「ティダ」の語源を探る


2000.04.05 更新)

 このページは前項「11.ガ行鼻濁音について」からの続きです。

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12濁音化について

 今までみてきたように日本語には有声音と鼻音の間を行き来する音韻変化がみられるのですが、それらの音韻変化は語義変化にどのように関わっているのでしょうか。このことを考えるために、連濁の起こるわけを考えることにします。
 「山」(やま)と「川」(かは>かわ)の複合語である「やまかは」とその連濁である「やまがは」の言葉を比べると、次のようになります。(上代語辞典編修委員会編 1985:768-9

やまかは[山川](名)山と川と。
やまがは[山川](名)山にある川。谷川。

 上の「やまかは」と「やまがは」の語義の違いからわかるように、連濁には次のような大きなきまりがあることがわかります。(亀井 昭和48:352

たとえば「あめつち(天地)」「くさき(草木)」「つきひ(月日)」「よるひる(夜昼)」などの例にみるように、二つのかたちが意味のうえにおけるかかわりあいにおいて対等の関係でむすばれる連語のばあいには連濁はおこらない。(以下省略)」
 *連濁にはそのほかにも連濁のあるなしの違い(例:「シラタマ」(白玉)と「アカダマ」(赤玉):亀井 昭和48:350)や畳語において連濁がいちじるしいこと(例:「クニグニ」(国々)・「サキザキ」(崎々):亀井 昭和48:354)、また複合語後音節の第二音節が濁音のときは連濁が起こらない(例:「ハルカゼ」(春風)や「アキカゼ」(秋風):亀井 昭和48:354)といった例外がみられます。連濁におけるこれらの問題は「連濁はいつ起こるのか?」のなかで考えることにして、今回は省略します。

 上の大きなきまりから「やまかは」は「山と川」、「やまがは」は「山(にあるところ)の川」と考えることができ、その違いを現在では助詞ト・ノとなっている接辞ト・ノの違いとして、次のように考えることができます。

山ト川やまかは
山ノ川やまがは

 ところで共通語のウは関西地方などの円唇母音uではなく、平唇母音http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/uu.jpgなのですが、そのhttp://ichhan.sakura.ne.jp/mark/uu.jpg[tskahttp://ichhan.sakura.ne.jp/mark/uu.jpg](使う)・[des](です:「デ」は高アクセント)(共に平山 昭和43:91)のように無声化が盛んです。これはhttp://ichhan.sakura.ne.jp/mark/reverse_e_wave.jpg(>http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/reverse_e.jpgu)>http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/uu.jpgと変化したためと考えられるので、この無声化への変化を接辞ト・ノにあてはめるとつぎのようになります。

thttp://ichhan.sakura.ne.jp/mark/reverse_e_wave.jpg(ト)>thttp://ichhan.sakura.ne.jp/mark/uu.jpgt
n
http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/reverse_e_wave.jpg(ノ)>nhttp://ichhan.sakura.ne.jp/mark/uu.jpgn

 また前に考えたように鼻母音の音韻変化(鼻母音入りわたり鼻音濁音)によって連濁が起こっているので、これら二つの音韻変化を考え合わせると、先の接辞ト・ノの音韻変化は次のように考えることができます。

thttp://ichhan.sakura.ne.jp/mark/reverse_e_wave.jpg(ト)>thttp://ichhan.sakura.ne.jp/mark/uu.jpg→tshttp://ichhan.sakura.ne.jp/mark/uu.jpg:ツ)>t(無声化)>tッ:促音)>http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/empty.jpg(消失)
n
http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/reverse_e_wave.jpg(ノ)>nhttp://ichhan.sakura.ne.jp/mark/uu.jpg(ヌ)>n(無声化)>n(鼻音)>http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/wave.jpg(鼻母音)>-http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/nasal-n_small.jpg(入りわたり鼻音)濁音(連濁:ただし中世以後は撥音http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/nasal-n.jpg
 *ト・ノ:助詞、ツ:連体助詞(例:「天つ風」)
 *ノとヌの混同については橋本進吉 1980:71-5を参照ください。連体格助詞ヌは琉球方言にみられます。(例:[tinu:nu http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpgami](沖縄方言:「昨日の雨」。中本 1990:397

 上のような「やまかは」「やまがは」への音韻変化を仮名文字であらわしてみると、次のようになります。

やまトかはやまツかはやまかは
やまノかはやまヌかはhttp://ichhan.sakura.ne.jp/mark/ma.jpgかはやまかはやまがは
 *http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/ma.jpg:鼻母音(mhttp://ichhan.sakura.ne.jp/mark/a_wave.jpg)、:入りわたり鼻音(-http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/nasal-n_small.jpg

 つまり「やまかは」と「やまがは」の違いは接辞ト・ノの違いに基づいていることがわかります。そこでこの違いを連濁となるかならないかの違いと考え、そこに接辞ト・ノの関わりをみてみると、次のようになります。

連濁とならない(ト関係):山ト川やまかは
連濁となる   (ノ関係):山ノ川やまがは

 このように接辞ト・ノによって、「やま」と「かは」の複合語「やまかは」と「やまがは」ができることはわかったのですが、それらの語義「山と川」「谷川」のあいだに見られる明らかな違いはどのような違いと考えることができるでしょうか。
 そこでこれからこの一見して違いがわかる連濁を起こした時と起こさなかった時の語義の違いを考えるために、擬態語の使いわけを見てみることにします。(小松 昭和56:74

汗がたらたら流れる。 (たらたらと汗を流す。)
汗がだらだら流れる。 (だらだらと汗を流す。)

 上の二つの言葉の違いは「必ずしも流れる汗の量的な差ではなく、その流れ方をどのようにとらえるかというところ」(小松 昭和56:74)にあり、「浜辺を素足で歩いて、足もとにさと快く感じた白砂が、間違って口の中に入ったとたん、同じ砂なのに、ざとした、いやな感じのものになってしまうような」(小松 昭和56:74-5)違いにたとえることができます。ここで上の清音と濁音にみられる擬態語の違いの例をあげておきます。(小松 昭和56:74-5

清音−たらたら・さらさら・とろりとろり
濁音−だらだら・ざらざら・どろりどろり

 このように擬態語の「たらたら・だらだら」「さらさら・ざらざら」「とろりとろり・どろりどろり」は清音と濁音の違いによって、語義分化を起こしているのがわかります。
 ところでこのような語義分化は烏の鳴き声やドアを叩く音をあらわす擬音語にもみられます。(例は小松 昭和56:75

清音−かあかあ・トントン
濁音−があがあ・ドンドン

 ところで上にみた擬態語と擬音語にみられる清・濁音による語義の違いについては、小松氏によれば次のように分析されています。(小松 昭和56:75

清音−弱い 細かい 美しい 快い 軽い 軽快 上品……
濁音−強い 粗い  汚い  不快 重い 鈍重 下品……

 ここまで擬態語と擬音語に見られる語義分化をみてきましたが、このような語義の違いは「あのさま/あのざま」の言葉にも見られ、次のような違いがみられます。(日本大辞典刊行会編 9巻 昭和49:126

さま【様・状・方】一《名》 @人の姿や形。また、顔つきや身なり。
ざま【様・態】一《名》 (「さま(様)」の変化した語)様子、格好をののしっていう語。ていたらく。醜態。ざまあ。

 上の比較からわかるように、「あのざま」には「あのさま」にはない罵りの思いがみられ、このような意味の違いは「ほける」(惚・呆)と「ぼける」(惚・暈)のあいだにもみられます。(筆者注:いま日本大辞典刊行会編 18 巻 昭和50:123をみましたが同義反復の説明があるばかりで「ほける」と「ぼける」のニュアンスの違いにはふれてありませんでした。)このように濁音を用いた言葉には清音にはない「悪い思い」が見られ、この清・濁音によるニュアンスの違いを小松氏は「〈和、濁音に始まることが汚さの条件になっているのではないか〉」(小松 昭和56:88)と述べられています。つまりこのような擬態語の濁音に始まる言葉には清音のそれらとは違った「悪い思い」ともいえる表現価値がみられることがわかります。
 ここで上の表現価値とはまた違ったものがみられる「いつ」と「いづ」の言葉を比べることにします。(上代語辞典編修委員会編 1985:80-1

いつ[何時](代名) 時に関する不定称。いつ。
いづ[何]  (代名) 場所に関する疑問代名詞。どこ。いずこ。

 上の「いつ」と「いづ」の言葉の違いに対しては、次のようなことが考えられています。(上代語辞典編修委員会編 1985:81

時に関する不定称イツとも元来は同じだったのが、ツ・ヅという語形の差に、時間的・空間的ともいえる意義の分化が対応するようになったのであろう。いづく・いづし・いづち・いづへ・いづら・いづれ」

 そこで上に見られる違いは、次のように表わすことができます。

いつ−時間(時に対して)
いづ−空間(向き、所に対して)

 また同じように「〜ところ」/「〜どころ」(処、所)に対しても違いがみられることは、次のような言葉の使われ方からわかります。

ところ−住むところではない。(場所)
    −彼は泣くところです。(時間)
どころ−今はそれどころではない。(排除の意。)
     それは彼の泣きどころだ。(そうであうべきを示す。)
 *詳しくは日本大辞典刊行会編 14巻 昭和50:624-6をみてください。小さい辞典でも上の違いは示してあるでしょう。

 ところで上の「ところ」と「どころ」の違いはどのように考えればいいのでしょうか。濁音ではじまる擬態語と擬音語に見られる〈汚らしさ〉とか〈いやらしさ〉、また「いつ」「いづ」にみられる「時間的」「空間的」な表現のといったものは理解しやすいのですが、「ところ」と「どころ」の違いは少し複雑で一言でいいにくいものがあります。
 さてここまで清音・濁音の違いによって起こる語義の違いを色々みてきましたが、これらの違いがどのような違いと考えられるかを探るために連濁によってできた「ときどき」の言葉をみてみることにします。(上代語辞典編修委員会編 1985:489

「ときどき[時時](名) @その時その時。一定の時ごとに。… A折折。時折。副詞としても用いられる。【考】日葡辞書によると、トキドキ・トキトキの二形があり、前者はときおり・ときたまの意であるが、トキトキは時を定めて・その時その時に、という意味の別があった。(以下省略)
 *甲乙類の記号は省略。

 上の考察からわかるように「ときとき」と「ときどき」の違いは、次のようにあらわすことができます。

ときとき−時を定めて・その時その時に。
ときどき−ときおり・ときたま。

 このように古代ではまだ語義の分化をおこしていなかった「時時」(ときどき)の言葉も中世では「ときとき」と「ときどき」では語義の分化をおこしてニュアンスが違ってきています。つまり「ときとき」と「ときどき」は同じ時の繰り返しを示す言葉であっても、「ときとき」は繰り返し起こるところの時を「指し示し」、それに対して「ときどき」は繰り返し起こるところの時の「繰り返し」に用いられるといった違いがみられます。そこでこの違いをまとめると、次のようになります。

ときとき−(繰り返し起こる時の)指し示しに
ときどき−(繰り返し起こる時の)繰り返しに

 このように上の連濁をおこした「ときどき」のことばには「繰り返し」の意義がみられたのですが、連濁にはそのほかにもまた違った意義がみられます。その違いを、次の言葉でみてみることにします。

くろ(黒)−くろぐろ(黒々:強調)
くに(国)−くにぐに(国々:重複)
こり(懲り)−こりごり(懲り懲り:副詞・形容動詞)

 上の比較からわかるように、「くろ」「くに」「こり」が状態そのものを表わしているのに対し、「くろぐろ」は「はなはだしく黒いさま」を、「くにぐに」は「あの国、この国。諸国。各国」を、また「こりごり」は「ひどく懲りるさま」をあらわしていて、ここでも語義の違いが連濁の有る無しの違いに対応しているのがわかります。
 さてここまでみてきたように濁音に始まる言葉にも、また連濁においても語義の分化がみられます。つまりこのような語義の違いは清音・濁音の違いによって起こっていると考えることができます。そこで上にみられる清・濁音と語義分化の関係をまとめると、次のようになります。

清音−状態をあらわす
濁音−情態・汚さ・罵り・強調・繰り返しなど

 このように清音と濁音の違いによって、語義に色々な違いが出てきているのがわかりましたが、その違いを状態性と動作性の違いとしてとらえてみると、次のように表わすことができます。

清音−状態性を表わす
濁音−動作性を表わす
 *語頭で濁音。語中・語尾では連濁。

 このように日本語には清音と濁音の違いが語義分化に極めて深く関係していることがわかりました。そして日本語の清音と濁音はそれぞれ無声閉鎖音と有声閉鎖音として考えることができるので、上の語義分化を形式化すると、次のようになります。

一次語基--→二次語基
--------→C(状態性)/'(動作性)
 *C:無声閉鎖音[kt/sp]、C':有声閉鎖音[gd/dzb]
 *いまは(t→ts→s(サ行音)/dz(ザ行音)、p→h(ハ行音)/b(バ行音)と考えておきます。

 上にみられるC'の音韻変化を濁音化と呼べば、日本語には濁音化によって語基を「状態性」から「動作性」に変える現象があることがわかります。