ハ行音の問題」について


(2001.02.03 更新)

 このページは「10.古代日本語のどんなところに喉頭化母音がみられたのか(問題2)」に追補したものです。

  問題2
   8.中世の音図でなぜヲとオの位置が逆になっていたのか
   9.ハ行転呼音になぜ喉頭化母音はあらわれたのか
  10.古代日本語のどんなところに喉頭化母音がみられたのか
  11.ワ行音のヲはなぜ高いアクセントをもっていたのか
  12.再びハ行転呼音の変化について

 通説:FV→wV→(ただし、「ハ」はFa→waに変化し、その後変化せず)
  *F:両唇摩擦音、w:半母音、V:母音


追補:「ア行のエとヤ行のエの混乱の問題について」

 ア行のエとヤ行のエの混乱の問題について、これから考えることにします。まずこのよく知られているエ(衣:ア行のエ)とイェ(江:ヤ行のエ)の混乱がどのようなものであるか知るために三つの手習歌が参考になります。そこでそれらの手習歌を古いものから順に、次にならべてみます。(それぞれ渡辺 1997:70-1,72,74

1.あめつちの詞(源順家集『沓冠歌』の頭字から(911-98373歿))
 あめ つち ほし そら やま かは  (天 地 星 空 山 川)
 みね たに くも  きり むろ こけ  (峯 谷 雲 霧 室 苔) 
 ひと いぬ うへ すゑ ゆわ さる  (人 犬 上 末 硫黄 猿)
 おふせよ えのえを なれゐて    (生ふせよ 榎の枝を 馴れ居て)
  *あめつちの詞の( )内の注記は渡辺 1997:71,秋永 1990:106による。
  *語解釈(もと大矢透氏の試訓)は秋永 1990:105による。
  *「えのえ」は「榎(ア行のエ)の枝(ヤ行のエ)」。  

2.たゐにの歌(源為憲の『口遊くちずさみ』:天禄元年970年成立)
 たゐにいで なつむわれをぞ  (田居に出で 菜摘む我をぞ)
 きみめすと あさり(お)ひゆく  (君召すと 漁り追ひ行く)
 やましろの うちゑへるこら   (山城の うち酔へる子等)
 もはほせよ えふねかけぬ   (裳は干せよ え舟懸けぬ)
  *たゐにの歌の( )内の注記は渡辺 1997:72による。
  *借音漢字は省略した。

3.いろは歌(天禄以後十世紀末から十一世紀にかけての作成)
 いろはにほへど ちりぬるを  (色は匂へど 散りぬるを)
 わがよたれぞ  つねならむ  (我が世誰ぞ 常ならむ)
 うゐのおくやま  けふこえて  (有為の奥山 今日越えて)
 あさきゆめみじ ゑひもせず  (浅き夢見じ 酔ひもせず)
  *いろは歌の( )内の注記は秋永 1990:107による。
  *『金光明最勝王経音義』付載の承暦三年(1079)の識語をもつ、二つの音図のヤ行は「五音又様」では「ヤイユエヨ」、「五音」では「ヤエヨユイ」となっています。(小松 昭和56:36より)

 上の三つの手習歌と現在の五十音図を比較すると次のようになります。 

           <あ 行>  <や 行>  <わ  行>
あめつちの詞  :あいうえお  やゆえよ  わゐゑを
たゐにの歌   :あいうえお  やよ  わゐゑを
いろは歌     :あいうえお  やよ  わゐゑを
現在の五十音図:あいうえお  やよ  わ□□□をん

 つまり上の比較から十世紀頃より昔に遡れば、あ行のエとや行のエには区別があったと考えられます。そこでこの古代におけるあ行のエとヤ行のエの区別について知るために、少し長いですが次に引用することにします。(橋本進吉 1980:39-40

「・・・かように、五十音図に、発音ばかりでなく仮名も全く同じ「い」「う」「え」の三つがそれぞれ二箇所に分れて出ている。また、「天地の詞」によると同じ「え」が二つ出ている。これらはなにか発音の違いに基づくものではないかということが問題になったのであります。これについて調べたのが奥村栄実おくむらてるざねという人で、加州藩の家老の出であります。この人が『古言衣延弁こげんええべん』を作りました。これは文政十二年の序文でありますからその時に出来た書物であります。・・・(一部省略)・・・しかるに、エにあたる種々の仮名は二類に分れ、同類のものは相通じて用いるが、異類のものは互いに通じて用いない。こういうことを発見したのであります。このエの二類の別は後世の普通の仮名では書き分けないのでありますが、万葉仮名では区別があります。すなわち次の通りです。
  甲の類 衣、依、愛、哀、埃、英、娃、翳、榎、荏(これは「榎」「蝦夷エゾ」「得」等の語に用いられる)
  乙の類 延、要、曳、叡、江、吉、枝、兄、柄(これは「枝」「兄」「江」「笛フエ」「ヌエ」「吉野エシヌ」「消キエ」「絶タエ」「越コエ」等に用いられる)」

 橋本氏の上の文章からわかるように、古代には甲類のエ(「衣」で代表)と乙類のエ(「延」もしくは「江」で代表)の二つが存在したことがわかります。そしてこれらの二つのエは「あめつちの詞」のア行のエとヤ行のエに引き継がれ、その後これらの二つのエは統合され現在にいたっていると考えることができます。
 では古代の二つのエの統合はいつごろからはじまったのでしょう。そのことにふれたふたつの文章を、次に引用してみます。(それぞれ奥村 1977:247,秋永 1990:105

「・・・いわゆる太為尓たゐに歌(九七〇年の『口遊』所掲)や伊呂波いろは歌(前者よりややおくれる)では、イ(i)・エ(e)・オ(o)・とヰ(wi)・ヱ(we)・ヲ(wo)が区別されるが、ejeの対立に相当すべき文字区別は認められない。また『口遊』所掲の阿米都知あめつち詞では、ejeとの対立に該当すべき衣と江の区別が存するが、それをふまえた『源順集』(九六七年)の沓冠歌では、「江」の歌および「衣」の歌がそれぞれ、「えもいはで」「えもせかで」のごとく同一語で始まっている故、ejeの混同は、『源順集』成立時――というよりむしろ源順(九一一〜九八三年)の言語習得期から起こっていたと考えられる。これに対し、イ・エ・オとヰ・ヱ・ヲの区別についてはそのような現象が認められない。」

「・・・この歌は源順(九一一-九八三、七三歿)の家集に沓冠歌としてのるものだが、その歌ではア行のeとヤ行のjeを混同している。このことは源順編の『和名類聚抄』(九三四頃)に[e][je]の区別がないことと一致する。この他訓点本の資料その他からみると十世紀後半の天暦頃からejeの混同がひろがるようである。」

 つまり古代の甲・乙類のエの区別は「あめつちの詞」の書かれたころから統合されはじめその後「たゐにの歌」「いろは歌」と時代が下るにつれ、その区別がなくなってしまったといえます。ここでついでにその後のア行とワ行の混同、同 一音化についての考えを、次に引用しておきます。(秋永 1990:107

「では、ア行のイエオとワ行のヰヱヲの統合はいつ頃だろうか。オ[o]とヲ[wo]との混同は平安初頃から語頭音においてそのきざしをみせ、平安の末十一世紀初にはほぼ完了したようである。院政期に生まれた藤原定家(一一六二-一二四一、八十歿)は、イとヰ、エとヱの書きわけは旧草子によるとするが、オとヲの書き分けはアクセントによっていることからも知られよう。イとヰ、エとヱの混同は語頭以外に早くおこり、個別的な混同をのぞくと院政開始(一〇八六)頃より進行をはじめ、鎌倉中頃にはほぼ完了したもようである。その結果としてヱ[we]はエ[je]に、ヰ[wi]はイ[i]に、オ[o]はヲ[wo]に統合されたと思われるが、くわしくは「かなづかい」の項を参照して頂きたい。」

 さて今みてきたように、ア行のエとヤ行のエが現代のエに引き継がれてきた変化はわかったのですが、ではア行のエとヤ行のエは統合されてeになったのでしょうか。それともjeになったのでしょうか。これからこの問題を考えることにします。
 先にあげた「あめつちの詞」をみればヤ行のエ(ここでいまjeで代用)がア行のエ(ここでいまeで代用)であらわされているので、ヤ行のエがア行のエに統合されたと考えるのが自然です。そしてそれをe/je→eと表記すると、その統合されたエ(e)はそのまま現在のエにつながり、これまた自然な変化といえるでしょう。
 ところですぐ上で引用した文章の中には「その結果としてヱ[we]はエ[je]に、ヰ[wi]はイ[i]に、オ[o]はヲ[wo]に統合されたと思われる・・・」(上記より)とあります。つまり専門家のあいだではe(ア行のエ)とje(ヤ行のエ)はjeに統合し、その後we(ヱ)はje(エ)に統合されたと考えられています。ふつうに考えれば、e/je→e、その後e/we→eの変化が自然なのになぜ専門家はe/je→jeje/we→je→e)という不思議な変化を考えたのでしょうか。そこで専門家がこのような変化を考えた根拠を森田氏の文章から例とともに引用し、それを整理してみると次のようになります。(森田 1977:256-7

1.ローマ字(キリシタン)資料から
  a.「子音と結合する場合」「eに一定」
   例:qe(毛)
   「エが独立の一音節をなす場合には、エ・ヱ・ヘの別なくすべてye
   例:yenoqi(榎の木:ア行のエ)。yeda(枝:ヤ行のエ)。qiye(消え)。coye(声こゑ:ワ行のヱ)。iye(家いへ:ハ行のヘ)
  b.「ア・ヤ・ワ行に等しくYeをあて、」(『日本大文典』:1608年)
  c.「ポルトガル語のDesmayo(気絶)などと同様に発音され(二二四九頁)、イプシロン(Y)をもって発音するのが正しい(『日本小文典』一二丁表)。とも述べている。」など
2.中国資料から
  d.「エにあてた漢字は〔e〕を写したと考えられるものである。(3)
3.朝鮮資料から(『伊呂波』(1492年)、『捷解新語』(1636年頃))
  e.「エにあてたハングル‘yhttp://ichhan.sakura.ne.jp/mark/reverse_e.jpgi(4)もまた〔e〕に近いものと考えられる。これらによれば、室町時代末期のエは〔e〕ではなくて〔e〕であったと推定される。(5)
4.日本資料から(『謳曲英華抄』(1771年))
  f.「・・・かくて、室町時代末期には、〔e〕〔o〕の母音音節はなくて、それに当るのは〔e〕〔o〕であったろう。
  その〔e〕〔o〕が〔e〕〔o〕になった時期は明らかでないけれども、謡曲の伝統的発音法を教えた『謳曲英華抄』(一七七一)に、
  〇 江はいより生す、江といふ時舌に触て最初に微隠なるいの音そひてい江といはる。
  〇 をハうより生する故に初に微隠なるうの音そひて脣にふれてうをといはる。
  とある。これは〔e〕〔o〕を示しているが、・・・(途中省略)・・・すなわち、エ・オが〔e〕〔o〕になったのは、大体一八世紀の半ばごろでもあろうか。」
  *例と「 」内は引用しました。

 また次の引用にみられるように、各地の方言にもye[je])の残存が認められ、そのこともア行のエがヤ行のエに統合された(e/je→je、このjeが現在も生きている)と考える根拠の一つに数えることができるでしょう。(引用・例はそれぞれ平山 昭和58:45,64-5,p243

岩手方言:「・・・ただし,語頭のエは[je]となることがある。」
福島方言:「・・・また語頭にかぎり口蓋化した[je]および摩擦の強い[e]の現れることがある。
   [khttp://ichhan.sakura.ne.jp/mark/umlaut_uu.jpgwe] /ku'e/ 食え [je] /'e/ ,絵([e],[e]ともいう)・・・(以下例は省略)
福岡方言:「e→[je](改行)語頭,語中で口蓋化の傾向。[jegao](笑顔),[orotajeru](うろたえる)。

 このほかにも古代語「消ゆ」(ヤ行下二段活用)が「消える」(ア行下一段活用)のように活用が変化していることからも、je(ヤ行)→e(ア行)の変化を考えることができます。
 つまりこのような多くの根拠からエの古代から現代への変化を、次のように考えることができるでしょう。(小松 昭和56:310

Gqicoyeta――聞こえた。qi[ki]を、ye[je]の音を表わす。十世紀中葉にヤ行の「江」[je]はア行の「衣」[e]を吸収し、さらに鎌倉時代に入ってワ行の「ヱ」[we]をも吸収した。江戸時代にjeeという変化が起こり、現在のように単独母音の音節になった。」

 つまりこの考えはさきほど示した「e/je→jeje/we→je→e」の変化式の意味するところです。そしてこの変化式は今のところ専門家のあいだで考えられているもっとも有力な仮説(通説)です。
 さてここまで読んでこられた皆さんは現代のエ音への変化をe/je→jeje/we→je→eとすることに納得されたでしょうか。すなおに、なるほどこんな風に古代の発音を推定し、その変化を決めていくことができるのかと思わず感心されたでしょうか。言語学ってとっつきにくいと思っていたけれど、こうやって一つずつ謎解きをみせられると面白いなあと感じられたでしょうか。それとも何か釈然としないものを感じられたでしょうか。たしかに専門家が多くの根拠をもとに考えだした古代から現代への「エ」への変化(e/ye→yeye/we→ye→e:ここではjyであらわした。以下同じ。)は正しいように思われます。しかしここで上の通説にしたがってe(ア行のエ)の変化を考えてみると、それはe→ye→eのようになります。そして上の小松氏や森田氏(『謳曲英華抄』参照)の文章によれば、eからyeにかわったのは十世紀中葉、そして再びyeからeにかわったのは江戸時代(18世紀の半ば頃)ということなので、ye→eの変化はわずか500年ばかりということになります。またyeeに変化するのは音声の変化としてありそうではあっても、eyeには変化しにくいと思われます。実際e(エ)→ye(イェ)の変化とye(イェ)→e(エ)の変化を言い比べてみれば、皆さんもすぐにye→eのほうがe→yeの変化よりやさしく、つまりありそうな変化であることを実感されるでしょう。つまりもし通説にしたがえば、ア行のエはわずか500年ばかりで、ありそうもないeへの回帰を起こしe→ye→eの変化をしたとしなければなりません。専門家によっていろんな根拠から推論されたものがe/ye→yeye/we→ye→eであるといわれても、皆さんも実感としてこの変化を認めることができないのではないでしょうか。
 つまり上の通説(e/ye→yeye/we→ye→e)はまちがっているのではないかという疑念が生じます。実際このような変化はありえないと考える専門家もいます。そこでそう考える専門家の修正案を、次に紹介します。(渡辺 1997:73-4

「・・・ア行のエが亡んで一旦ヤ行一本になり、それがまたエに変化した、というのは極めて不自然な動きであって、室町時代の実際の発音では、語頭や、語中・語尾における広母音(『概説』二三ページ参照)のア、オ、に後続する位置では、母音単独のエ(ア行のエ)の方が生きていた、そして語中・語尾で狭母音に後続する位置で発音されていたヤ行のも、ア行音の仲間と意識されていた、と推定されている(柳田征司 『室町時代の国語』)。つまりア行エは亡びることなく生き続け、ア行エの仲間だと意識されたヤ行をも、遂には同化してヤ行の消滅を結果した、と考えるのがよいだろう。」
 *筆者注:はヤ行エ列音のために工夫された字(渡辺 1997:71)。

 このように渡辺氏(や柳田氏)は通説にみられるe→ye→eの変化の矛盾を解消するために、広母音・狭母音に後続する位置における相補分布を考えられました。つまりeはア・オに後続する位置ではeのまま、yeは狭母音に後続する位置でyeで、そのyeはその後eに変化したため、古代のe/yeの区別は現代のeに統合されたと考えるわけです。
 ところで皆さんはこのような渡辺氏の解決策をどのように思われますか。納得できるような、こじつけのような修正案という気がされたのではないでしょうか。
 では上の通説やその修正案はどこがおかしいのでしょうか。ここではその理由を考えるのではなく、エの不思議な変化と同じような問題がそのほかにもいくつかあるので、まずそれをみてみることにします。

1.オの変化も説明しがたい。(秋永 1990:107
2.浮世絵師「広重」のもじりが「いろしげ」となっている。
3.青谿書屋本 『土左日記』にもヤ行のエとア行のエ、またエをハ行のヘとする誤用がみられる。(神戸 平成10:134-5
 *それぞれの例:「枝」(ヤ行のエ)を「衣た」(ア行のエ)。「見江」(ヤ行のエ)を「みへ」(ハ行のエ):「見ゆ」は下二段活用)
 *注:作品成立時期は承平五年(九三五)頃(神戸 平成10:139
4.『おもろさうし』には次のような「ゑ」と「え」の混同がみられる。(中本 1990:828
  「・・・エに対応する音節は、「ゑ」で表記される。『おもろさうし』では「え」で表記される音節がない。
 (47) ゑらふ (選ぶ)
 (48) ゑれい (貰え,得れ,得よ)・・・(以下省略)」

 ここで簡単に説明しておきます。オの変化は通説ではオ[o]はヲ[wo]に統合され、その後ヲ[wo]→[o]の変化が今も進行中です(たとえばhon wo kudasai→hon o kudasai:「本をください」)。つまり通説にしたがえば、オの変化もo→wo→oであるといちおう考えられます。また上の3〜4はそれぞれの例でわかるように、そのむかし五行通用といわれたもののひとつでア・ヤ・ハ・ワ行における混同(混用)例としてとりあげることができます。そしてこの通用という、非科学的ではあっても的をついた見方は2の「広重」(ひろしげ)のもじりが「いろしげ」となっていることにもつながるでしょう。
 ところでいま上であげたオの不思議な変化やア・ヤ・ハ・ワ行における通用などをみると、それらの起こる原因を個別に考えるよりはエの場合と同じく、何か一つの共通のものを考えるほうがいいと考えられます。つまりそれらの原因、いいかえればその解決策を別個に考えるのではなく何か一つの共通の原因(解決策)を考えるとすれば、当然エの変化をe/ye→yeye/we→ye→eと考えるエの変化の通説(や渡辺氏などの修正案)は考えなおす必要があるといえるでしょう。
 ではここで通説は間違いだと考えてみると、エの変化はどのように考えればよいのでしょうか。間違いがみつかれば何事も最初にもどって考えることが大切です。そこで今までにわかっていることをもう一度整理してみると、次のようになります。

1.古代のエは甲類(衣:ア行のエ)と乙類(江:ヤ行のエ)の二種。
2.上の甲類・乙類のエは「あめつちの詞」で「え」であらわされている。
  *「えのえ」は「榎(ア行のエ)の枝(ヤ行のエ)」
3.「たゐにの歌」「いろは歌」では「え」のみ。
4.ワ行のヱ([we])はエに統合した。(鎌倉時代)
   エ・ヱ・ヘの別なくすべてye、あるいは〔e〕。(室町時代末期)
  〔e〕が現代のエ(〔e〕)になったのは大体18世紀の半ばごろ。
   岩手方言・福島方言や福岡方言の語頭にはいまもyeがみられる。

 さてこのようなことがいろんな資料からわかっているのですが、ではなぜe/ye→yeye/we→ye→eのような通説が考えだされたのでしょうか。どこにこの推論のまちがいがあるのでしょうか。これから上の通説を導きだした推論の誤りをさがしてみることにしましょう。
 まず古代に甲類と乙類の二種のエがあったのは間違いありません。そこでそれらのエをそれぞれE(甲類:ア行のエ)・YE(乙類:ヤ行のエ)と表記します。次に時代がくだり「あめつちの詞」の時代にはE・YEの区別はなくなり、その痕跡として二種の「え」がみられます。そして「たゐにの歌」「いろは歌」と時代がくだると「え」のみとなりました。つまり古代から「いろは歌」の時代までの変化をE/YE「え」とあらわすことができます。このあとのエの変化は説明の都合上、とりあえず通説で説明します。さてこの「え」は鎌倉時代にワ行のヱ([we])を統合し、室町時代末期ころにはエ・ヱ・ヘの別なくすべてye(あるいは〔e〕)となりました。(以下yeで代用)そしてそのyeは現代の岩手方言や福岡方言の語頭がyeであることから、ye→e(現代標準語のエ)の変化が考えられます。このようなエの変化をまとめるとE/YE「え」、「え」/we→ye→eのようにあらわすことができます。
 ところで通説では「え」をyeと考えているのですが、これは室町時代末期ころから外国資料だけでなく日本資料などによって、「え」の音価がyeであるとわかるようになったからです。そして通説は現代の岩手方言や福岡方言の語頭がyeであることから、ye→e(現代標準語のエ)の変化を考えたのです。つまりこのような根拠から通説ではエの変化をe/ye→yeye/we→ye→eのように考えてきたのです。
 ところでここで立ち止まってよく考えてみることにしましょう。たしかに「え」は当時の資料からyeであると考えるだけの多くの根拠があります。しかしこの通説(e/ye→yeye/we→ye→e)は当時の資料から導きだされたyeから推論して作られているのではないでしょうか。つまり通説はこのyeをもとに古代にみられた甲類(E)・乙類(YE)が「え」ひとつに統合されている事実とからめて、e(甲類のエ)/ye(乙類のエ)→ye(統合されたエ)の変化を考えだしたことです。わかっているぎりぎりの事実から推論の羽をのばすという方法は我々が頼りにしている、そしていつも使っている方法です。そして通説はこの方法を忠実に実行し、論理の筋道をたどっているようにみえ、この方法論には問題がないようにみえます。でもしかしこの通説にみられる推論の仕方は悪くいえば自家撞着ではないでしょうか。なぜなら通説は甲類のエと乙類のエがそれぞれeyeであった事実から、e(甲類のエ)/ye(乙類のエ)→ye(統合されたエ)の変化を導きだしたのではなく、統合された、そして多くの根拠から確実と考えられるyeからe(甲類のエ)/ye(乙類のエ)→ye(統合されたエ)の変化を導きだしているからです。つまりここにはとるに足りなく見えて、そのじつ見過ごすことのできない重要な問題が隠されています。皆さんはこの隠された問題が何であるかわかったでしょうか。皆さんは私のいってる話しがこんがらっているんじゃない?と思われたでしょうか。もしそうならもう一度読みなおしてください。
 さて話しを進めましょう。つまりここで問題になっていることは、上の推論から導きだしたeや当時の資料があらわすyeは本当にeyeだったのだろうかということです。あたりまえのことですが、エの変化はE/YE「え」、「え」/we→ye→eであるのです。しかしもしこの変化式にあらわれる「え」がyeでなければ通説は成り立たないことになるからです。このように考えてくると、通説の矛盾は「え」をyeと即断し、そのyeから推論の羽をのばしたことにあると考えることができます。つまりわかっているぎりぎりの事実から推論の羽をのばすという方法自体は問題はなかったのですが、そのわかっているぎりぎりの事実(ここではye)から通説は勝手に「え」をyeと即断したことにあったのです。(これはYE=yeと考え、E/YE「え」の変化をe/ye→yeと考えたということです。)
 では問題点がわかったところで、私案を提示することにして、次にその私案と通説をくらべてみることにします。

1.私案:E/YE「え」、その後「え」/「ゑ」「え」
2.通説:e/ye-→ye、 その後 ye /we--→ e

 上の私案と通説をくらべてみると、同じようにみえてそこには大きな違いがあることがわかるでしょう。そしてもし私案の「え」、つまりE・YEを見つけることが出来れば、古代から現代にわたる「エ」の変化がわかったことになります。
 さてここまで考察を進めてきたのですが、では上の「え」(つまりE/YE)はどのような音と考えればいいのでしょうか。ここでこの「え」を決定できる手がかりをさがしてみると、次のようなものがあります。

1.ア行のエ(甲類)とヤ行のエ(乙類)がセットになっている。
 *上代特殊仮名遣いのエ段(ケ・ヘ・メ・ゲ・ベ)は甲・乙の二類にわかれるのですが、ア行のエ(甲類)とヤ行のエ(乙類)はこれで一組となっていて、他行との整合性を欠いている。(詳しくは橋本進吉 1980。また大野 1974:103-6108
2.活用がヤ行からア行に変化している。
 *古代語「消ゆ」(ヤ行下二段活用)は「消える」(ア行下一段活用)のように変化している。
3.「ゆく」(行く)」・「よい(良い)」が、口語ではそれぞれ「いく」・「いい」と発音される。
4.岩手方言・福島方言や福岡方言の語頭にはいまもyeがみられる。

 上のようなことから(そして各行が二類にわかれるという整合性を認めるためにも)ア行のエ(甲類)とヤ行のエ(乙類)はもとヤ行における甲・乙類の違いであったと考えられるのではないでしょうか。そう考えるとア行のエをYE1、ヤ行のエをYE2と考えることができ、エの古代からの変化は、次のようにあらわすことができます。

YE1(甲類)/YE2(乙類)YE1(え)/we(ゑ)/he(へ)YE1(え)1(え)
 *この変化はむかしの都訛り、つまりその後裔である現在の京都方言のものです。

 さて上の変化式をみると、さきほど検討した事実としてのエの変化をうまく説明できていて、通説にみられる「え」をyeと即断したことによる矛盾を解消しているのがわかります。つまりエの変化はこれで解けたことになるのですが、ではYE1やYE2はどんな音だったのでしょうか。実際のところ、エの変化は上の通りだといわれても、ア行のエがわたり音(半母音)yをもっているので、皆さんにはすぐには納得できないのではないでしょうか。それではこれからYE1やYE2がどんな音であったのかを考えることにします。
 ところでこの問題を考えるためには上代特殊仮名遣いの知識が必要とされるので、まずそのことについて述べることにします。上代特殊仮名遣いの甲類・乙類の相違はキ、ヒ、ミ、ケ、ヘ、メ、コ、ソ、ト、ノ、ヨ、ロ、ギ、ビ、ゲ、ベ、ゴ、ゾ、ド(モは『古事記』のみ)にあり、それらの音が実際どんな音であったかについては諸説があります。少し古いものですが、橋本進吉氏の文章から引用してみます。(橋本進吉 1980:145、また大野 1974:102-108にも)

「・・・それでは実際どんな音であったかというに、諸説があって一定しないが、しかし、一つの仮名に相当する二音の中、一つだけはその仮名の現代の発音と同じもので、すなわち、イ段の仮名ならばiで終り、エ段ならばe、オ段ならばoで終る音であることは一致している。他の一つについては右の-i -e -oに近い音であることは一致しているが、あるいはこれに近い開音(それよりも口の開きを大きくして発する音)-http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/i_block.jpg -http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/e_wide.jpg -http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/open_o.jpgであるとし(吉武氏)、あるいはこれに近い中舌母音(舌のなかほどを高くして発する音)http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/umlaut_o.jpgであるとし(金田一氏)、あるいは、母音の前にwの加わったワ行拗音-wi -we -woであるとし、あるいは、イ段エ段では母音の前にy(音声記号[j])の加わったヤ行拗音-yi -yeであるとし、オ段では中舌母音-http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/umlaut_o.jpgであるとする説(有坂氏)などある。私もイ段は-iに対してi:中舌母音)、エ段は-eに対して-http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/reverse_e.jpgiまたはhttp://ichhan.sakura.ne.jp/mark/reverse_e.jpgehttp://ichhan.sakura.ne.jp/mark/reverse_e.jpgは英語にあるような中舌母音)、オ段は-oに対して中舌母音http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/umlaut_o.jpgであろうかという仮定説を立てたが、まだ確定した説ではない。」

 このように古代には各行のイ・エ・オ段に(すべてではないが)それぞれ二類(甲類・乙類)の区別があり、甲類は現代の発音と同じもので、乙類はそれに近い音であろうと考えられています。
 ところでここでローマ字(キリシタン)資料の解釈に問題点があるので、もう一度その資料を再掲します。(森田 1977:256-7

1.ローマ字(キリシタン)資料から
  a.「子音と結合する場合」「eに一定」
   例:qe(毛)
   「エが独立の一音節をなす場合には、エ・ヱ・ヘの別なくすべてye
   例:yenoqi(榎の木:ア行のエ)。yeda(枝:ヤ行のエ)。qiye(消え)。coye(声こゑ:ワ行のヱ)。iye(家いへ:ハ行のヘ)

 上の資料からア行のエ(もとア行のエとヤ行のエ)はye、ア行以外のエ段はeであることがわかります。ところでもしこのキリシタン資料の表記が正しいとすると、「榎の木」(ア行のエ:yenoqi)のエがyeであるのに、なぜ「毛」(ケ)はkyeでなく、ke(=qe)で表記されているのでしょうか。エの方言音がyeであるので、ケの母音エもyeと考えられ、つまりケもkjeであると考えるのが自然なのではないでしょうか。そしてもしそうであるならばどこかの方言音にkjeが残存していてもよさそうに思われるのですが、現実には方言音にkjeが全くみられないのです。わかりやすいように問題を整理してみます。

               キリシタン資料  標準語・方言から
「榎」(ア行のエ:甲類):ye         ye
「枝」 (ヤ行のエ:乙類):ye         ye
「毛」 (カ行のエ:乙類):ke         kye(?)(方言音にkjeが全くみられない)

 上の矛盾は次のような文章にも指摘されています。(出雲 昭和53:198

「エが他の子音と結合して音節を構成する場合には問題がある。弘治五年(一四九二)版『伊路波』では(後の『捷解新語』『倭語類解』もほぼ同様)子音と結びついて音節を構成する場合にもケは[kje]というように母音エに対して[je]にあたる諺文表記がされているのである。これについては、近似音を表わしたに過ぎずケは[ke]であったとする見解と、表記どおりケは[kje]であったとする見方とが対立している。後者の見解をとるとケウキヨウのような変化は説明しやすくなるが、[je]音が九州・東北地方に残っているのに対し、[kje]のような音はシェ以外方言音に全くみられないのが問題となる。」

 さて問題の所在はわかりましたが、この矛盾をどのように考えればよいのでしょうか。この問題を解く手がかりは上代特殊仮名遣いの甲類・乙類の相違にありますが、それをよく理解するために少し先に知っておくことがあります。
 そこでまず琉球方言の特徴としてよく知られている高母音化(e→io→u)とそれにともなう口蓋化法則(例:ki→tiなど)について、引用します。(金城 昭和19:41

「伊波先生は,この一般的現象を,口蓋化の「法則」と名づけ,沖縄方言において,「所謂五十音圖中,エ列はイ列にオ列はウ列に合併して,しかもエ列から来た子音が,原價を保存するに反して,在来のイ列の子音は,口蓋化(若しくは濕音化)」してゐる・・・(以下省略)」

 上の法則を理解しやすいように例をあげます。(服部 昭和34:303

「国語  首里語
 ke----ki(例:毛 [ki], [kihttp://ichhan.sakura.ne.jp/mark/ng.jpg]
 ki----ti(例:衣キヌ[tihttp://ichhan.sakura.ne.jp/mark/ng.jpg], [tihttp://ichhan.sakura.ne.jp/mark/ng.jpg])」

 つまり上の例では、「毛」(ke)は高母音化を起こし(e→i)ても、その子音はkのままであるのに対して、「衣」(kinu)は本来の母音を残し(i→i)、そのかわりその子音が口蓋化(k→t)しています。
 さてここで有名な言語学者であった故服部氏の奄美大島大和村大和浜方言に関する詳しい観察とその考察を引用します。(服部 昭和34:283-5:但し、引用はp284-5の部分)

「・・・本島大和村大和浜の方言で、口蓋化子音の後では前舌半広の[http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/e_wide.jpg]、非口蓋化子音の後では中舌半広の[][t][d][n]などの後では両者の中間母音が現れるので、分布の原則および同化の原則により、これらの母音は同一母音音素に該当すると解釈されると説いて来た。(この方言では、語頭に[http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpg]の現れる例があるから、この母音音素の本体は[?]であろう。)(改行)
 ・・・・(途中省略)ただし、名瀬・大和浜の方言のように、語頭に[http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpgi][http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpghttp://ichhan.sakura.ne.jp/mark/i_plus.jpg]との対立などのある方言に関しては、母音音素として/http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/i_plus.jpg/を立て(即ち、この母音音素の本体を中舌狭母音と見)、これらの語頭音節はそれぞれ/http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpgjhttp://ichhan.sakura.ne.jp/mark/i_plus.jpg/,/http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpghttp://ichhan.sakura.ne.jp/mark/i_plus.jpg/と解釈すべきであろう。(改行)
 ・・・(途中省略)しかし、喜界島小野津や徳之島亀津などの方言を見ると、首里方言で次のような音韻変化のあった蓋然性が大きいことがわかる。

  [i] /mji/ → [i] /mi/
  [mhttp://ichhan.sakura.ne.jp/mark/i_block.jpg] /mi/ → [i] /mi/
  [http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/k_j.jpgi] /kji/ → [ti] /ci/
  [khttp://ichhan.sakura.ne.jp/mark/i_block.jpg] /ki/ → [http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/k_j.jpgi] /ki/
  [i] /sji/ → [i] /si/
  [si] /si/ →  [i] /si/
   *筆者注:いま上にあげられている[http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/k_j.jpgi]/kji/→[ti]/ci/)の変化が口蓋化の変化です。

 さて上の引用から首里方言の甲・乙類ミの変化、また大和浜方言の語頭の[http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpghttp://ichhan.sakura.ne.jp/mark/e_wide.jpg][http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpg]の対立を次のようであると考えられます。

1.首里方言のミの変化           
 甲類のミ:[i] /mji/ → [i] /mi/   
 乙類のミ:[mhttp://ichhan.sakura.ne.jp/mark/i_block.jpg] /mi/ → [i] /mi/     

2.大和浜方言の語頭の対立
 [http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpge]/http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpgj/-----[http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpg]/http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpg/
  *[http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpge]は喉頭音化をともなう前舌(口蓋化)非円唇半広母音[http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpghttp://ichhan.sakura.ne.jp/mark/e_wide.jpg](ここではhttp://ichhan.sakura.ne.jp/mark/e_wide.jpgeで代用しています)。
 *[http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpg]は喉頭音化をともなう中舌(非口蓋化)非円唇半狭母音。

 上の大和浜方言の語頭の対立をもう少しわかりやすく理解するために、故服部氏の上代特殊仮名遣いのオ列とイ・エ列の違いに関する考察を、続けて引用します。(服部 昭和34:286-7

「・・・「オ列」のものは、「ア、ハ、バ」の三行を除き、すべての行に亙ってこの区別があるから、関係の諸音節は、母音音素/o//http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/umlaut_o.jpg/との区別のみによって区別づけられていたと考えることに、何らの支障がない。然るに、「キ」「ギ」「ヒ」「ビ」「ミ」「ケ」「ゲ」「ヘ」「ベ」「メ」の場合は、母音音素たとえば/i//http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/i_plus.jpg/および/e///による区別だとすると、何故これらの音節に限り母音音素が2種類あったのか、説明に困る。この困難は、次のように想定することにより除去することができる。
  甲類  /kji/, /gji/, /pji/, /bji/,/mji/
  乙類  /ki/, /gi/, /pi/, /bi/, /mi/
  甲類  /kje/,/gje/,/pje/,/bje/,/mje/
  乙類  /ke/,/ge/, /pe/, /be/, /me/
非口蓋化的[k][g][p][b][m]から前舌母音[i][e]へ移るには、当然中舌母音的なわたり音が生ずる。だから、音声的には、これら乙類の音節の母音の発音は、いきおい、有坂秀世博士の推定したi http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/reverse_e.jpgに近いものとなったのであろう。(改行)
 ・・・(途中省略)故に、/kji//ki/,/pji//pi/という音韻的対立よりも、/tji//ti/という音韻的対立の方が保たれ難く、両者が合流するか、/tji/の該当する音節の子音が破擦音に変化し/tji//ci/に移行する可能性が大きい。・・・(以下省略)」
 *筆者注:「・・・/tji/の該当する音節の子音が破擦音に変化し/tji//ci/に移行する可能性が大きい。・・・」の文章はさきほど紹介した高母音化(e→i、o→u)にともなう口蓋化法則(例:ki→tiなど)のことです。

 上の説明をもとにケの甲・乙類音を考えてみます。ところで少しまえにア行の甲類とヤ行の乙類をもとヤ行における甲・乙類の違いであったと考えてあるので、ケ段は次のようになります。

甲類:「エ」 「ケ」 「ゲ」 「ヘ」 「ベ」 「メ」
    YE1 ke1  ge1  pe1  be1 me1
乙類:「イェ」「ケ」 「ゲ」 「ヘ」 「ベ」 「メ」
    YE2 ke2 ge2  pe2  be2  me2 

 このように並べてみると甲類と乙類は整合性がみられ、甲類は現代の発音と同じもので、乙類はそれに近い音(中舌化された非口蓋化音)であるとすると、上の服部氏の甲類ケ(/kje/)と乙類ケ(/ke/)に比較することができます。そして服部氏が述べるように非口蓋化的[k]から前舌母音[e]へ移るには、当然中舌母音的なわたり音[j]が生じることになり、kekjeに変化すると考えられます。つまり甲類ケと乙類ケから甲類ケへの変化を整理すると、次のようになります。

甲類:[http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/k_j.jpge] /kje/→ [http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/k_j.jpge] /ke/
乙類:[ke] /ke/→ [http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/k_j.jpge] /ke/    

 ここで甲類のケが[http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/k_j.jpge]になっているのは、現在のケ音を観察するとそのことがよくわかります。(それぞれM.シュービゲル 1982:73,服部 1951:102

1.「・・・<日本語の「キ」[ki][k]は硬口蓋で、「コ」[ko][k]は軟口蓋で発音する>。」

2.「日本語の「カ行音」「ガ行音」の子音も調音點が一々異る。東京方言では大體次のようであろう。
  「キ」(h)、「ク」(hi)、「ケ」(ih)、「カ」(i)、「コ」(ij
私の發音では次のようである。
  「キ」(hg)、「ケ」(hi)、「ク」(ih)、「カ」(i)、「コ」(ij
これらの子音は簡略記號ではいずれも[k]で表わされる。・・・(以下省略)」
 *筆者注:上のghi・jはそれぞれ硬口蓋・高口蓋・軟口蓋(前)・軟口蓋(奥)で発音することをあらわす。(服部 1951:32:第5圖)

 つまり「ケ」は硬口蓋よりに発音されるため、上のように乙類[ke]→甲類 [http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/k_j.jpge]の変化を起こしたと考えられます。このようなことがわかると、もと甲類と呼ばれたケは少し口蓋化された[http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/k_j.jpge]/kje/)であるので、『伊路波』で母音エに対して[je]、またケに対して[kje]のような諺文表記がみられることは当然といえます。少しわかりにくいのですが、このような資料に対して問題点があると考えたのは、乙類([ke]/ke/甲類([http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/k_j.jpge]/ke/)の変化を考えず、そのうえ「ケ」が硬口蓋で発音されていることを見逃したことによるものといえます。
 さてこのように考えてくると、YE1(甲類)とYE2(乙類)とそれらの変化を、次のように考えることができます。

              ヤ行のエ---→ア行のエ---→現代のエ
YE1(ア行のエ:甲類):[http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpgje]
YE2(ヤ行のエ:乙類):[http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpge]―――-→[http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpge]-------→[e]
 *[e]は現代標準語音のエ。[je]は口蓋化されたエ

 つまり古代から現在までのエの変化は、次のように考えられます。

http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpgje(E:甲類)/http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpge(YE:乙類)http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpge(え)/we(ゑ)/he(へ)http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpge→e(え)

 もう少しわかりやすくエの変化(私案)をまとめておきます。

1.古代(甲類:乙類)     :http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpgjehttp://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpge
2〜3.「いろは歌」までに   :http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpgje/http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpge→http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpge
4.鎌倉時代ころ        :http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpge/we→http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpge
5.室町時代末期        :http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpge/we/he→http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpge
6.18世紀の半ばごろより現在:http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpge1→ee1は標準語のエ:[]
 *岩手方言・福島方言や福岡方言の語頭はいまもye
 上代特殊仮名遣いでは乙類のエは非口蓋的なエとみられていて、ここで乙類のエをhttp://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpge、またワ行のエをweとするのは問題があります。その後の考察(これもまだ未完ですが)は「母音融合に対する大野説を疑う」(2014.12.15)に書きました。

 このようにエの変化をうまく説明することができましたが、エの不思議な変化と同じような問題(1〜4)のほうも問題がないかみておきましょう。もう一度引用し、それを箇条書きにすると、次のようになります。 

1.オの変化も説明しがたい。(秋永 1990:107)  
2.浮世絵師「広重」のもじりが「いろしげ」となっている。
3.青谿書屋本 『土左日記』にも誤用がみられる。(神戸 平成10:134-5
4.『おもろさうし』にも「ゑ」と「え」の混同がみられる。(中本 1990:828

 これらの問題も喉頭化母音http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpgVから現在(普通)の非喉頭化母音Vへの変化を考えることによって、うまく説明することができます。それらの検討を箇条書きにしてみます。

1.「オの変化」は通説によると(o→)wo→oですが、これも喉頭化母音http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpgo[http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpgo])を考えると、http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpgwo→http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpgo→oと変化したと考えることができます。(詳しくは、「中世の音図でなぜヲとオの位置が逆になっていたのか」をみてください。)
2.「広重」のもじりが「いろしげ」であることは、その当時http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/palatal_h.jpgiroihttp://ichhan.sakura.ne.jp/mark/ng.jpge(「ヒロシゲ」)とhttp://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpgiroihttp://ichhan.sakura.ne.jp/mark/ng.jpge(「イロシゲ」)の音が近かった(似かよっていた)ため、広重は自分の名のもじりとして「色重」を使ったと考えることができます。(詳しくは、「「色重」の名をもじり」をみてください。)
3.「枝」(ヤ行のエ)を「衣た」(ア行のエ)と表記したのは[http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpge](ヤ行のエ)がhttp://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpge(ア行のエ)と音が似ていたためです。また「見江」(ヤ行のエ)を「みへ」(ハ行のエ)で表記したのは[http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpg](ヤ行のエ)がhttp://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpge(ハ行のヘ)と音が似ていたためと考えることができます。
 *参考:「・・・(承平五年(九三五)頃)と、一般にejeが統合したと言われる時期(一〇世紀半ば頃)とがきわめて近接していることが注意された・・・(以下省略)」(神戸 平成10:139
4.「ゑ」と「え」の混同(ゑらふ:「選ぶ」)もワ行音の変化(1を参照)とおなじように考えることができます。

 いまエの変化(私案)をhttp://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpge/we/he→http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpge(鎌倉時代〜室町時代末期)、http://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpge→e18世紀の半ばごろ〜現代まで)と考えましたが、まだ解決すべきことがあります。たとえば上のweheはなぜhttp://ichhan.sakura.ne.jp/mark/glottal.jpgeに統合したのか?これはワ行音やハ行転呼音の変化(特にハをのぞくハ行転呼音の変化)とつながる問題ですが、今回時間もなく、まだ解決していないのでとりあえず上の説明で代用しておきます。
 最後に喉頭化母音の存在を仮定するとうまく説明できることをいくつかあげておきます。(以下は、以前の更新で述べてあることをまとめたたものです。)

1.四段活用にみられるイ音便(例:聞いて)
2.子音sの挿入と考えられている二重語(例:「雨あめ」と「春雨はるさめ」)。
3.「母音音節は、語頭にしか立てない」(例:「加伊」(《万葉集》:「櫂かい」))。
4.浮世絵師の歌川広重が自分の作品に「色重」の名をもじりとしていた。(これは少し前に述べてあります。)など。