「ハ行音の問題」について
(1999.09.03 更新)
このページは「ハ行転呼音の問題」のつづきです。
問題2
8.中世の音図でなぜヲとオの位置が逆になっていたのか
9.ハ行転呼音になぜ喉頭化母音はあらわれたのか
10.古代日本語のどんなところに喉頭化母音がみられたか
11.ワ行音のヲはなぜ高いアクセントをもっていたのか 12.
再びハ行転呼音の変化について
通説:FV→wV→V(ただし、「ハ」はFa→waに変化し、その後変化せず)
*F:両唇摩擦音、w:半母音、V:母音
11.ワ行音のヲはなぜ高いアクセントをもっていたのか(問題2)
ハ行転呼音の変化を考えるなかで、古代日本語に喉頭化母音を想定しました。そしてそのことによって、中世からみられた音便や古代日本語の母音連接をきらう特徴などにたいして合理的な説明をあたえることができましたが、ハ行転呼音の変化にはハがワになる変化もあります。そこでハがワになる変化を解くために、ここでワ行音のヲについて考えることにします。
実はワ行音のヲは次の引用からわかるように、高いアクセントをもっていました。(山田 1990:67)
「…『字類抄』では、ただ「を」「お」の一対だけは、それぞれの中におさめた語の語頭の音が、明らかにアクセントの上でことなるものであったことが、確認された上でふり分けられていたと認められる。即ち、「を」ではじまる語は上声ではじまる語、「お」ではじまる語は平声ではじまる語であるというちがいである。…(以下省略)」
このように中世においてヲとオのアクセントは異なっていて、ヲは高く、オは低いアクセントをもっていたことがわかります。
ではなぜワ行音のヲは高いアクセントをもっていたのでしょうか。この問題を解くためには、シナ・チベット語族チベット・ビルマ語派に属するチベット語とツォナ・モンパ語のアクセントの対応が参考になります。次に引用します。(西田 1989:809)
「3) 使役態構成 チベット・ビルマ語派に属する言語には,いろいろの使役態構成が見られる。その中でもっとも中心的な形態は,接頭辞*s-による構成と,接尾助詞*-ciyによる構成である。……(中略)……
a) 接頭辞*s- この祖形s-の伝承形は,チベット語ではs-の形をもって明瞭に残るが,そのほかに,トゥルン語のs31-またはz31-,カチン語のsha-[ 31-],ja-[t 31-],ネパールのカム語(Kham)のs-,などはそれに対応する形で,チベット語以外はいずれも現代口語の中で,生産的に使われている。
まず,若干の例をあげておく。
《チベット語》
khol-ba「沸く」:skol-ba「沸かす」
hkor-ba「まわる」:skor-ba「まわす」
log-pa「帰る」:slog-pa「帰らせる」……(中略)……
《カム語》
cyu-nya「ぬれる」:scyu-nya「ぬらす」
boh-nya :sbo-nya
「こぼれる」 「こぼす」
たとえば,最後の例は,チベット文語bo-ba「流れ出る」とsbo-ba「ふくらむ」に対照され,中には両者のs-の機能が一致しないような例もあるけれども,この使役態構成のs-は,シナ・チベット祖語に遡って存在し,漢語の‘使ー’(slg>i:)に対応する形態であると考えている。そのほかのチベット語群の言語,ツォナー・モンパ語やツァンロ・モンパ語には,このs-の伝承形はもはやない。しかし,ツォナー・モンパ語に見られるpar35「燃える」:par55「燃やす」は,いまでは声調の対立のみで弁別されるが,その声調の対立は,より遡った段階にあったpar:sparの音素対立の代償であった可能性は十分にある。dar35「くっつく」:dar55「貼り付ける」も,同様に,かつてのゼロ:s-の対立を反映しているのである。(チ. byor-ba:sbyor-baを参照)。」
上の引用に基づいて、チベット語とツォナ・モンパ語を対照してみると、次のようになります。
チベット語 ツォナ・モンパ語
普通態: log-pa(帰る:低調) /par35(燃える:高昇調)
使役態:slog-pa(帰らせる:高調)/par55(燃やす:高平調)
上の比較から、ツォナ・モンパ語の使役態には前接辞s-がみられませんが、そのかわりに高い声調をもっていることから、35調(「燃える」)と55調(「燃やす」)の対立は、「より遡った段階にあったpar:sparの音素対立の代償であった」(西田 1989:809)と考えることができます。つまり語(頭)の高アクセント化は前接辞s-の消失代償によるものと考えることができます。また先ほどみたようにチベット・ビルマ語派の使役態構成の祖形*s-の伝承形はトゥルン語などでsV(Vは母音)形となっているので、前接辞s-への変化を前接辞sVの母音の無声化、その無声化母音の消失と考えることにします。つまり語(頭)の高アクセント化を前接辞sVの母音の消失とそれにともなう前接辞s-の消失代償によるものと考えると、次のような変化を想定することができます。
sV|X→s|X(→s|X)→|X(語頭の高アクセント化) *Xは語。sVは前接辞。
は無声化母音。| は前接辞と語との境界。は前接辞sVの消失をあらわす。
つまり上のような変化を考えると、語頭の高アクセント化を前接辞sVの消失代償として説明できます。そして上の変化をワ行音のヲにあてはめるとワ行音のヲが高いアクセントをもっていたことから、ワ行音のヲももとヲの前に前接辞sVが存在したと考えることができます。つまりヲの前にあった前接辞sVが上のような変化をたどり消失したため、その代償としてワ行音のヲが高いアクセントをもったと考えることができます。
この考えをまとめると、次のようになります。
sVwo→swo(→swo)→wo(ヲは高調)
*上のsVは奈良時代にみられた係助詞ゾ(副助詞シ)と同根です。ずっと先の更新(「係り結びについて」)でこの問題をとりあげます。