特別編


(2014.12.15 更新)



1. まえがき


 20年にもわたり長く疑問を持ち続けてきたチベット語のtshegの問題(注1)を1年前解くことができました。この長い思索の中で中国語上古音再構問題の解決につながるアイディアがわきました。そこで昨年は藤堂氏の「中国語音韻論 その歴史的研究」など中国語音韻関係の本をいろいろ読み考えていました。そしてそれらの本を読むうちにカールグレン以来の中古音再構にみられる考えには多くの問題がひそんでいることに気づきました。そしてその間違った中古音再構が日本語の動詞活用の謎、ひいては日本語の起源の謎を解くうえでの大きな障害になっていることがだんだんとわかってきました。日本語の動詞活用の起源については明治以来種々の考えがだされていますが、いまだ決定的なものが見られません。そこで今回は日本語の動詞活用について書こうと決め本を読み勉強してきたのですが、やはり一度に書きあげることは難しいとわかりました。そこでいつも言い訳ばかりをしてHP更新を待っていただいている皆様に少しでも私の遅々たる歩みを見ていただくために、特別編として「母音融合に対する大野説を疑う」を書いてみます。

2.紅の語源


 上代特殊仮名遣いにおける大野説の問題点を考えるまえに、やさしすぎて何の疑問も起こらないために今まで全く問題にされたことのない「紅」の語源を考えることにします。「呉」は「中国揚子江流域の国名であるが、広く中国を意味することがあり、名詞に直接またはノを介して冠せられ、中国渡来であることを示す」(上代語辞典 1985:276)との解説からわかるように、「紅」の語源は「呉の国から渡来した藍(染料)の意のクレ=ノ=アヰの約」(同書同ページ)であることを疑う人はいないでしょう。しかしこのあまりにも当たりまえすぎる語源説は少し冷静に考えるとおかしいのではないでしょうか。なぜなら助詞ノは上代特殊仮名遣いの乙類ノなので、上の通説ではkure(呉)+n(乙類ノ)+awi(藍)→kurenawi→kurenaiの変化を考えることになります。しかしこの一連の変化が起こるためには助詞ノの母音が消失する必要があり、そのためにはその変化の途上にある種の消失しやすい母音Vを考えねばならないでしょう。つまりkurenawi→kurenVawi→kurenawi(Vの無声化)→kurenawi(:Vの消失)→kurenawi→kurenaiのような変化が考えられるでしょう。しかし上代の記録にみられるのは「久礼奈為くれなゐ」(同書同ページ)ばかりで、それ以前の変化形であるkurenVawiやkurenawiはみられません。また平安時代以後の辞書には「紅藍花久礼乃阿為くれのあゐ:本草和名」や「紅藍久礼乃阿井くれのあゐ、呉藍同上:和名抄」(同書:276,276-7)ばかりがみられます。そこでkureawiのを「平安末期以降に定着した」(中田 昭和47:27)撥音とみて、時代が早く撥音の表記がまだ生まれていなかったためにkureawiの表記がみられなかったと考えることは可能かもしれません。しかしそのように考えてもkurenVawi(Vはuのような消失しやすい母音)の記録が残されていないのはなぜでしょうか。「くれなゐ」の言葉は2−3世紀の三国時代の「呉国」から藍が日本に入ってきた時にできたとみられるとすると、奈良時代以前500年ほどの短期間にkurenVawiの言葉が消失したことになりそうです。しかしそうするとそれ以前に生まれたkurenawi(「呉の藍」)と最後の変化形であるkurenai(「紅」)の言葉は残り、その中間形のkurenVawiはもののみごとに消失したことになり、常識に反するのではないでしょうか。つまりこのように考えてくると、「紅」の語源が「呉の藍」であるとする通説は間違っていると考えられるでしょう。
 「紅」の語源については最後に種明かしをすることにして、動詞活用の問題を未解決にしている母音融合に対する大野説について考えることにします。


3. 動詞活用の問題を未解決にした大野説


 動詞活用の起源はいまだ謎に包まれていますが、日本語の起源を解くうえで避けては通れない重要な問題です。しかし今日まで動詞活用の問題は問題そのものの難しさばかりが喧伝されるばかりで、母音融合に対する大野説と琉球方言終止形の成立を「連用形+居り」とする服部説に問題があると気づく人はいません。前節で「紅」の語源は誰もがそうと考える「呉の藍」ではなく、このようなあまりにも当たり前すぎる考えは真実から遠くなることをみてきました。そこで今回はこれまでまったく疑われたことのない大野氏の母音融合に対する考えをとりあげることにします。しかし大野説の間違いを知り、正しい答えをみつけるためには上代特殊仮名遣いの知識が必要とされますが、上代特殊仮名遣いについて説明する時間はありません。そこで時間のない方は大野氏のわかりやすい簡単な説明(大野 1978:186-192)を、またご存じない方は名著「古代国語の音韻に就いて」(橋本進吉 1980:11-120)を読んでいただきたいと思います。
 大野氏は「奈良時代に区別されていた八つの母音のうち、a・i・u・の四つはもっとも古くからあった母音だったが、e・ë・・oの四つはいずれも合成母音で、史前日本語の中でも新しく(といっても奈良時代より数百年以上前に)成立したものと考えられ」ました(大野 1978:199)。大野氏の考えられた合成母音の変化と日本語の特質を次に引用します(同書:198-9)。 


① エ列甲類eは古形iaから転じた合成母音であった。

② エ列乙類は古形aiから転じた合成母音であった。

③ イ列乙類は古形iまたはuiから転じた合成母音であった(注2)。

④ 母音二つが連続してそのまま使われることはない。(改行)つまり、古代日本語では母音が二つ連続することを徹底して避けるという特性があり、もし二つ連続すると、一方が脱落するか、合成母音に転じるか、あるいは、二つの母音の中間に、何か子音をはさんだ。

⑤ aととの母音は交替することがある。

⑥ オ列甲類oにはua→oという変化を経たものがあり、oも比較的新しい成立だった(原註37)。


*筆者注:①−⑥の項目のみをあげ、途中の文などは省略。

 

 筆者の補足をくわえ大野氏の考えをまとめると、次のようになります(同書:196-9,219-220)。 

①saki(連用形「咲き」)+ari(あり)→sakeri(咲けり)
②naga(長)+iki(息)→nagki(歎き)
 amagumo(天雲)―am(雨)
 akasu(明かす)―ak(連用形「明け」)
③kamu(「神」の古形)+i(古代助詞イ)→kam(「神」)
  ksu(起こす)―k(連用形「起き」)
④介入子音r・y・s
 -iy(都言葉の命令形語尾「よ」)―-ir(東国方言の命令形語尾「ろ」)
 paru(「春」)+s+am(「雨」)→parusam(「春雨」)

   ⑤ana―n(感動詞),ana―n(己),(以下略)

   ⑥kazu(数)+aFë(合へ)→kazuaFë(合へ)→kazoFë(数へ)

*これ以後、上代特殊仮名遣いの表記は松本氏創案による表記(松本 1995:6-7、M.シュービゲル 1982:175-6)にかえ、甲類i・e・oはi1・e1・o1、乙類はi2・e2・o2、甲乙に関係しないイ・エ・オはi・e・oを使用します。なお前舌非円唇半狭母音(/e/)はe、前舌非円唇半広母音(//)は、前舌狭め広母音(/æ/)はæ、前舌広母音(/a/)はa、後舌非円唇広母音(//)は、/e/より広く//より狭い現代日本語のエはE、/a/より後寄りで//よりやや前寄りの現代日本語のアはAと表記します。

 
 さて大野氏は甲類エ(e1)と乙類エ(e2)はそれぞれiaとaiの融合変化によってできたと考えられました。しかし大野氏が疑問さえも起こされなかったこれらの母音融合の考えには大きな問題があります。まずエ列甲類の変化(大野説:ia→e1)を考えることにします。「雪
の道をなづみかも」の動詞「」は「来てここにいる」(例とともに万葉三八三:上代語辞典 1985:283)の意味と考えられるので、ki1(「」の連用形)+aru(有)→ke1ru()の変化を考えるのが穏当です。そしてこのような「「来」の字を助動詞ケリの借訓仮名として用いた例が、万葉中にかなり多くある」(同書同ページ)ことから助動詞ケリを「来ki有aリ」の約と考えることに支障はないと思われます。また「天の原振りさけ見れば照る月も満ち欠けし家里ケリ」(万葉四一六〇:同書同ページ)の歌謡からわかるように、助動詞ケリのケが甲類ke1の「家」で表記されていることから大野氏はkiari→keri(大野 1978:141)の変化を想定されました。しかしここで冷静になって考えてみるとkia(キア)→ke(ケ)の変化よりもkia(キア)→kiya(キヤ)→kya(キャ)のような変化のほうが自然ではないでしょうか。たとえば現代語の「miaい」はくだけた(あるいは気をゆるした)発話ではmiyaiとなることはあってもmeになることはありません。また大野氏は「ニアリは音がつまってナリ」(上書:96)に変ったとされています。そこでもしni+ari→nariの変化が正しいのであれば、同じ上代語の変化としてはki+ariはkeri(ケリ)ではなく、kari(カリ)に変化したのではないでしょうか。もちろん「キアリ」が「ケリ」、「ニアリ」が「ナリ」のように違った変化をしたとしてもその変化の条件が違っていれば何の問題もありません。しかし「ケリ」と「ナリ」に違って変化した条件はあきらかでなく、大野氏はこの重大な相違について何か説明されたわけでもありません。このように考えてくると助動詞ケリが「キ+アリ」から成立したという大野説には疑問がわいてくるでしょう。

 次はエ列乙類の変化(大野説:ai→e2)を考えます。上代特殊仮名遣いのエ列甲類e1と乙類e2について、「「愛」の類は母音のeであり、「延」の類はこれに子音の加わった「イェ」(ye、yは音声記号では〔j〕)であって、五十音図によれば、「愛」はア行の「え」にあたり、「延」はヤ行の「え」に当る」(橋本進吉 1980:140)とみるのが通説です。そこでこの橋本氏のア・ヤ行のエと日本書紀に用いられた万葉仮名の中国語中古推定音との対応をみてみると、次のようになります(馬淵 昭和46:32-5、森博達 1991:65)。

甲乙

漢字音

漢字

橋本氏

馬淵氏

大野・馬淵氏

藤堂氏

/e1/

iiie

愛・哀・埃

ア行のエ

ヤ行のエ

iae1

前舌的

/e2/

ii

曳・延・叡

ヤ行のエ

ア行のエ

aie2

中舌的

  *馬淵 昭和46:32-3、藤堂 1980:164をまとめました。
  *左側は森氏の、( )内は馬淵氏の推定音。

  *:中舌非円唇半広母音(//)。

 上表をみると大野・馬淵氏の両氏は甲乙のエの由来を同じようにia→e1、ai→e2と考えられているのがわかります。しかしその甲乙のエをア・ヤ行のエのどちらにあてるかについては違いがあり、逆になっています。ア行のエを現代音のエと同一視すれば、次節で詳しく考察するようにe1(甲類エ)→je(=e2:乙類エ)→E(現在のエ)のような変化が想定できます(馬淵 昭和46:63)。しかし中国中古音韻研究の成果から甲類エe1と乙類エe2はそれぞれ前舌的なii、中舌的なi(注3)と推定されていて、甲乙のエの変化はi(乙類エ)→ii(甲類エ)→E(現在のエ)のように想定されます。そこで問題になるのは中世のキリシタン文献などでエがyeであらわれることからe1(甲類エ)→je(乙類エ)と暗に考える橋本説(橋本進吉 1980:157-8)のようにeが簡単にjeに変わると考えてよいのでしょうか。また馬淵説は現在のエをeと考えているのに中舌的なiが推定されているという矛盾があります。橋本説と馬淵説のどちらをとるにしても矛盾が出ます。このように同じ中古推定音を採用しても、ア・ヤ行のエの音価推定は橋本氏と馬淵氏では逆になっています。中国中古推定音を同じように採用して大野氏と馬淵氏とのあいだに逆の考えがみられるのであれば中古推定音がまちがっていると考えるのが自然でしょう。しかしカ−ルグレン以来中古推定音そのものは学者によって多少の違いがありますが、ii(前舌的)とi(中舌的)とみることは通説となっています。そこでこの通説を信じれば上の問題は中国語の方に問題はなく、この前舌的と中舌的の違いをア・ヤ行のエのどちらにあてるか、その当て方に問題があると考えられます。しかし橋本説と馬淵説のどちらにも問題があるのであれば、大野氏と馬淵氏が同じようにia→e1、ai→e2の変化を考えた、その変化そのものに問題があるのではないかという考えがでてくるでしょう。
 ところで大野氏は「長息」がnagaiki→nagki(「歎き」)のように変化したとみられて、e2(乙類)はaiに由来すると考えられたようです。しかしこのai→e2の変化には大野氏もさすがに問題があるとして、先に紹介したように介入子音yのアイディアを考えだされ、ai→e2ではなく、ayi→e2の変化を考えられました。しかしこの介入子音yとは何なのでしょうか。上代特殊仮名遣いのエ列甲乙類の違いや「雨」と「春雨」の違いを説明するために考えられた3つの介入子音r・y・s(大野 1978:198-9,219-20)は斬新なアイディアにみえますが、場当たり的なアイディアではないでしょうか。前節で「紅」の語源は「呉の藍」ではないと考えたように、「歎き」の語源は「長息」(nagaiki)であるとみえてもそうではありません。
 「歎き」や「長息」の語源は最後に種明かしをするとして、次節では通説にまどわさることなくエ列甲乙類の問題を考えていくことにしましょう。


4. エ列甲乙類音はどんな音だったのか


 さてエ列甲類e1をiaから、乙類e2をaiからそれぞれ転じた合成母音であったとする大野説には大きな疑問があることがわかるでしょう。しかしここまで通説となってしまった大野説を“間違っている”と声を大にしてHP上で叫んでも聞く耳を持つ人はいないでしょう。そこで大野説が間違っていると叫ぶことはやめて、エ列甲乙類音がどんな音であったかを考えることで大野説の批判とすることにします。
 まずエ列甲乙類の手がかりを求めるために中世の朝鮮資料『伊路波』(弘治5年朝鮮板:1492年)、『捷解新語』(1676年開板)とキリシタン資料(長崎版日葡辞書:1603年刊)を次にみてみることにします。


 

『伊路波』

『捷解新語』

キリシタン資料

‘yi

‘yi, ‘y

ye

kyi

kyi, ky

qe,que

sy

syi, sy

xe

tyi, ty

tyi, ty, ttyi

te

ny

nyi, ny

ne

f‘yi

p‘yi,p‘y

fe

myi

myi, my

me

ryi

ryi, ry

re

‘yi

‘yi, ‘y

 

 

 

*『伊路波』と『捷解新語』は濱田 昭和45:80、キリシタン資料は土井ほか 1980:巻末の「仮名・ローマ字綴り対照表」より作表。

*濁音行(ガ・ザ・ダ行)は省略。

 ところで「現代朝鮮語の京畿方言をもとにして云えば、大体においてyは[e]、yiは[je]を表わす諺文であると云われて居り、現代日本語のエ[e]に最も近いと考えられるものは、むしろiの諺文らし」(濱田 昭和45:81)くみえます。エ列音が『伊路波』では諺文yiで表記されていて口蓋性母音yがみえることから、ラング氏は「十五世紀末(それ以前も)の、すべてのエ列音の母音が、口蓋性を帯びていたと想定」(外山 昭和47:180)されました。この考えはエ列音にウが続くばあい「jeu>jeo>jo:という過程で長音化し」、「EVROPA―エウロパ」が「ヨーロッパ」、「今日(けふ)」が「キョウ」に変化する(kjepu→kjeu→kjo:)(例とともに小松 昭和56:308)ことを無理なく説明できる利点があります。そして上方で成立した二松軒述の『謳曲英華抄』(1771年)で「○江ハいより生す、江といふ時舌に触て最初に微隠なるいの音そひてい江といはる」(オは省略:外山 昭和47:239)という記述がみられることから、「/e/をもった音節は、鎌倉時代には強く口蓋化されていたけれども、十七世紀の初頭には大部分で口蓋化を失った」(馬淵 昭和46:117)と考えてよいとみられます。
 では1500年頃より前のエ音は口蓋性を帯びたyeではなく、単純なeだったのでしょうか。そこで時代を遡って鎌倉時代のサンスクリットのe音について書かれた悉曇書の記述を次にみてみることにします(それぞれ馬淵 昭和46:63,112)。


  『悉曇口伝』(心蓮1181年没):
   「エ者以i穴一呼i而終舌端則成エ音也。」
  『悉曇字記鈔』(宥快1345-1416):
   「故呼ヲ一微細ス二ヲ一。」

 
 上の『悉曇口伝』や『悉曇字記鈔』の記述からエ音は江戸時代の『謳曲英華抄』の「微隠なるいの音そひて」と同じような音、つまり単純なエではなくイェのような音であるとみて問題ないでしょう。そこで先にみた『伊路波』のyiやキリシタン資料のyeの表記と考え合わすと、エは1100年から1700年近くまでyeであったと考えることができそうです。
 では『悉曇口伝』よりはるか以前の平安時代初期のエはどのような音だったのでしょうか。時代を遡って『在唐記』と『悉曇蔵』の記述を次にみてみます(馬淵 昭和46:63,63)。


 『在唐記』(円仁842年)
 「e 短上衣。衣字以本郷音之。」

『悉曇蔵』(安然880年撰述)
 「翳(eのこと)等四声(e ai o auのこと)如二美人碍口呼一レ之。」
 *一レ:一の下にレをあわせてもの。

 
 上の『在唐記』ではサンスクリットのeを上声の本郷音「衣」としていることから平安時代初期のア行のエはeであったと考えられます。そこで中古再構音と『伊路波』・『捷解新語』・キリシタン資料のエ音を比較してみると、次のようになります。

 

上代

1492

1603

1625頃成立

 

中国語推定音

『伊呂波』

『日葡辞書』

『捷解新語』

エ甲類e1

ei(斉開四)

‘yi

ye

‘yi, ‘y

エ乙類e2

i開一)/ui(灰合一)

 

エ1類e

ei(斉開四)/iii(祭開三)

 

*中古推定音は森博達氏の(切韻系)日本書紀α群の推定音(森博達 1991:62-3の表3−5より作成)。β群の推定音は略。エ1類eはケ・ゲ・ヘ・ベ・メ以外のエ列音。
*『伊路波』『日葡辞書』『捷解新語』のエ音は前表より。

 *:中舌非円唇半広母音(//)。
 
 ところで中国語中古音ei(斉開四)はii(祭開三)に、ui(灰合一)はi(開一)に合流したと想定され(森博達 1991:65,1)、「エ列甲類には[-ii]が最も近」く、エ列乙類の母音は「必ずしも[-i]という韻母がぴったり適していたとはかぎらない」(同書:65)が、「中国語では〔〕韻が最も近かった」(同書:64)とみられます。このような中古音推定からエ甲類e1は前舌的、エ乙類e2は中舌的(藤堂 1980:164)と考えることができるでしょう。 
 ここまでの考察からエ音の変化を、次のように考えることができます。

 

上代

平安時代初期

江戸時代まで

現在

甲類

e1(前舌的)

e---------

ye--------

E

乙類

e2(中舌的)

*平安初期は『在唐記』の記述から推定。
*平安中期以後江戸時代まではキリシタン資料のyeで代用。
*e1とe2の区別は「平安朝に入ってからも初の数十年はなお保たれて仮名でも書きわけられていたが、村上天皇(筆者注:946年即位)の頃になると全く失われたようである。」(橋本進吉 1980:155)。


 ところでエ音の変化を上表のように考えた場合、エ甲類e1・エ乙類e2と平安時代初期のe、それに中世のyeとの関係をどのように考えるかが問題となります。現在のエが甲類e1であるとみるなら、乙類が甲類に合流したとみて、e2→e1→Eと考えるのが自然です。しかしそう考えると中世のエが口蓋化音とみられるyeで表記されていることをうまく説明することができません。そこで中世のエがyeで表記されていることを重視し甲類が乙類に合流したとみて、e1(=e)→e2(=ye)→Eのような変化を考えることができます。そして平安時代以後e1がe2に合流するためにe→ie(=ye)のようにiの発生を考えると、このiを中世以後の“隠微なるイ”とみることができ、e1がe2に合流したことをうまく説明できるでしょう。しかし何もないところからiが生まれたと考えることは常識に反します。そうするとこの“隠微なるイ”の発生はどのように考えればよいのでしょうか。e→yeの不可解な変化を現在の国語学界は不問に付していますが、これは考えるに価する問題です。そこで無からiが生まれたと常識に反する考えはやめて、“隠微なるイ”はもともと奈良時代に存在したと考えることにします。そう考えるとe→yeとみえる不思議な変化はie→ie(=ye)であったためとうまく説明できるでしょう。そこでこのアイディアを生かすために乙類e2(=ye)は「中舌的」とみられることから、甲類e1には非口蓋性のIを考え、eであったと考えます。また中世キリシタン資料のyeは口蓋性のieとみて、その後ieは‘隠微なるi’の影響で現在のEに変化したと考えます。このように考えると乙類エe2e→ie(=ye)→Eのように変化したと想定できます。なお甲類エは今のところ不明なので、e1はXeとしておきます。

 少しややこしいので、この考えを図式化すると、次のようになります。


 

『在唐記』

『悉曇口伝』

『伊呂波』

『日葡辞書』

『謳曲英華抄』

 

上代

842年

1181年(入寂)

1492年

1603年

1771年

現在

甲・乙類

短上衣

以二i穴一呼レi而・・・

‘yi

ye

い江

 

e1(=Xe)

ie-----→

ie-------------→

ie---------→ie--------------------→

E

e2(= ie)→

 


 さてこのようにエ音の変化を解いたとしても非口蓋性のeが口蓋性のieに変化したのはなぜか、サンスクリットのeが「短上衣」(ア行のエ)で表記されたのであれば、『在唐記』時代のエはieではなくeではなかったのか、などなど疑問がおこります。これらの問題はのちほど考えることにして、その疑問を解くためのヒントとなるサ行音のセ・シ音について考えることにします。


5. サ行音の問題を考える


 通説ではサ行音は次のように考えられています(秋永 1990:99)。

「当時のサ行音は口蓋音のであった可能性が強い。そしてその口蓋性は徐々に失なわれて室町末頃になると、次にあげるロドリゲス『日本大文典』などのキリシタン資料が示すように、サ行は、sa i su e so、ザ行はza i zu ʒe zoのようになる。現在の京都と異なるのはeとeのみで、関東ではこの頃すでにseになっていたことが知られる。京都では近世初頃からこの変化がぼつぼつ表われはじめるが、この変化が完了するのは明治初までかかりそうである。」


 セについてもう少し詳しくみておきましょう(大野 1974:93)。

「○ xe(シェ)の音節はささやくやうにse(セ)又はce(セ)に発音される。例へばXecai(世界しえかい)の代りにCecai(せかい)といひ、Saxeraruru(さしぇらるる)の代りにSaseraruru(させらるる)といふ。この発音をするので、関東のものは甚だ有名である。(改行)これによれば、シェンシェイ(先生)、ジェンジェン(全然)という発音は、田舎において発達したものではなく、むしろ、室町時代においては都で普通に行われていた発音で、関東の田舎者が、セの〔se〕の発音を始めたことが分る。セをシェならぬ〔se〕に発音することは、関東から始まって、西へ西へと広まって行き、今日では北九州だけにシェが残ったのである。」

 さて上の通説によるとセは関東で早く、その後関西でもeからseに変化したと考えることになります。しかし言語学のどの本にも口蓋化の法則が述べられていますが、非口蓋化を述べた本は見ることはできません。そこで疑問が起こります。中世の口蓋化音eが非口蓋化してseに変わるような変化は本当に起こったのでしょうか。このような素朴な疑問は大事にしなければなりません。中世のセがxeでないとすればシェ(通説のxe)から現在のセ(se)にどのように変化したのでしょうか。そこでこの困難な問題を解くために中世のセはeではなく、eのように聞きなされたsieであったと考えます。セがこのような口蓋化を促進するiをともなっていたsieであればeのように聞きなされて、キリシタン資料でxeと表記されたことをうまく説明できるでしょう。しかしセがsieのような音であればsie→eのような口蓋化が早く起きたと考えられます。そこで口蓋化を阻害する阻害音XをもつsXieのような音を考えることにします。するとキリシタン資料時代のセは関東方言でsXie→sXE→sE、関西方言でsXie→sie→sEに、九州方言はsXie→sie(sieである時間が長かったために口蓋化して)→ʃeのように変化したと考えることができます。そこでこのようにセの変化を考えると、関東方言や関西方言ではいまだ口蓋化音eになったことがなく、現代音sEが生まれ、その反対に九州方言などはいまだsEになったことがなく、sieが口蓋化を起こしてeになった(eとして残存したのではなく)と考えることができるでしょう。
 さて関西・関東方言のsEと九州方言のeへの変化の違いをsieにとどまった時間の長さの違いと考え、sieに阻害音Xを仮定すると関西・関東方言と九州方言の変化の違いを説明できることがわかりました。では阻害音Xとはどんな音だったのでしょうか。この疑問にたいして私が今でも鮮明に思いだす出来事を紹介することでその疑問を解いていきたいと思います。
 沖縄復帰の2年後はじめて沖縄を訪ねました。そしてそこで知り合った友人の彼女が驚いたときに発する言葉「akisamiyoo①(感)あれえっ。きゃあっ。助けてくれ。(以下省略)」(国研 昭和51:110)がとても印象的で、そのアの響きは忘れられないものでした。このaは「ゴホンと咳をするときの、最初の、のどがしまるような感じがする」(柴田 1978:716)音で、aの前の音は声門閉鎖音(//)と呼ばれます。この彼女のアをもし文字化するならば、促音表記の「アッ」よりは「ア」と書くと感覚的にわかりやすいのではないでしょうか。この珍しい声門閉鎖音[](注4)は本土方言の「「あッ」[a]」(服部 1951:28)や「[arimasu]」(「あります」:柴田 1988:631)にもみられ、次のような対立(例:「朝」)が見られます(注5)(柴田 1978:717)。


  「東京 [asa] 
   京都 [asa]」

 
 ところで上代語では母音の連接は非常に忌避されています。そこで語中尾音節に存在していた声門閉鎖音(//)によって母音融合が阻害されたためであると考えてみます。そうすると「櫂」や「妹い」は次のようにの変化したと考えることができるでしょう(注6)。


  「櫂」(加伊):kai→kai

 「妹い」(妹乙伊):imo2i→imoi
  *o2:オ乙類。o2→o(オ甲類)への変化はのちの更新で詳しく考えます。

 「伊」:中古喉音影母全清脂韻4等平声(i)。「妹い」の「い」:古代助詞い

 そこで関西・関東方言と九州方言のセへの変化の違いをsie→sie→sEとsie→sie→eのように考えることができるでしょう。

 次はシについて考えます。京都の泰山蔚の著作『音韻断』(1799年)に「スはシと性格が異なるが、他のサ・セ・ソとは同質のものである。サ・セ・ソは、スア・スエ・スオと発音するのである」(三木ほか 昭和41:138)という記述がみえます。この記述から当時の京都方言ではシとセが異なる聞こえを持っていたことがわかります。またこの泰山蔚の記述と前節で紹介した『謳曲英華抄』(1771年)の「江ハいより生す」の記述を勘案すると、シはiに近い音、セはsieのような音であったと考えてよいでしょう。そこでセで考えたように中世のシとセの違いを口蓋化の有無とみて、シはsii→sii→i、セはsie→sie→sEの変化と考えることができるでしょう。
 ところで現代の関東地方のシの発音について面白い観察がみられます(それぞれ大野 1994a:271-2、國廣 1983:88)。

「シを[i]と発音するのが標準的であったのだが、現在の若者たちの間では、これを[si]で発音する者が増えつつある。」
「とくに若い女性、中学生から高校生くらいの女性の発音を聞いていると、印象だけれども三十%くらいの人が「スィ」[si]という発音になる。「ワタスィ」という発音になっている。」

*これらの女性とは関東地方あたりの女性をさすと思われます。

*若者たちの新しい[si]音の観察は次に少々紹介してあります。

 http://ichhan.sakura.ne.jp/rendaku/rendaku3.html#sagyou_no_chokuonka
 http://ichhan.sakura.ne.jp/rendaku/rendaku5.html#suzume_no_nakigoe


 さて上の大野氏や國廣氏の観察によると、現在関東地方ではシをi(シ)ではなく、si(スィ)のように発音する若者が増えているようです。そこでこの新しい発音siへの変化は口蓋化音iが非口蓋化されてsiになった(i→si)と考えられそうです。しかし先の考察でe→seのような非口蓋化はありえないと考え、中世のセはeに聞きなされたためにxeで表記されたと考えました。そこでこの考えを援用し、関東地方の曾祖母・祖父母のシ音はiに聞きなされていたけれどもiではなく、siiであったと考えます。そしてそのsiiはかれらの生活のなかでXに変化し、またかれらの子である父母たちはそのXを物まねし、その後祖父母や父母たちのシ音Xは生活のなかで現在のʃiに変化したと考えます。そしてかれらから見れば孫や子である関東地方の若者、特に一部の若い女性たちは父母たちからXを聞き物まねし、その後その短い生活の中でsiに変化させつつあるのではないかと考えてみます。このようにシの変化をi→siではなく、sii→X→siのように考えることはあまりにも唐突な考えですが、i→siのようなわかりやすい単純な変化ではあるが、ありそうもない非口蓋化の変化を考えるよりはすぐれているでしょう。

上の考えを曾祖母・祖父母・父母や子・孫の生没による入り乱れは無視し、単純図式化すると、次のようになります。

 

江戸時代

明治    現代

曾祖母・祖父母

sii------→

sii---X----→i

父母

 

     X--→i

子・孫

 

       X→i/si

*シはtsii(上のsii)→sii(上のX)→iのような変化を考えるほうが事実に近いものですが、簡略にsii→X→iのように示しています。なお、詳しくは「「須須」と鳴いた雀はいま-サ行音の問題を解決する その1」を参照ください。
 

6. 中舌母音を考える

 さてここでもう一度甲類エの問題にもどります。e1の変化をe→ye→eと考える通説に反して、e1は口蓋的なi、e2は非口蓋的なをともなっていたと考えます。すると現在のエはe(乙類エe2)→ie(甲類エe1)→ie(中世)→E(現在)のように変化したと考えることができます。では非口蓋的なをともなうeとはどんな音だったのでしょうか。この難しい問題を解くために『在唐記』のe音について考えることにします。
 『在唐記』でサンスクリットのeは「短上衣」(上声:馬淵 昭和46:63)とされているので、e1はサンスクリットのeと全同か相同であったとみられます。しかしここまでの考察ではe1ieと考えたので、『在唐記』の記述と矛盾します。そこでこの矛盾を解消するためにe1を口蓋的なiが前接したieではなく、ある不明のXeであったと考えます。そしてサンスクリットのe(「短上衣」)とXeは相同であったと考え、e1はその後Xに内在していた(Xから変化した)iが顕現化し、ieに変化した(Xe→ie)と考えます。このような不思議なXeを想定すると、e1はXe(=e1)→ie→ie→E、e2e(=e2)→ieのように変化したと考えることができるでしょう。このようにエの甲乙類をそれぞれe1(=Xe)→ye(=ie)→e、e2(=e)→e1(=ie)のように解釈すれば通説のような変化として説明できるでしょう。
 ではこのような不思議なXeとはどのような音だったのでしょうか。この問題についてすぐに答えることは難しいので、まずはe2(=e)にあらわれる非口蓋的なについて考えることにします。そのために東北方言の中舌母音について、次にみていくことにします(服部 1951:97)。

「東北方言のあるものでは「キ」の母音が中舌的な[ɨ]であるが, その舌端の調音は上の[]に近いので, 先立つ[k]の氣音によって[s]に近い噪音を生じる。それを[ks]のように表わすことがある。」

 ところで上の摩擦噪音は方言によっては口蓋化をおこします。そこで東北各方言にみえる摩擦噪音と口蓋化のありようをみてみると、次のようになっています。

1.岩手方言(本堂 昭和57:249)
 「/ki/・/gi/は、中北部地域ではわずかに口蓋化・摩擦化して[kɸ]・[gɸ]となる傾向」がある。しかしそれほど目立つものではない。南部地域は、この傾向がかなり目立ち、[kɸ]・[gɸ]となることが多い」
2.秋田方言(ともに佐藤稔 昭和57:283,284)
 「/i/列の母音はおおむね[]の発音である。」「/ki/は特に「木」[kʽ]「岸」[ks]のように強い硬口蓋摩擦音としてあらわれる。」
3.山形方言(斎藤義七郎 昭和57:314)
 「〔キ〕は口蓋化してkçのような発音になるので、他地方人にチと聞き誤られる」
4.宮城方言(ともに佐藤亨 昭和57:340,343)
 「単音[i]は、中舌母音[]に発音される」「[ki]も[kçi]のように口蓋化する。」


 これらの特徴を簡単にまとめると、次のようになります。

 

岩手方言

秋田方言

山形方言

宮城方言


摩擦噪音







口蓋化

[k][g]
(中北部地域)

k](木)
[ks](岸)
[]
(息)

k(キ)
egi
(息)

 

[k](木)
[kta](北)
[g]
(息)


[k][g]
(南部地域)

 

 

「チョー」(今日)

(置賜・庄内地方)

[o:](今日)

  *例は上引の各書より。

 *岩手方言中北部k地域はが上付き、南部地域のkはkが上付き。
 *口蓋化と摩擦噪音についてはこちら

 ところで上の山形方言や宮城方言にみられる口蓋化は「第二調音として,前舌面が硬口蓋に向かって[j][i]の場合のように,或はそれに近くもち上ること」(服部 1951:134)をいいます。そしてこの口蓋化は中世の京都で「チ」がtiからtʃiに変わったように世界中の言語に普通にみられる音韻変化です。またこの口蓋化は琉球方言の特徴の一つとして、「琉球語の母音組織と口蓋化の法則」(伊波 1974:17-46)(注7)として夙に知られています。
 そこで琉球方言で口蓋化がどのようにみられるかを、「息」(iki1:甲類イ)の例でみてみると、次のようになっています。


 

奄美大島

沖縄本島

宮古

八重山

東北

地点

佐仁

首里

多良間島

小浜島

宮城

「息をする」

ikiu

i:tiisu

iksusi:dubu

()iks(息)

eg(息)

音相

 i

口蓋化音

摩擦噪音

中舌母音

中舌母音

  *奄美大島笠利町佐仁方言:中松 昭和62:307。
  *沖縄首里方言:中松 昭和62:371。
  *宮古多良間島方言:沖文研 1968:2。
  *八重山小浜方言(「/’ik[()iks] (息 「伊企1」 万, 794)」:加治工 1982:94)。
  *宮城県多賀城方言:佐藤亨 昭和57:342。


 上表からわかるように「息」のイは佐仁方言で共通語のイと同じ、首里方言で口蓋化音、多良間方言と小浜方言で摩擦噪音/中舌母音のように違った音としてあらわれています。そこで各方言における口蓋化の強弱の違いを比較してみると、次のようになります。


口蓋化が強い

沖縄奥武方言

kh→)t

硬口蓋摩擦音

秋田五城目町方言

k,

摩擦噪音

宮古多良間方言

k,t,p

山形方言

k

口蓋化が弱い(A

共通語

kh(語頭:有気音)

 *A:「〈日本語の「キ」[ki]の[k]は硬口蓋で,「コ」[ko]の[k]は軟口蓋で発音する〉」(M.シュービゲル 1982:73)。

 ところで奄美大島方言のイは共通語と同じiだけでなく中舌母音のもあり、この中舌母音は奄美の各方言では少々違った音としてあらわれています。そこでその違いを喜界島小野津方言と徳之島亀津方言でみてみると、次のようになります(服部 昭和34:284)。


小野津方言

[mi](目),[ham](甕)

[izu:](溝)

亀津方言

[m:](目)

[mi:](実)

 *:口蓋化された有声鼻音。

 上の対立は小野津方言は非口蓋化鼻音mと口蓋化鼻音、また亀津方言は前よりの中舌母音とかなり後寄りの前舌母音iの違いです。そこで服部氏はこの違いを非口蓋化と口蓋化の違いとみて、次のような音韻論的対立があると解釈されました(同書同ページ)。


小野津方言

/mii/(目)

/mjizuu/(溝)

亀津方言

/m/(目)

/mj/(実)


 そしてその解釈から服部氏は「首里方言で次のような音韻変化のあった蓋然性がおおきい」(同書:285:下表も)と考えられました。

  [i] /mji/ → [i] /mi/
  [m] /mi/ → [i] /mi/
  [i] /kji/ → [ti] /ci/
  [k] /ki/ → [i] /ki/
  [i] /sji/ → [i] /si/
  [si] /si/ → [i] /si/
 
   *
口蓋化されたk

 そこで首里方言のki1(甲類)は口蓋化してtiに、中舌母音ki2(乙類)はのちki(甲類)に変わったとみみられます。そして奄美の各方言や首里方言(また宮古・八重山方言や東北方言)の非中舌母音(口蓋化音)と中舌母音(非口蓋化音・摩擦噪音)はイの甲乙類に対応しているとみることができるでしょう。またイ・エの甲乙類の区別がカ・ガ・ハ・バ・マ行にのみみられることから、服部氏はその理由(注8)を次のように考えられました(服部 昭和34:286-7の概要)。

「/kji/,対/ki/,/pji/対/pi/という音韻的対立よりも、/tji/対/ti/という音韻的対立の方が保たれ難く、両者が合流するか、/tji/の該当する音節の子音が破擦音に変化し/tji/が/ci/に移行する可能性が大きい」
 *筆者注:甲類ki1は/kji/、ke1は/kje/、乙類ki2は/ki/、ke2は/ke/(ヒ・ビ以下も同様)。


 このように甲類と乙類の対立が沖縄方言(首里方言)では口蓋化と非口蓋化の対立として、また東北方言や宮古・八重山方言では非中舌母音と中舌母音・摩擦噪音の対立としてあらわれることがわかります。そこで上代語の甲類エと乙類エをそれぞれ口蓋的i音を内在した、のちieに変化したXeと中舌的Iをともなったとeとしてみることができるでしょう。
 ではXeとeに存在したXとはどんな音だったのでしょうか。この疑問を解く鍵は宮古方言の中舌母音にあります。次節では宮古方言の摩擦噪音を考えることにします。


7. 宮古方言の中舌母音を考える

 強い摩擦噪音をともなうことで知られている宮古方言の中舌母音(注9)について伊波氏の説明は次のようなものです(伊波 1974:24)。

「(・・・前略)東北及び大島・徳之島の(筆者注:口腔の形状が横に著しく平たくなること)はそれほどでもないが、宮古・八重山のは筆者補足)は、舌端のみならず、舌の前縁が著しく口蓋に近づく為に、動もすれば摩擦の響きを伴ふもので、特に破裂音の子音と合して音節を形くる場合には、ps、bz、ks、gzといつたやうに、s zの響くのを感ずる。で、ネフスキー氏は宮古方言を表記する場合には、いつも右(筆者注:上)の如くs zを附して居られたが、橋本進吉氏は音は之を発音するときの口形がz音に近く、たゞそれよりも舌の位置がすこし低いだけの違ひであるから、前の子音からこの音に移る瞬間に、z又sに近い音が聞えるので、その子音の清濁に随つて或はsに或はzに近い音になると言つて居られる。」


また「魚」の発音は柴田によれば次のように分析されています(柴田 1981:16-8)。

「「魚」の音声は,大ざっぱには「ズ」というのに近い。しかし,筆者(筆者注:ここの筆者とは柴田氏、以下同じ)が自分の言語の「ズ」で発音しては決して「魚」にならない。(改行)第1に,筆者はこの語を1シラブルに発音している。この語は明らかに2シラブルである。(中略、改行)第2に,初頭子音が筆者のは破擦の[dz]であるが,この語は摩擦の[z]である。(中略)「魚」全体が2シラブルであるとなると,[z]はこれだけで1シラブルになるような(成節的な)[z](HPの筆者注:zの下線は縦小棒|の代用)である。したがって,[z-u](ハイフェンは便宜的にシラブルの切れ目を示した)のように発音すればインフォーマントは満足する。(中略)この[z]音は、舌先が上歯にくっつかんばかりになって摩擦音を出している。(中略)この方言に中舌母音の[]がある。すると,「魚」の初頭音は/z/と解釈することもできる。(中略)さらに第3として、第2シラブルの母音(中略)[]は[]と書いてもいいような音でもあるので,(中略、改行)以上の3点を注意して発音すれば,「魚」の発音はつねに「合格」する。

 
 そこでこの珍しい中舌母音が宮古島方言のなかの各小方言でどのようにあらわれるのかを次にみてみます。



 

平良方言

多良間方言

水納方言

来間方言

大神方言

池間方言

ip1

:/-

:/-

i:/-

:/-

:/-

i:/-

iwo

u/-

u/zu

idu/-

u/zu

/w又は

u/z

ke2

ki:/-

ki:/psgi

ki:/-

ki:/psgi

ki:/pki

ki:(ky:)/psgi

pi1to2

ptu/-

ptu/
ps
tu

pitu/-

ptu/ptu

ptu/pstu

itu/pstu

to2ri

tu/-

tu/tu

tui/-

tu/tul

tu/t

tui/tui

pagi1

pag/-

pag/
pagz

pagi/-

padz/
padz
(足)

pak/pak

xadz/padz

pari

pi/-

pa/pa

pai/-

pi/pil

pe/p

xai/pa

(mai)

ma/-

ma/ma

mai/-

ma/mal

ma/ma

mai/ma

iki1

ik/-

ik/iks

iki/-

its/itta

ik/iks

ts/dus:

*最左端の漢字の右横のローマ字は宮古方言に対応する上代語の推定音。
*各項の左側は崎山 1963:10(以下、すべて裏ページ),10,10,12,12,12,13,15,9による表記(池間島方言は池間方言)。
*各項の右側は沖文研 1968:-,9,5,18,39,5,7,8,2による表記(池間島方言は伊良部島佐和田方言)。ただし、「魚」は同書:39にもあり(それぞれ-/zu/-/zu//z)。

*平良方言は宮古島市(旧平良市)の方言。他は離島の各方言。
*「脚」「足」は琉球方言でそれぞれ「
(はぎ)」「膝」。「人」の項は「人間」。「息」の項は「息をする」から抽出。
*1720年に池間島の池間村から伊良部島に分村し佐良浜になったために、伊良部島の方言はもとの島の方言と佐良浜の方言に二分されるそうです。また1874年に伊良部島佐良浜と池間島の両村から分村し、宮古島本島内の西原になる(ただし、佐和田と佐良浜とは別村)(砂川 2010:267)。
*伊良部島の「仲地の//は佐和田のに対応する」(「光」の伊良部島伊良部・仲地方言はpkaz、同島佐和田・長浜・国仲方言はpka(例とともに本永 1982:14,15))。
:中国語にみられる非円唇舌尖前母音(//、「知」「吃」など、それぞれピンインzh,ch)(服部 1951:94,100)。
:そり舌側面非摩擦音(沖文研 1968:はしがき)で、「朝鮮語の[mu」〈水〉」:同書:98)。多良間方言の「鳥」のriにあたる崎山氏の表記はで代用。
*l:有声側面摩擦音で、lとの合字(「Zulu語のdhla〈エeat〉のdhl」:上書:154)。

準狭準後舌円唇母音((//:closed omega)。

 このように説明するのも難しく、他の琉球方言話者にとっても発音するのが難しいとされる宮古方言の中舌母音と上代特殊仮名遣いの甲類イなどとの対応を、次にみてみます。


 

奄美 

沖縄

宮古

八重山

 

佐仁

首里

多良間

来間

小浜

ip1

-

-

:(平良)

-

-

iwo

ju

iju@

u/zu

u/zu

idzu

ke2/
pi1ge2

pigi

kii@

ki:/
psgi

ki:/
psgi

ki:(毛)/
ps
(鬚)

pagi1

pagi

hwisja@

pag/pagz(脚)

padz/padz(足)

pai(足・脛)

pi1to2

t?u(人間)

Qcu@

p/ps(人間)

p/ptu(人間)

pstu

to2ri

tur

tui@

tu/tu

tu/tul

tur

iki1

ki?uA

iici?

ik/iks

its/itta

()ik

 *奄美大島笠利町佐仁方言:中松 昭和62:-,326,308,308,315,326,307。
 *沖縄首里方言:国研 昭和51:-,253,320,241,444,526,250。

 *宮古多良間・来間方言の左側は崎山、右側は沖文研(ともに前書より)。来間方言のの無声化音。
 *来間方言のttʃaは「息を」と思われます(沖文研 1968:2)。の無声化音。
 *八重山小浜方言:加治工 1982:-,90,83・97,97,100,100,95の無声化音。
 *平良方言の「飯」は伊波によると(筆者注:ここのはL with tidle(無声歯茎側面摩擦)の代用)(伊波 1974:24)ですが、これは有声側面音(peopleのdark l<暗いl>:服部 1951:110)でしょうか、lもそうですが、耳にしたことのない音なので不明。


ここで上代特殊仮名遣いの甲類・乙類の「イ」と「リ」が琉球各方言でどのようにあらわれているかをまとめると、次のようになります。

 

奄美

沖縄

宮古

八重山

 

徳之島

首里

多良間

来間

小浜

甲類:「息」の「キ」

ki

ci

k/ks

ts/tta

k

乙類:「月」の「キ」

ki

ci

k/ks

ts/ts

k

「鳥」の「リ」

r

i

/

/l

r

*「息」の「キ」と「鳥」の「リ」は前掲表より作表。
*「月」のキは徳之島町徳和瀬方言(中松 昭和62:324)、首里方言(国研 昭和51:144)、多良間・来間方言(左側:崎山 1963:10、右側:沖文研 1968:35)、小浜方言(加治工 1982:89)より。
*首里方言のcは〔t〕。来間のittaは「息を」と思われます。


 上表から共通語のキ(もと甲・乙類)は例外を除き、一般的に奄美方言でki、首里方言で口蓋化音ti、宮古でki/ks、八重山で中舌母音kに対応していることがわかります。そして上表で興味あることは共通語のキ(甲類)が宮古・八重山方言では全く逆にki/ksとkであらわれることです(注10)。

 ここで共通語イに対応する宮古方言にみられる中舌母音(注11)を整理しておくと、次のようになります。

 

歯・歯茎

そり舌

(歯茎)硬口蓋

中舌

 

舌尖前

舌尖中

舌尖後

舌葉-舌面前-舌面中

 

母音

s/z

 

i

(東北)

成節的子音

 

l/l

 

 

 *表作成は中国語の音声学分類(舌尖前・舌尖中・舌尖後母音)をも用いた(佐藤昭 2002:11)。
 *:非円唇舌尖前母音。:非円唇舌尖後母音。sz:摩擦噪音。:中舌非円唇狭母音。
 *l:有声側面接近音。:そり舌側面接近音。l:有声側面摩擦音。


 上表をみてわかるように宮古方言の中舌母音のイは中舌母音や摩擦噪音、あるいは成節的子音と表記され、母音とも子音ともいえる音です(注12)(かりまた 2001:75)。

 ここまで上代の甲乙類エがどんな音であるのかを考えてきました。そして観察者によって中舌母音とみるか、成節的子音とみるかの違いがみられる宮古方言の中舌母音にたどりつきました。そこで宮古方言の中舌母音と甲類エ(Xe)、乙類エ(e)はどのような関係にあるのでしょうか。このまったく見当もつかない疑問を解くためには中国語上古・中古音の知識が必要です。しかし中国語上古・中古音の知識について説明するのは時間的にも能力的にも私にはできませんので、皆さん自身で勉強していただければと思います。

 入門者の方々には次の書物が参考になるでしょう。

1.『中国語音韻論-その歴史的研究-』(藤堂明保著 光生館 1980)

2.『中国文化叢書 1 言語』(牛島徳次ほか 大修館書店 昭和42)

3.『古代の音韻と日本書紀の成立』(森博達著 大修館書店 1991)


 上代のエ甲乙類の音がどんな音であったのか、この疑問を解くためにはまだまだ長い考察が必要です。次回の更新ではこの疑問を解くために役立つ中国語の正歯音の問題を考えます。正歯音をtやtとする推定には問題があり、その正歯音のありようを正しく見定めることでエ甲乙類の正体に迫ろうと思います。その考察はもっと先の更新になりますが、楽しみにお待ちください。
 最後になりますが、有名な有坂氏の言葉を引用しておきます(有坂 昭和32:序ⅲ)。


「中国語音韻史に通じないで日本語音韻史を語ることはできず、また日本語音韻史に通じないで中国語音韻史を語ることは出來ない。」

 筆者注:語句と仮名づかいをあらため、現代風に書きなおしました。


補遺】:「紅」と「歎き」の語源


 後の更新で詳しく考察しますが、「紅」と「歎き」の語源を簡単に書いておきます。「紅」の語源は「呉の藍」ではなく、「呉藍」です。kure(「呉」:は鼻音)awi(「藍」:は声門閉鎖音)→kureawi(Ø:消失)→kurenaiの変化を考えると、上代に「
久礼奈為くれな」が、その後遅れて平安時代以後の辞書に「久礼乃阿為くれのあ」が表われてくることをうまく説明できるでしょう。「呉」の語末鼻音(//)は首里方言の終止形語尾にあらわれる鼻音(「uki=ju「起きる」」:国研 昭和51:550)や八重山「波照間方言でsk-ng「月」;やpato-ngハト」(崎山 平成2:118)にみられる語末鼻音ŋと同根です。→「19.鼻母音の対応について」

 なお、「動詞終止形は「連用形+居り」から成立したとする服部説の間違いを考える」はのちの更新で詳しく考察します。
 「歎き」の語源は「長息」ではなく、「長」の語基(nagX)と「息」(iki)からできた言葉で、nagXiki(乙類)→nagaiki→nagaiki→nageki(「歎き」)の変化が考えられます。このように考えると、上代特殊仮名遣いのエ甲乙類の合流、そして消失の現象をうまく説明できます。X→aの変化については、次々回の更新で詳しく考察します。


【注】


1.  「「shad(l)の前のnga字にのみtsheg()を打つ規則」を考える-チベット語の綴りを考える(その1)」(2013.2.12 更新)
 

2.  松本氏も大野氏と同じくia→e(=e1)、ai→(=e2)、o2i→(=i2)とされます(松本 1995:143)。このような間違った前提から論を進めても動詞活用の謎を解くことは難しいでしょう。

3. 『日本書紀』のα群は「単一体系の中国原音(唐代北方音)に依拠し」「唐代北方音の音韻状況が微細な点に至るまで具体的に反映している」(ともに森博達 1991:51)とみられます。たとえば『日本書紀』27巻126番の歌謡の「愛倶流之衛クルルヱ」の「愛」字(代韻韻去声)同書:228)はα群に属するア行のエであり、その推定中古音はi(同書:292)です。

4奄美喜界島方言には下記のように声門閉鎖音/(//)をともなう無気音キ(ki)と有気音キ(khi)の対立が見られます(岩倉 昭和16:(2)、また伊波 1974:26-30にも)。

   *無気音の「キ」はキ字の上部に小三角印()が加えられています。以下の引用ではキのように表記しました。

「「カ」行音 〔e〕〔o〕から轉來の〔i〕〔u〕を伴ふ〔k〕即ち國語の「ケ」「コ」から轉じた「キ」「ク」の子音は有氣音に發音されるが、本來の〔i〕〔u〕を伴ふ「キ」「ク」の子音〔k〕は無氣音化して「キ」「ク」となり、兩者ははつきり區別される。例へば「コチ」(東風)は「クチ」、「ケン」(劍)は「キン」と發音されるが、「クチ」(口)は「クチ」、「キン」(金)は「キン」と發音される等である。(改行)本來の〔i〕を伴ふ無氣音の「キ」、例へば右(注:上)の例に於ける「キン」(金)の「キ」は、更に轉じて「チ」になる場合が多い。「菊」が「チク」に、「鋤」が「スチ」になる等である」。


 また喜界島志戸桶方言でa:sai(「赤」)、a:tuki(「暁」)、kanajui(「飼う」)(例とともに沖文研 昭和53:57,22,60)。ほかにも八重山与那国島方言の[ta](「舌」:橋本萬太郎 1981:357)や宮古伊良部方言のtaaataa(「高い」:本永 1982:20)にも声門閉鎖音がみられます。そして八重山黒島方言で、「あー・イル[A:-iru]」 赤色」「あ[A]=[H]=[]」(宮良 昭和55:26,25)なので、ka(志戸桶方言の「飼う」のカ)→a(伊良部方言の「高」のカ)/A: (黒島方言の「赤」のカ)のような変化を想定することができます。声門閉鎖音については宮良 昭和57:76-141が詳しい。

  *参考:「上代コの音はhoだったのか?−日本書紀歌謡の喉音字の問題を考える
  

5. 「岩手県の宮古市方言などは、東京語と比べものにならないほど、はっきりした、強い声門閉鎖音が聞かれる。東京語では、この音の聞こえないこともあるが、宮古市方言では必ず聞こえる」。
「…原日本語の母音が喉頭破裂をともなっていたのではないかということは、ゆるされうる仮定である、とだけはいえよう。…(以下省略)」(亀井 昭和38:314)という、母音語頭に声門閉鎖音(//)を考えるアイディアは亀井氏が初めてと思います。

6. 古代助詞イは声門閉鎖音を(/(//)ともなったiと考えると、「尽く+イ」→「月」(tuku+i→tuki2:連用形「尽きるもの」)(大野 1978:204)のように説明できるでしょう。

7. 首里方言についての伊波氏の考えは次のようなものです (伊波 1974:23)。

「eはiにoはuに合併し、従つて所謂五十音図中、エ列はイ列にオ列はウ列に合併して、しかもエ列から来た子音が、原価を保存するに反して、在来のイ列の子音は、口蓋化(パラタリジーレン)(若しくは湿音化)するので、さうした所に、今は区別し難くなつてゐる此の両母音の間に、かつて幾分開きのあつた痕跡が見えてゐる。」

*伊波氏の口蓋化の法則(例:kimo→「cimu」([timu]「肝」:国研 昭和51:154)より16年前にポリワーノフ氏は「iが後続閉鎖音(有声,無声)を破擦音化する」(村山 1981:38,36、また伊波 1974:41)ことに気づいていました例:ika→ica([?it?a]「烏賊」)/ita→ita([?it?a]「板」)(同書:244)。これを村山氏は「ポリワーノフの法則」とよばれています。

*「動詞終止形は「連用形+居り」から成立している」という服部説について簡単に述べます。

 服部氏は琉球方言の動詞終止形がkiku→「ci=cu」([tituŋ]「聞く」:国研 昭和51:146)のように口蓋化したと考えるチェンバレン説を批判されました(服部 昭和34:335-6)。しかし服部説にも問題が多いことは「琉球語の動詞」(服部 昭和34:334-357)を読めば明らかでしょう。そこで服部説ではなくまっとうなチェンバレン説を生かすアイディアを考えてみます。服部説の批判のひとつが上代の「書く」のkuに前接されるiがなく、ポリワーノフの法則が適用できないことにあるので、「書く」のkakuをkakiuと考えます。たとえば「船左須サス」(「船さす」(万四〇六一):上代語辞典 1967:331)や「豆女乎毛天加久ツメヲモテカク」(新撰字鏡)、「書く」と同源の「掻く」:同書:179)のように動詞語尾「う」が有韻uや虞韻uのようにɪをともなっていたとみられることから動詞語尾ウをiuのように考えることは可能でしょう。すると「書く」をkakiuと考え、kakiu→「ka=cu」([katu]:国研 昭和51:300)のように口蓋化を考えることができ、チェンバレン説が正しいとみることができるでしょう。この問題は後の更新で詳しく考察します。なお、上の「書く」には語末鼻音(波照間方言のについては、村山 1981.9:86-92)を付加しています。

8. 上代特殊仮名遣いのイ・エ甲乙は「いわゆる「舌音」の後でi1〜i2,e1〜e2の区別が存在しな」く、オの甲乙(o1・o2)は子音p b m wの後でこの区別が存在しない」(ともに松本 1995:9)という違いがみられます。平安時代に入りイ・エ・オの甲乙が音声的に合流、消失した事実から通説では音韻的に8母音から5母音になったとしますが、これは音の消失を音韻の消失に直結する誤謬があります(同書:130-146)。

9.ネフスキー一九二七c(かりまた 2001:77,83より重引)には「  mixed vowelで、日本東北方言の所謂「変的i」よりは少しback、大島(鹿児島県)のよりは稍frontである。(後者はロシア語ыに同じ。)」との記述があります。かりまた氏のこれに関する注記は「奄美大島方言のɨはネフスキー一九二七cの記述のとおり、ロシア語のыとかなりちかい音声である。また、北村一九六〇とおなじ誤解を崎山一九六三Cも犯しているようである。」とあります。
 *筆者注:(東北・)奄美・宮古方言の中舌母音は人により(特に崎山氏によってはじめてのɿ(非円唇舌尖前母音/ɿ/)の使用)など表記に違いがみられます。「宮古方言の「中舌母音」をめぐって」のなかで指摘されているように(上書:83)観察者による表記の違いには注意が必要です。


10.甲類キ(ki1)が宮古方言で中舌母音の(ki2に対応)であらわれることから、「宮古島方言は上代音韻の原形である」(砂川 2010:8,163(表25-7))という考えが表明されています。筆者とは結果として考えは違いますが、考察の方向性はよく似ています。一読されるとよいでしょう。

11. 国際音声字母表(国際音声学会編 2003:220ほか)を載せておきます。文字化けしますが、詳しく知りたい方は左の本を見ていただけると幸いです。

 

舌尖前

舌尖中

舌尖後

舌面前

舌面中

 

歯茎音

歯茎音

そり舌音

歯茎硬口蓋音

硬口蓋音

 

無声

有声

無声

有声

無声

有声

無声

有声

無声

有声

閉鎖音

 

 

t

d


(=


(=

c

破擦音

ts

dz

 

 

t
(=t

d
(=d

t
(=t

d
(=d

 

 

非円唇母音

 

 

 

 

 

 

 

 

摩擦音

s z

側音摩擦音

 

 

l

 


 

 

 側音接近音 l
(=

 

鼻音

 

 

n

 


(=

 

 

*中国語による分類(舌尖中―舌面中)、閉鎖音・破擦音も書きくわえた(佐藤昭 2002:9)。
*ɿ/:中国語にみられる非円唇舌尖前母音/非円唇舌尖後母音。
sz:摩擦噪音。:そり舌側面接近音。l:有声側面摩擦音。接近音は今回載せませんでした(竹林・神山 2003
](国際音声記号(1993改訂,1996年更新)の表より)。

  

12. 筆者よりお詫び:狩俣氏の文章より引用したと思われますが、今引用元を確認できません。
「(伊波氏と同様の説明は略)特に無声化を起こすような環境のとき,たとえば,pɿsara[pssara]「平良」、pɿtu[pstu]「人」、kɿsɿ[kssɿ]「来る」などのように,強い摩擦音のゆえに,音声的には子音とも見なせるが,機能的には,音節主音として,母音のようにふるまう音である。(以下、略)」
*種々の中舌母音のアロフォン(異音)の解説(下の付図)は津波古 1982:37-43に詳しい。

【引用書】


秋永一枝 1990(新装版) 「発音の移り変り」『日本語の歴史(日本語講座 6)』 阪倉篤義編 大修館書店

有坂秀世 昭和32 『国語音韻史の研究 増補新版』 三省堂

飯豊毅一・日野資純・佐藤亮一編 昭和57 『講座方言学 4 ―北海道・東北地方の方言―』  国書刊行会

井上ほか 2001 『琉球方言考⑦ 先島〔宮古・八重山他〕』(日本列島方言叢書34) 井上史雄・篠崎晃一・小林隆・大西拓一郎編 ゆまに書房

伊波普猷 1974 『伊波普猷全集 第四巻』 平凡社

岩倉市郎 昭和16 『喜界島方言集』(全国方言集一) 柳田國男編 中央公論社

牛島徳次・香坂順一・藤堂明保 昭和42 『中国文化叢書 1 言語』 大修館書店

大野晋 1974 『日本語をさかのぼる』 岩波書店(岩波新書)

大野晋 1978 『日本語の文法を考える』 岩波書店(岩波新書)

沖文研 1968 『宮古諸島学術調査研究報告(言語・文学編)』 琉球大学沖縄文化研究所編 琉球大学沖縄文化研究所

加治工真市 1982 『琉球の言語と文化』 仲宗根政善先生古稀記念論集刊行委員会編 同論集刊行委員会(発行)

亀井孝 昭和38 「第4章 原初の日本語」『日本語の歴史 1 民族のことばの誕生』 下中邦彦編 平凡社
かりまたしげひさ 昭和61.3 「宮古方言の「中舌母音」をめぐって」『沖縄文化』(22−3号) 『沖縄文化』編集所
 *影印複製は下記の本 

かりまたしげひさ 2001 「宮古方言の「中舌母音」をめぐって」『琉球方言考⑦ 先島〔宮古・八重山他〕』(日本列島方言叢書34) ゆまに書房

國廣哲彌 1983 「ことばのゆれ」『ことば』(東京大学公開講座37) 平野龍一著者代表 東京大学出版会
M.シュービゲル 1982(新版) 『新版 音声学』 小泉保訳 大修館書店

國研 昭和51 『沖繩語辞典』(国立国語研究所資料集5) 国立国語研究所編 大蔵省印刷局発行

小松英雄 昭和56 『日本語の音韻』(日本語の世界 7) 中央公論社

斎藤義七郎 昭和57 「10 山形県の方言」『講座方言学 4 ―北海道・東北地方の方言―』 飯豊毅一・日野資純・佐藤亮一編 国書刊行崎山理 1963.9 「琉球・宮古島方言比較音韻論」『國語学』 國語學會編輯 武藏野書院

          *影印複製:『琉球方言考⑦ 先島〔宮古・八重山他〕』(日本列島方言叢書34) 2001 ゆまに書房
崎山理編 平成2 『日本語の形成』 三省堂

佐藤昭 2002 『中国語語音史―中古音から現代音まで』 白帝社

佐藤稔 昭和57 「9 秋田県の方言」『講座方言学 4―北海道・東北地方の方言―』 飯豊毅一・日野資純・佐藤亮一編 国書刊行会

佐藤亨 昭和57 「11 宮城県の方言」『講座方言学 4―北海道・東北地方の方言―』 飯豊毅一・日野資純・佐藤亮一編 国書刊行会
上代語辞典編修委員会編 1967(1985:4刷) 『時代別国語大辞典 上代編』 三省堂
柴田武 1978 「方言コンプレックス」『日本の言語学 第6巻 方言』 柴田武・加藤正信・徳川宗賢編 大修館書店

柴田武 1981 「沖縄平良方言の音韻体系」『藤原与一先生古稀記念論集 方言学論叢 Ⅰ−方言研究の推進』 藤原与一先生古稀御健寿祝賀論集刊行委員会編 三省堂

         *影印複製:『琉球方言考⑦ 先島〔宮古・八重山他〕』(日本列島方言叢書34) 2001 ゆまに書房

柴田武 1988 『方言論』 平凡社

上代語辞典→『時代別国語大辞典 上代編』

砂川恵伸 2010 『上代音韻のミステリー 宮古島方言は上代音韻の原形である』 新泉社

竹林ほか訳 2003 『国際音声記号ガイドブック―国際音声学会案内』 国際音声学会編 竹林滋・神山孝夫訳 大修館書店

津波古敏子 1982 「多良間島塩川の方言における音韻の考察」『琉球の言語と文化』 仲宗根政善先生古稀記念論集刊行委員会編 同論集刊行委員会(発行) 

             *影印複製:『琉球方言考⑦ 先島〔宮古・八重山他〕』(日本列島方言叢書34) 2001 ゆまに書房

土井ほか 1980 『邦訳日葡辞書』 土井忠生・森田武・長南実 岩波書店

藤堂明保 昭和42 「1 上古漢語の音韻」『中国文化叢書 1 言語』 大修館書店

藤堂明保 1980 『中国語音韻論 その歴史的研究』 光生館

外山映次 昭和47 「第三章 近代の音韻」『講座国語史 第2巻 音韻史・文字史』 中田祝夫編  大修館書店

仲宗根政善先生古稀記念論集刊行委員会編 1982 『琉球の言語と文化』 同論集刊行委員会(発行)

中田 昭和47 「第一章 総説」『講座国語史 第2巻 音韻史・文字史』 中田祝夫編 大修館書店
中松竹雄 昭和62 『琉球方言辞典』 那覇出版社

橋本進吉 1980 『古代国語の音韻に就いて 他二篇』(岩波文庫) 岩波書店

橋本萬太郎 1981 『現代博言学』 大修館書店

服部四郎 1951 『音聲学』(岩波全書) 岩波書店

服部四郎 昭和34 『日本語の系統』 岩波書店

濱田敦 昭和45 『朝鮮資料による日本語研究』 岩波書店

平山久雄 昭和42 「3 中古漢語の音韻」『中国文化叢書 1 言語』 大修館書店

古屋昭弘 2010.11 「上古音研究と戦国楚簡の形声文字」『中国語学』 第257号(抜刷) 中国語学研究会(日本中国語学会)

本堂寛 昭和57 「8 岩手県の方言」『講座方言学 4 ―北海道・東北地方の方言―』 飯豊毅一・日野資純・佐藤亮一編 国書刊行会

松本克己 1995 『古代日本語母音論 上代特殊仮名遣の再解釈』(ひつじ研究叢書:言語編第4巻) ひつじ書房

馬淵和夫 1971 『国語音韻論』 笠間書院

三木ほか 昭和41 『国語学史』 三木幸信・福永静哉 風間書房
水谷真成 昭和42 「2 上中古の間における音韻史上の諸問題」『中国文化叢書 1 言語』 大修館書店 *復刻:『中國語史研究 中國語學とインド學との接點』 1994 三省堂

宮良當壯 昭55 『宮良當壯全集 8 八重山語彙甲篇』 第一書房

宮良當壯 昭57 『宮良當壯全集 9 琉球諸島言語の国語学的研究』 第一書房

村山七郎 1981 『琉球語の秘密』 筑摩書房

本永守靖 1982 「伊良部方言の研究」『琉球の言語と文化』 仲宗根政善先生古稀記念論集刊行委員会編 同論集刊行委員会(発行)  *影印複製:『琉球方言考⑦ 先島〔宮古・八重山他〕』(日本列島方言叢書34) 2001 ゆまに書房

森博達 1991 『古代の音韻と日本書紀の成立』 大修館書店

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