヂ加伊カイ貫き」(万三九九三)のカイも同じものか。・・・(以下略)」(筆者注:特殊仮名遣いの甲類の棒「―」は省略しました)
「かぢ【梶・■・櫂】(名)ろ。かい。今いう舵とは別である。・・・(省略)・・・カヂ・カイ両語の間の意味の違いは未詳。・・・(以下省略)」(筆者注:■は楫に「ほこづくり」(戈))
ところでこのような語の存在から「かい」「かき」「かぢ」は語基がカ、そしてその語基に接尾語イ・キ・ヂがそれぞれついたものと考えることができます。(以前の考察はこちらとこちら)。しかし「かい」を「掻く」のイ音便と考えると「かぢ」との関係をどう考えればいいのでしょうか。そしてなによりもイ音便は平安時代以降に起こった新しい変化といわれているのでイ音便が上代に起こったとすればこれは異常なできごとです。そして「…母音音節は、語頭にしか立てない」という上代語の特徴をこわしてまで語尾に(kaiの)i音が存在することをどのように説明すればいいのでしょうか。
このようにカヂ・カイの両語をうまく説明するのは難しいのですが、ここでも今までの考察が役に立ちます。「掻き」の語尾キの口蓋化、その後の破擦音化を考えると、次のような変化が考えられます。
上代 現代
カヂ:(kaki----→katsi----→)kadzi----→kai
表記:(カキ カチ) カヂ(加知) カヂ
カイ:(kaki---------------→)kai-------→kai
表記:(カキ カイ(加伊) カイ
*上代以前には文字表記がなかったので当然ながら( )内の振り仮名はありませんが、わかりやすくするために振り仮名を打ってみました。
*「加知」「加伊」は上代における表記です。
*kaki-→katsiへの変化はこちら。
上のような変化を考えると「掻く」の連用形カキとカヂ、そしてまたイ音便化したカイの三語が同源であるということや平安時代ではなく上代にイ音便(カキ→カイ)が起きているようにみえる理由も無理なく説明できるでしょう。そのうえ「古代日本語では母音が二つ連続することを徹底して避けるという特性があり」という上代語の特徴を破る例外中の例外としてみられてきた「櫂」(かい)の語もその語尾音がi(CV)であることから上の規則の例外ではないことがわかります。
問題11.月立ち(つきたち)と朔日(ついたち)
上の両語も同じようにキのイ音便化として考えることができます。
上代 平安時代 現代
ついたち:tsui+tatsi----→tsuitatsi---→tsuitati
表記 ツキ タチ ツイタチ ツイタチ
ここまで中世のサ行イ音便、平安時代以降のイ音便などの変化を見てきましたが、そこにはいつも語尾のイ(i)が見られました。そこでこのイ(i)の存在を中世から平安時代、そして上代以前と過去にさかのぼっていけば上代特殊仮名遣いとの関係が見えてきます。(詳しい考察はずっとのちほどの係り結びのところで考えるつもりです)
そこでまず今まで見てきた変化を新しいものから古いものへと見てみることにします。
A.サ行イ音便(例:話して)
panati+te(話し+て)---→fanaite---→hanaite(話いて)
B.四段動詞の連用形(例:「置きて」)
oki+te(置き+て)---→oite---→oite(置いて)
C.形容詞の終止形・連体形・連用形
終止形:taka+ti(高+し)---→takai---→takai(高い)
連体形:taka+ki(高+き)---→takai---→takai(高い)
連用形:taka+ku(高+く)---→takau---→tako:(高たこー:関西方言)
D.朔日(ついたち)
tsui(月)+tatsi(立ち)----→tsuitatsi---→tsuitati(ついたち)
E.「櫂」(かい)
kaki----→kai(加伊)----→kai(かい)
このようにすべての語尾にイ(i)が見られるので、上代以前に接尾語のイ(i)を仮定すると次のような変化を考えることができるでしょう。
F.「起く」(二段活用の動詞)
okui----→okui----→ok+te(起き乙+て)----→okite(起きて)
H.上代特殊仮名遣いイ乙・エ乙
「月」:tuku(尽く)+i(助詞イ)----→tukui----→tuk(つき乙)
「明け」:ak+i(助詞イ)--------→aki----→ak(あけ乙)
また二重語イネ(「稲」)とシネ(「荒稲あらしね/み志禰みしね」のシネ)の変化から助詞シとイとの相関を次のように考えることができます。
上代 現代
シ:ti----→i----→i
イ:i-----→i-----→i
つまり上代の助詞シが現代の「強調の意」の副助詞シに、また上代の助詞イが平安時代以後のイ音便や中世のサ行イ音便のイなどにつながっていると考えるならば助詞シ(とその二重語であるイ)の長い歴史をそこに見ることができるでしょう(シとイの相関についてはこちら)。そして「「し」は機能の上ではむしろ係助詞の役目を果たしたと見るべきである。」(大野 1990:1494)という考えに耳を傾けるならば上代以前には係助詞としてのシ(とその二重語であるイ)を次のように想定することができるでしょう。
上代 平安時代以降 中世
ti(係助詞シ)-→ti(助詞シ)-→i(形容詞のイ音便など)--→i(サ行イ音便)
i(助詞イ)----→i(接頭語イや助詞イ)--→(上代特殊仮名遣いや二段活用動詞語尾に変化消失)
そしてこのような想定をより過去に延ばして考えれば係助詞シが接中辞("-si-")からの変化であろうという次の考えが出てくるでしょう。(オーストロネシア語族のsi・iとの相関についてはこちら。
語基+si(接中辞)+ti--→語基+ti--→語基+ti(上代の助詞シ)--→語基+i(上代の助詞イ)
*与那国島方言のtiへの変化はこちら。
こういうふうに考えてくるとオーストロネシア語族の接中辞との関係が見えてくるでしょう。まだ考えはまとまっていません。ずっと先の更新(「係り結びについて」)で考えたいと思っています。