番外編2

(1999.12.08 更新)

服部説にたいして感じたことから
ー「首里方言の動詞終止形語末鼻音-ng」の問題について


1.まえがき

 今回は国語学界あるいは言語学界における通説にたいするとりあつかいについて、感じるところを書いてみたいと思います。そこでそのために首里方言の動詞終止形にみられる語末鼻音-ng(=)をとりあげることにしました。

2.通説の紹介

 首里方言の「書く」「読む」の動詞終止形はそれぞれ[katu][jumu](服部 昭和34:334)で、これらに対応する本土方言の終止形はそれぞれ[kaku][jomu]です。ここでわかりやすいように動詞「書く」「読む」の終止形を比較すると、次のようになります。

       書く      読む
本土方言:[kaku]    [jomu]
首里方言:[katu]  [jumu]

 上の比較からわかるように、本土方言では首里方言の語末鼻音-ng(=)がありません。そこでこれらの語末を比較すると、次のようになります。

本土方言:-鼻音ngなし)
首里方言:-ng(鼻音ngあり)

 ところで上の語末の鼻音-ngの有る無しの違いに着目して、故chamberlain氏は「日本語はこの-ngを落とした」(服部 昭和34:337からの孫引き)と考えられました(chamberlain氏のすばらしい考察の簡単な紹介は服部 昭和34:336-7に)。しかしこの語末鼻音-ngの消失という考えにたいして、故服部氏から次のような考えが提出されています。(服部 昭和34:334

「琉球方言の動詞のいわゆる終止形は、「をり、あり」に当る語のほかは、今日の標準語(内地方言の多くのもの)の動詞の終止形「書く、読む」などにそのまま当るものではなく、そのいわゆる連用形「書き、読み」に当る形と「居り」に当る動詞との複合したものである。即ち首里方言の[katu][jumu](「書く、読む」の義)は、形の上からは「書きをり、読み居り」に相当することが、音韻法則の上から証明せられるのである。chamberlain氏・伊波先生(琉球語の母音組織と口蓋化の法則)がこれらを「書く、読む」にそのまま当る形と見て居られるのには賛成できない。……(以下省略)」

 上の服部氏の考えは本土方言の動詞「居り」「有り」の終止形wori・ari(古典語ではラ行変格活用のみ終止形語尾は-i)が首里方言でそれぞれwu・aになっていることから、首里方言の終止形語末の-ng(=)を「居りの残存とみられたものです。服部氏の考察を「書く終止形についてみると、次のようになります。

本土方言:書く(終止形)                       例:[kaku]
首里方言:書き(連用形)+「居
り」(>-ng)→書く(終止形) 例:[katu]

 上の服部氏の考えをひきついでおられる中本氏・大野氏・故村山氏の考えを紹介しておきます。

1.首里方言「書く」の終止形について中本 1990:452
 「…たとえば本土方言と大きく異なるようにみえるEカチュン(終止形)についていうならば,本来,「連用形」に「居り」が結合してできた派生形なのである。これは“書く”だけに限らず,ほとんどの動詞の終止形についていえることである。ただし末尾のンについては諸説があって定まらない
(1)。」

2.那覇方言「咲く」の終止形について大野 1978:208
 「終止形はsatuで、これの語尾のuは「居り」の転じた語と考えられている。つまり那覇方言の動詞の終止形は、動詞の語幹(または名詞形)にヲリという語を加えて成立している。ヲリは「坐っている」という具体的な意味から転じて動作の持続とか存続とかを意味する言葉である。つまり那覇ではヲリ(那覇方言ではu)を名詞形に加えて動詞の終止形を表わしている。これにならって考えれば、史前日本語では動詞の語幹に「坐ル」意のウを加えた。それによって終止形としたのである。」

3.本土方言「茂る」の終止形について村山 昭和54:224
 
sigri-wu-mi>sigri-wu-mu>sigr'umu>sigruu>sigeru

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 このように首里方言の動詞終止形にみられる起源不明の語末鼻音-ng「居り」に由来するという考えが国語学界や一部の言語学者に受けいれられて、現在では通説となってしまった感があります。しかし首里で実際話されている形はそれぞれwu・aなので、これらの鼻音服部説にしたがって「居り」と解釈すると、「居り」「有り」の首里方言形はそれぞれ「居り居り」「有り居り」から変化したと考えなければなりません。しかしこのように考えると本土方言の「居り」「有り」には首里方言形がそれぞれ「居り居り」「有り居り」に対応するということになってしまい、服部説はおかしくなってしまいます。そこで服部氏は首里方言wu・aについては「居り居り、有り居り」からの変化ではなく、直接本土方言の「居り、有り」に対応するという例外をもうけられました。そしてそのためこの例外を説明するために、故服部氏は次のような考えを表明されています。(服部 昭和34:347)

「この二語(筆者注:首里方言の終止形wu・a)に限り終止形が「居り」の複合した形でないのは、「居り居り、有り居り」のごとき複合形は意味上許されないからであろう。…(以下省略)」

 そしてこの「居り居り、有り居り」の複合形がみられない理由として、故服部氏と大野氏はそれぞれ次のように考えられました。

1.故服部氏の考え(ただし、崎山 平成2:118を引用。これは崎山氏による服部 昭和34:347-8」の要約です。)
 「…首里方言の
-ngにたいして、文が終止する息の段階には発音器官が休息の状態にあり-ngが現れたという説明もあるが…(以下省略)」

2.大野氏の考え大野 1978:209
 「いうまでもなく、アリは存在を意味する動詞であるが、それは「現に存在している」「現に持続している」という意味を表わす言葉である。従って、そういう意味のアリの下に、さらに「居る」意のウを加えることは、表現の重複になる。ラ行変格の動詞は、「あり」「居
り」「侍り」「いますかり」の四語しかなく、ヲリは、このウとアリとの結合uari→uori→woriという変化によって成立した語で、本来、坐っているという意味の言葉であった。…(途中省略)…ラ行変格の動詞は本来みな持続の意味を表わすもので、その下にウ(坐)を加えることは表現の重複になると考えられる。従って、ラ行変格の語尾にはウはつかず、名詞形のままの形で終止を表現したのである。」(*先ほどの大野氏の那覇方言「咲く」の終止形についての引用を参照ください。) 

 いま例外「居り」「有り」にたいする、服部氏や大野の弁明をみたのですが、皆さんはどう感じられたでしょうか。私にはとってつけた言い訳にみえますが、いうまでもなく服部の一番の問題点は「居り」「有り」の例外をみとめなければならず、統一的な説明にかけていることです。そしてじっさい「居り」「有り」の例外にたいする服部氏や大野の弁明も説得力があるとは思えません。あたりまえのことですが、原論文も読み通さずに大言語学者の考えられた説を批判することは許されることではありません。しかしそのことは重々承知のうえで、やはり服部説は首里方言の動詞終止形の語末鼻音-ngにたいして統一的な説明を与えていないと、批判することにします。なぜなら服部は古代語の「居り)」、「有り」の動詞終止形の由来ばかりでなく、ましてや日本語とオーストロネシア語族にみられる語末鼻音-ngとの並行的現象もまったく説明できないからです。

3.服部説の批判

 さて上の服部説のどこに論理のほころびがあるかは篤学の方にまかせるとして、「統一的な説明がなされていない」といった批判では「あげ足取り」と言われますので、服部説のまともな批判といってよい崎山氏の言葉を、ここに引用することにします。(崎山 平成2 :118)

「東インドネシアからこのルートを通って琉球の八重山方言にいたる言語で、語末に現在では無意味の鼻音(excrescent ng)を添加する現象がみいだされることが多い。この-ngはもとは定冠詞であったという説もある。
 
インドネシア東北部のサンギル語では(原オーストロネシア語bulu>)bulu-ng「毛」:(inum>inu)inu-ng「飲む」のように語末に-ngが出現する。(ただし出現しない語もあるが、その間の規則はわからない)。ミクロネシア西部のパラウ語では現在も(英語 store→)stoa-ng「店」;Ak mo (ma-kaen>)mnga-ng. 「私は食べる(mnga)だろう」のように、母音で終わる語末や発話の文末に通常、現われる。
 八重山では、波照間島方言でsk
-ng「月」;pato-ng「ハト」などのようになる。首里方言の動詞の終止形に現われる起源不明の-ngもこの線上で考えることができるかもしれない。また首里方言の-ngにたいして、文が終止する息の段落には発音器官が休息の状態にあり-ngが現われたという説明もあるが[服部 一九五九:(三四七−三四八]、もし仮にそうであるとすれば、この現象が出現する地域性をどのように説明すればよいか。
 
オーストロネシア語族のなかでも、このような現象が出現するのは、上記のような限られた地域においてである。語末に-ngが現われる現象は、ニューアイルランド島のクオット語でも認められたが、分類上はパプア語系とされるこの言語も、まわりを完全にオーストロネシア語族によって取り囲まれているため、このような混合化が起こったのである。
 原オセアニア語と古代日本語との間に存在する以上のような並行的現象にたいし、言語類型地理論的にも説明が要求されるであろう。」

 つまり上の崎山氏の言葉にしたがえば、本土方言名詞「鳩」と動詞「読む」をそれぞれ波照間島方言のpato-ng(「鳩」)と首里方言の[katu](「書く」)とに、次のように比較することができます。

          名詞(「鳩」)  動詞(「書く」)
本土方言   :hato      [kaku]
波照間島方言:pato-ng     -
首里方言   : −       [katu]
 *本土方言のh(語頭ハ行音)はpにさかのぼります(p>hの変化については「
ハ行頭子音の変化」をみてください。

 上の比較からこれらの方言の語末に注目すると、本土方言と琉球方言のあいだに、次のような対応があることがわかります。

本土方言:-鼻音ngなし)
琉球方言:-ng(鼻音ngあり)
 *ただし、琉球方言とは、ここでは上の首里方言と波照間島方言をさします。

 つまり上の対応から、日本祖語は語末鼻音をもっていた(ここではいろんな鼻音をしめすために、ngにかえてを使用しています。正しくは語末が鼻母音であったこと)と考えることができます。そしてその鼻音名詞の一部では波照間島方言に、また動詞終止形では首里方言などに残ったのですが、本土方言をふくむほとんどの方言で(ある種の音韻変化をしたため)消失したと考えられます。このように崎山氏の素晴らしい着想をいかせば、首里方言の動詞終止形語末鼻音-ngにたいして、服部説のように「居り」「有り」の例外をみとめる必要がなくなり、「日本祖語は語末に鼻音をもっていたから」と、統一的な説明をあたえることができます。
 なお原論文も読まずに大言語学者の説を非難しているといわれないように、ここで崎山氏の着想をひきついで、私の考えを簡単に述べておきます。波照間島方言の名詞語末鼻音
-ngは連濁を生み、首里方言の動詞終止形語末鼻音-ngは助動詞「ム」と同根です。そしてそれらはそれぞれオーストロネシア語族の連結辞n-と接頭辞m-に対応するものです。この語末鼻音の由来については後の更新時に、「連濁はいつ起きるのか」「動詞活用の起源」で詳しく考察します。(語末鼻音の由来について、いますぐもう少し知りたいかたは「鼻母音の音韻変化について」をみてください。)

4.通説になぜ批判があらわれないのか。

 ところでここまで私は服部説を統一的な説明がなされていないと批判してきましたが、以前上の服部説の存在を知ったとき、この服部説の原論文(服部 昭和34:334-357:付録一 「琉球語」と「国語」との音韻法則 3.琉球語の動詞)を一度読んだことがあります。しかし服部説の考察は非常に詳しく、それゆえにその内容を理解することが難しく、私には最後まで読み通すことができませんでした。しかし今回この「番外篇2」の文章を書くためには、やはり服部説の原論文を読み通したうえで、服部説にたいして批判するのが筋と思い再び原論文を読みなおすことにしました。しかし原論文を読み通そうと再び努力したのですが、やはり今回も途中でなげてしまいました。このように私としては服部説を批判するために原論文を読むことに努力したのですが、その難解さのゆえに原論文をなげてしまいました。(その理由はたぶん私が服部説を納得できないためと思われます。そしてなによりも服部説の論理のほころびがどこにあるかを知るまえに、日本語祖語の語末鼻音の由来に思いいたったことが、服部説を読み通すことを私に難しくさせているのだと思いますが。)
 それはともかく服部説は最初はなんとややこしい論文だなーという感想だったのですが、途中でなげてしまった私には疑問が湧いてきたのです。上にみたように、国語学界の長老である大野氏は「居り居り、有り居り」の複合形がみられない例外の理由を考えておられるので、服部説を認めておられることになります。しかし大野氏や中本氏といった方たちはほんとうにこの原論文を読み通されたうえ、服部説に納得されたのでしょうか。つまりこれは私の勝手な想像ですが、大野氏が服部説に納得されたのは、服部氏ほどの大言語学者のとなえられた説という思いこみがあったのではないかと感じました。つまりそのような思いこみが先入主となったため大野氏は服部説をそのまま認め、服部説による不都合を解消するために「居り、有り」の例外の理由を考えられてしまったのではないでしょうか。
 いま私は勝手な想像をまじえ、大野氏には服部氏ほどの大言語学者のとなえられた説という思いこみがあったのではないかと述べました。もちろん大野氏たちの思いこみと感じたのはそれこそ私の勝手な思いこみで、大野氏たちはきちんと服部説をよまれその内容に納得されたうえ、例外の理由を考えられたのでしょう。しかし今まで服部説にたいして国語学界から批判がおこらず通説のようになっているのをみると、つい「大御所の言説には言あげせず」なんてことがいまでも学界にあるのではと感ぐってしまいたくなります。
 ここで国語学界や言語学界とは何の縁もない街の好事家である私が、学界を相手に声高に何かをいったとしても相手にはされないでしょうから、権威の後ろ立てをかりることにします。アイヌ語と日本語との関係について、服部氏からみて長老である金田一氏の説にたいして服部氏がとられた立場を、著名な梅原氏の言葉によってみることにします。(
梅原ほか 1990:125-6

「…ここで服部先生はたいへんいい立場にたっているのです。金田一先生のようにアイヌ語と日本語を異る言語とすることはできない、金田一先生の説を再検討すべきではないかと服部先生はいわれながら、これ以上進まれようとはされませんでした。
 私はこのことをたいへん残念に思いますが、それは日本の学界の体質とけっして無関係ではないと思います。つまり服部先生がもう一歩進まれたら、金田一説の根本的な否定にいたらねばなりません。それは日本の学界においてはたいへんなことです。金田一京助という碩学が、数十年のアイヌ研究のはてに達した結論──その結論を前提にして知里真志保や久保寺逸彦やその他大勢のアイヌ語学者たちの説が成り立っている、その前提を否定することになるのです。言語学界の第一人者である服部先生がそんなことをされるはずはありません。日本の学界の礼儀にしたがって服部先生はそこで引き返し、この『アイヌ語方言辞典』という一冊の本を、ほとんど唯一のアイヌ語研究の成果として、アイヌ語研究から手を引かれたのです。
 この『アイヌ語方言辞典』についても日本の言語学者はだれ一人、批判をしていません。言語学の第一人者の労作をあれこれ批判することは失礼なことであるからです。しかし率直にいってこの辞典にはさまざまな問題があります。そのことをレフシンさんは率直に指摘されています。服部先生の基礎理論になったスワディッシュの理論がそもそも問題なのです。スワディッシュの二〇〇の基礎単語を選び出し、それを比較して二つの言語の関係を判定するという方法は、レフシンさんのいわれるようにたいへんあいまいなのです。現代語の基礎語と古代語の基礎語はまったくちがいます。その基礎になった方法論もたいへん問題がありますが、またその調査の方法にも問題がありましょう。レフシンさんがいわれるように、もうそのころはアイヌ語を話す人はたいへん少なくなっているときですし、その少ない二、三人の人たちに一つの言葉をどういうかと聞いたとしても、その言葉がはたして、その地方の方言であるかどうかもたいへん疑問であります。レフシンさんの批判はまったく正しいのです。あの辞典にたいするこの程度の当然の批判すら、日本のアカデミズムから生まれなかったことは、まったく日本のアカデミズムの体質を物語っているといえるでしょう。こういう点、私はかえってヨーロッパの学者の率直な発言に教えられるところが多いのです。」

 上の言葉は金田一説にたいして服部氏のとられた立場ですが、上の引用に登場したアイヌ人言語学者である故知里真志保氏が当時の大家に言あげした時のまわりの反応は、次のようなものでした。(藤本英夫 昭57:273

「昭和二十八年十一月十七日の毎日新聞(地方版)に、真志保のこんな談話風の記事がある。

 ぼくはジョン・バチェラーさんのアイヌ語辞典の誤りを指摘しては非人格者とどなりつけられ、恩師金田一博士の間違いを発見したためエチケットをわきまえぬと反撃され、アイヌ語の誤りを植物学の宮部金吾先生の原稿中にみつけて進言したため、またまたおのれの分際をわきまえぬ無礼者と学界から怒られたよ。学界とはオカシナところだなあ。ある権威者、つまり教授といわれる人にすがりついて学位をとる。出世する。そのためなら権威者のシモベに甘んずる。――これが日本の文化をチューブラリンにさせる。

学者、知里真志保の一種の総括とも読み取れる。…(以下省略)」

 いま少しまえの日本の学界の体質をみてみましたが、このような体質が戦後50年もたった現在も学界にあるとは思えません。しかし服部氏が金田一説にたいして言あげされなかったように、大野氏もまた服部説にたいして言あげされなかったのではないかと、つい私は思ってしまいました。そして服部説が現在通説のように扱われているのをみると、おなじように国語学界は長老である大野氏にたいして言あげすることをためらっておられるのではと感じてしまいます。
 ところでいま上で私の勝手な思いこみを書いてみました。(大野氏がそうではない、服部説に納得したうえ例外の理由を考えたと、言われれば謝るしかありません。)しかしこの私の勝手な思いこみがあたっているかいないかは問題ではありません。問題なのは「首里方言の動詞終止形語末鼻音-ngの由来」が「居り居り、有り居り」の例外を認める服部説で説明されていることです。つまり「日本語の起源」を解く上で最重要課題である「動詞活用の起源」の解決のためのヒントを提供をしている、上の「語末鼻音-ngの問題」が通説のように説明されていて、まったく批判の対象になっていないことなのです。また国語学界にこのような批判がみられないことは、国語学界の長老である大野氏が「日本語とタミル語同系説」(『日本語の起源 新版』(大野晋著 岩波新書 1994):『日本語以前』(大野晋著 岩波新書 1987))をとなえられて久しいのに、その批判がいまも起こらないことと同じように思います。大野氏がいまも当時の批判(『日本語-タミル語起源説批判』(村山七郎著 三一書房 1982)などに詳しい)を認められていないので(『日本語と私』 大野晋著 朝日新聞社 1999 p263-272)、大野氏にたいしてその当時の批判をくりかえすことは無意味です。しかし上の「語末鼻音-ngの問題」であっても、まともにその服部説を検討すればそこから大野氏の「日本語とタミル語同系説」の批判となりうるのはまちがいないところです。
 さて私が「番外篇2」となづけ、「語末鼻音の問題」を例にして、大野氏にたいする私の勝手な思いこみを書いてきましたが、他意はありません。私が問題にしたいことは「語末鼻音-ngの問題」にたいする服部説に批判がおこらないことです。つまり日本語独特の現象であると考えられている、「連濁の問題」「動詞活用の起源」「ハ行音の問題」といったものがなぜ、言語学や国語学の専門家といわれる方から考究されないのかということです。「日本語の起源」の問題は、大野氏が「日本語とタミル語同系説」のなかで、「語彙が似ている」「文法が似ている」といっておられるほど簡単な問題ではないのはあきらかです。日本語にたいする眼識、あふれる情熱をもつ大野氏が「日本語の起源」を解くうえでさけてとおれないこれらの問題を解かずに、「日本語とタミル語同系説」へと安易に進まれたことは大変残念なことと思います。
 専門家といわず素人といわず、「
連濁の問題」「動詞活用の起源」「ハ行音の問題」「語末鼻音の問題」といった日本語そのものを考究される方々があらわれ、「日本語の起源」が解ける時の近いことを願って、この「番外篇2」をとじることにします。
      2000.1.12  ichhan
 追記:前回の更新がままなりませんでしたので、2回にわたりました。